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ヤシの木天国への道

テキスト提供:小澤俊夫さん

 

  
 ある畑に年をとった夫婦が住んでいた。夫婦の住んでいる小さな家は、畑のほったて小屋といったほうがいいようなものだった。畑は大きくなかったが、そこからの収穫でつつましく生きていくことはできた。畑は町からはもちろん遠く離れていたし、村からも離れて森の近くにぽつんとあった。年をとってもいたので、静かな生活をしている間に、ふたりの老人の心にある願いが芽ばえた。いつか死ぬときには天国へ行けるように、コーランを学んで、信仰を深めたいと思ったのだ。
若いころは生活のためにうんと働かなくてはならなかったから、それまではコーランを学ぶ機会はなかった。死が近づいてきたので、ふたりはあの世のことや、ほかのひとから聞いた地獄の責め苦のことを思うようになった。

台所に座って火にあたっていると、おじいさんはよくおばあさんに低い声で言った「ああ、わしらはいつになったら宗教学校へコーランを学びに行けるだろうね、ばあさん」。そうすると、かまの火を強くするためにまきをたしながら、おばあさんは答えた「ええ、信仰に対して目をつむって生きてきたのはわたしらのきめられた運命だったんだよ。そうするうちにこんなに年をとってしまった。そろそろコーランを学ぶときでしょうねえ」。「わしもそこを考えていたんだがね。わしらはいつになったら、コーランを学びに宗教学校へ行けるだろうね?」  「でもわたしらが宗教学校へ行ってコーランを学ぶとしたら、いったいだれが畑を耕すんです? それにだれも畑を耕さなかったら、どこから食べ物を手に入れればいいんです?」  「それはもっともだ」と夫は答えて考え込んでしまった。コーランを学ぶのは無理かも知れないと思うと、おじいさんは悲しそうな顔をした。

しばらくふたりは黙って、ちろちろ燃える火を見つめていた。火にかけてある湯はわきはじめた。突然おじいさんが頭をあげて、妻の顔を見ながらきいた「わしがひとりで習いに行くとしたらどうだね。おまえはここに残って畑を耕すんだ」。おばあさんは気乗りのしない目をおじいさんに向けると、こう言った「おまえさんは本当にずるいよ。ひとりで天国へ行って、そこで四十人もの若い天女をもらおうと思ってコーランを習うんだね。わたしはここにひとりでとり残されているうちに、きっと地獄のいけにえだ。いやだ、いやだ、わたしはおいてきぼりにはならないよ。いっしょにコーランを習いにいったほうがましだよ」。

おじいさんは考え込んだ。そして、うなだれていた頭をまっすぐにすると、ため息をつきながらこう言った「それはたしかにそうだ。もしふたりで習うとなると、畑は耕せないし、畑を耕すと習えない」。「そのとおりよ。そんなら、いったいどうするのが一番なんでしょうね?」 またしばらく考え込んでからおじいさんが言った「こうすればかんたんだよ。おまえがひとりで習いに行くんだ。すこし勉強したらここへもどってきてわしに教えとくれよ」。「どうしてわたしがひとりで行かなきゃならないんです? わたしを追い出そうっていうんですか?」 泣きそうな声でおばあさんは言った。

そのとき、外でだれかの声が聞こえた「ごめんください」。「はい、どうぞ」とおじいさんは答えた。「いったいどなただね? さあお入り」。そう言われると、数人のお客が入ってきた。それはちょうど宗教学校からもどってきた生徒たちだった。あいさつがすむと、お客たちは、ひろげた、すがすがしいむしろに腰をおろすように勧められた。おばあさんはお湯をわかしたり、だんごを作ったりで忙しかった。

その間おじいさんは見知らぬ客と向かいあって、どぎまぎしながら座っていた。今まで家に客が来たことなどなかった。口ごもりながらもすぐにおじいさんはたずねた「いや、いや、あんた方がいらしたんで、わしらは本当に驚きました、だんな方。わしらだけで住んでおりますと、おわかりでしょうが、お客さんなんてめったにないんですよ。この人里離れた、ぶっ倒れそうな小屋にひょっこりいらっしゃるなんて、だんなさん方、どちらからいらしたんで?」

 客のひとりが答えた「わたしたちは、勉強を終えてちょうど学校を卒業してきたところです。家はまだまだ遠いのですが、おべんとうを全部食べてしまいました。すると偶然にこの家から煙があがっているのが見えたのでお寄りしたのです」。家の主人は、お客たちが宗教学校の卒業生だと聞くととても喜んだ。おじいさんは台所で忙しく働いていた妻を呼んだ「ばあさん、だんなさん方は本当に高潔な方たちだよ。急いでお湯と食べ物をこっちへ運びなさい!」

  「ちょっと待ってくださいよ。そんなに急いでどうしたんです。おだんごがまだなんですよ!」  「じゃ、お湯だけでも持ってこいよ、ばあさん」とおじいさんが言った。「これはありがたいことだよ。わしらのお客さん方はみなさん宗教学校の生徒さんだったんだよ。ちょうど勉強を終えていらしたところなんだよ」。「なんだって、みなさん宗教学校の生徒さんかい」と台所からおばあさんが叫んだ。おばあさんの声には大きな喜びがあふれていた。「なんていう幸せ。こんなことってないわ! きっとのどがかわいているだろう、わたしの子どもたちや。しんぼうしておくれ。もうちょっとでお湯の支度ができるからね」。

生徒たちは、このいなかのひとたちの非常な喜びようを見て驚いた。生徒たちは顔を見合わせた。そしてひとりがたずねた「わたしたちがお客になって、どうしてあなたたちはそんなにうれしいんですか。おじいさん、わたしたちはあなた方のおじゃまじゃないのですか?」 おじいさんは笑って「ああ、まったくそんなことはないよ、お若い方がた。お湯はもう火にかけてある。それにだんごはわしらが植えた麦のものだよ。あんた方のようなお客さんが来てくれて、わしらは本当にうれしいんだよ」。「どうしてですか?」  「それはな、お若い方がた、あんた方がたった今コーランの勉強を終えて帰ってきた生徒さんだからだよ」。

お客はまだ分からなかった。家の主人に重ねてたずね、説明してくれるように言った。笑いながらおじいさんは答えた「わしらはもう年だが、信仰のことについてはよく知らんのじゃ。わしらはコーランの勉強をしようと思ってる。しかし畑を耕さなくてはならんもんで、それができんのだ」。そうするうちにお湯がわいた。そしてコーヒーとできあがっただんごをそこにおいて、「どうぞ、まずはお飲み、子どもたちや」とおばあさんは、うれしそうな声で言った。

お客たちは本当におなかがすいて、のどがかわいていたので、まだ湯気のたっているご馳走を待ちかねたようにふーふー吹いた。食べ物が冷えるのを待っている間に、またひとりのお客がたずねた「おじいさんとおばあさん、なんのためにあなた方は今になってコーランを学びたいんですか。もう遅すぎやしませんか?」

 おじいさんは答えた「それはこういうわけなんだ。わしらはもう年だ。小さい時分から、わしらには学校でコーランを学ぶ機会がなかった。今ではもう年だし、もうすぐお墓へ行くことになる」。「はあ、でもどうしてコーランが学びたいんですか」。「わしらは地獄へ行くのがこわいんだ。天国へ行きたいんだよ」。この説明を聞くとお客たちは声をたてて笑った。口の中のだんごやコーヒーをぷっと吹き出してしまった。

いくらかおさまったとき、仲間うちでいちばん軽はずみだとされているひとりの生徒が笑いながら言った「ただ天国へ行きたいだけなら、いったいなんのためにコーランの勉強をするんだい、じいさん」。「そうしなければどうしてわしらが天国へ行けるかね、お若い方」。何かおかしなことでもあったようにお客たちが笑うのを見ておじいさんは驚いて言った。

軽はずみな生徒はさらにこう言った「この畑のまわりには空までとどく竹やぶがありはしませんか?」 おじいさんとおばあさんは同時に答えた「ありますよ、その通りだ」。「それが天国への道なんだよ。あんた方が天国へ行きたいんなら、竹のてっぺんまで登らなくちゃならない。その竹のてっぺんがまっすぐ天国の入口の階段につながっているんだから」。

「おお、アラーの神よ。そうとは思わなかった。そんなことは考えたこともなかった。たしかにあの竹はただの竹じゃない。ばあさん、わしらの目は生まれつきのふしあなだよ。何十年もここに住んでいるのに気がつかなかったなんて!」  「わたしたちは生まれつきまぬけなんですよ。わたしたちは、こんなに近くにいるのに、それなのに気づかなかったなんて!」  「でも、今、わかったよ、ばあさん。子どもたちに教えられたよ。まだ年も若いのに本当にかしこいねえ。すぐ行ってみるのはどうだい?」  「はいはい。わたしたちはもう年です。それに今じゃ天国への道がわかったんだもの。このうえまだ何を待つんです。行きましょう!」 うれしそうに妻が言った。

他のことは気にもとめずに、年おいてしなびた夫婦は急いで家を出て、お客が言っていた竹やぶへ向かった。おじいさんが先に立っていき、おばあさんが後から追った。ふたりのうしろからは、声をたてて笑いながら、ふたりのようすを見物しながらお客たちが続いた。お客はいなかのひとをじょうだんでうまくからかえたのをおもしろがっていた。

 脇目もふらずに、おじいさんとおばあさんは高い竹に登った。苦労してふたりはつるつるした幹を登るのに成功した。時がたつにつれて高く高く登っていった。ほとんどてっぺんにとどきそうなとき、下から生徒が叫んだ「じいさーん。ばあさーん。鳥があんたらの畑を食い荒らしてるよ!」 おじいさんとおばあさんはあたりを見回したりしなかった。ただ答えだけが聞こえた「それならそれでいいよ。いつかはやられるんだ!」 そうこうするうちにふたりはどんどん高く登っていった。

ふたりの体の重みで竹のてっぺんはたわんだ。風が当たるとしなって折れそうだった。けれどもふたりの老人は一心に信じこんでいた。ちっともこわいとは思わなかった。そしてとうとうてっぺんについた。そのとき、突然、風が猛烈に吹いた。ふたりはあっちこっちと揺さぶられて落っこちそうになった。それからすぐに風はおさまった。するとふたりの体は消えうせてしまった。そこにはもうふたりはいなかった。どこへ行ったのかわからなかった。

見物していた生徒たちは、おじいさんもおばあさんも落ちてこないで、消えてしまったのを見て驚いた。あっけにとられて、生徒たちは顔を見合わせた。あのお調子ものの生徒がまたまっさきに口を開いて仲間にこう言った「ちょっと見てみろよ。この竹やぶは、本当に天国の階段へ行く道だぜ。ふたりは消えちまったよ。あのひとたちのあとについていくのがいいと思うな」。「天国への道がわかったら、地上でこれ以上生きてなきゃならないわけはないだろう」。べつの生徒が言った「それがいい。ぼくも行くぞ」。

ふたりが竹やぶへ走っていくと仲間全員がそれを追った。だれもあとに残ろうとはしなかった。生徒たちは競って竹に登った。ずいぶん高くまで登ったとき、また風が吹きだした。そして竹のてっぺんがしなった。やっとの思いで生徒たちは幹にしがみついた。落ちるのがこわくて、お互いに目を見合った。目はきょろきょろしていた。生徒たちの望みは消えてしまった。目はおろおろしていた。くちびるはふるえていた。体じゅうの毛がさか立ってしまった。生徒たちは叫んだが、その声はもはや人間らしい声ではなかった。みんな猿になってしまった。そして木から降りて畑の作物を荒らした。

 


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