<バリの民話> 前のお話 次のお話

ヤシの木クボ・イオ

テキスト提供:渡辺(岡崎)紀子さん

 

「むかし、バリ島には人間の形をした生き物がいてな、クボ・イオと呼んでおった」と、老人は誇らしげに孫たちに話をします。そして、「………………………だから、あの二つの丘は向かい合っているのさ」というと、こどもたちは目をまるくします。幼い頭には、そのクボ・イオという生き物がどんなに大きなものだったかが、想像できるのです。

バリ島の人々はみな、クボ・イオは小山ほどの大きなからだと、バリ島で一番大きな川の、その流れの強さ位 の力持ちだと思っています。

この話は、バリ社会で今もなお生きつづけており、飽くことなく語られています。そしてどんな話し手でも、村の近くにある大きな建物や、堤防をさして、クボ・イオが造ったというのです。遠いむかしのことで、誰が造ったかわからない古めかしい建物はもちろん、奇妙な形をした山や河も、クボ・イオが造ったものといいつたえられています。崩れたプラ(一種の神殿)なども、おそらく地震か地滑りが原因なのでしょうが、やはりクボ・イオが手を下した、といいつたえられているようです。バリ島全土にこの種の建物や自然があるわけですから、その土地、土地によって話もいろいろで、何十、いや、何百ものクボ・イオ伝説があります。そのためまとまりのある話はあまりなく、大部分はクボ・イオの生存中、手がけたと思われるもののいきさつを語りついでいるにすぎないようです。ただ、クボ・イオの死に関する話は、バリ島どこでもおなじような内容になっています。

クボ・イオの性質については、あいまいです。ある話では人に対して非常に親切で協力的な人物として語られ、他の話では、野蛮な人物として登場します。また、彼は優秀な農業技術者であったといわれたり、建築家であったともいわれたりします。また、たいへん敬虔な神の崇拝者であったという話もあります。しかし彼の愚鈍な点は、民話研究者が最も共通 してとりあげるテーマです。彼の愚かさが彼を気短にもし、またそれゆえに人びとに愛されもしたのです。彼の腕力は彼を破壊者にも、建設者にもしました。この点もバリ島の民衆は忘れ難かったのでしょう。クボ・イオは ありのままの姿で語られてきました。この民話を支えてきたのは、幼いこどもたちや、としよりばかりではなく、知識人たちでさえ語りついで来た、ということが数多くの話からわかります。例えば小さなこどもが美しい彫刻のモチーフや堤防の偉大さにそれほど感動するはずはありません。美しい彫刻や、りっぱな堤防、渓谷の岩に彫られた建物や装飾は、灌漑技術者や建築家、あるいは彫刻芸術家をかならず驚嘆させる面 をもっています。これらの人々の讃辞は、架空のクボ・イオに直接向けられたわけではありません。がともあれ、クボ・イオの話を好んでしたのは、こうした驚嘆者の彼らだったといえるでしょう。クボ・イオの技術は、むかしも今も、無意識のうちに、バリ人の 人生にとって理想的な財になっていたのです。

 

さて、クボ・イオ伝説のうち、最もよく知られているものをご紹介しましょう。

 

クボ・イオがいつごろ生まれ、先祖が何なのかはわかりません。ただ、大人の人間と同類の生き物だったようです。頭の弱い彼は、生きるために必要な量 の食物さえあればよかったのです。彼が村から村へ歩くと、そこには仕事と食物が用意されていました。彼の一回に必要な食事には千人分もの量 が必要で、村人がおたがいに出しあっていたのです。村人は個人的にはクボ・イオの労働をつねに必要としていたわけではありません。ですからクボ・イオには仕事のない時もありました。とはいえ、彼は食べないでいるわけにはいきません。バリの人びとは、クボ・イオがはたらかないで食べ物をほしがることをうとんじたわけでなく、問題は、米倉の米が収穫前になくなってしまったことに始まります。社会性に富んでいるバリ人でも、自分自身のことも考えねばなりません。ただでさえ自分自身のおなかを満足させることはできなかったのです。

クボ・イオは頭が弱く、単純ですから、自分の面倒をみてくれる村人たちの直面している悩みがわかりません。彼はほしいだけの食物をねだり、もっと働くから、と約束します。悲しいかな、何といわれようと村人は彼の願いを聞き入れるわけにはいかなくなっていたのです。それは無理というものでした。村人はしばらく様子をみることにしました。

空腹はだれにとっても最大の敵です。だからといって村人にはクボ・イオにやるだけの食物はもうありませんでした。クボ・イオが突然暴れ出し、村中が混乱に陥いりました。神聖な建物や村人の家がメチャメチャにこわされました。

クボ・イオのひと踏みで谷がくずれ、新しい堤ができました。大きく窪んだ足跡はやがて川になりました。クボ・イオの足跡の一つが今でもタンパクシリンと呼ばれる村に残っています。傾いた足跡(Tamak miring)という意味です。クボ・イオの足の指は、村人の家を破壊し、ペチャンコにしてしまいました。村人は神をまつってあるプラ(Pura)さえこわされなかったら、おそらくこれほど悲痛な思いをすることがなかったでしょう。村人の怒りは、彼らのプラがこわされたということでおさえきれないものになりました。彼らは神がみの加護を信じ、クボ・イオにたち向かう勇気をふるいおこしたのです。

ただちに緊急会議の合図がなりました。会議ではいかにして強敵にとりくむかを検討しました。村長の一人は、「クボ・イオを空腹にさせておけば、必ず死ぬ 」といいました。結局村人は辛抱することで、クボ・イオに抵抗することにきめ、会議を終了しました。つまり今のことばでいえば、受身の立場、非暴力で敵を服従させることでした。

村人の予想はすっかりはずれました。クボ・イオは空腹はいやでした。生きるためには食べなければなりません。彼はもう人間性を失いかけており、村人を襲ってはつかまえました。一度に二十人から三十人をわしづかみにすると、丸のみにしてしまうのです。クボ・イオは人間を食べない、とばかり思っていた村人は、はじめてその誤りに気づきました。人間ばかりか、大きな牛はもちろん、生まれたばかりの子豚ややせ豚などの家畜まで、とにかく手あたりしだいに手をつけるのでした。村人の恐怖と不安が高まったのは当然でした。生きているものはみなえじきになるのでしょう。

再び緊急会議の合図がなりわたりました。あらたな策を強行にとらねばなりません。

村長は会議の席上、すでに多くの住民と家畜がクボ・イオのえじきになったこと、家屋や田畑、堤防やプラなど多大の被害を受けたことを報告しました。しかし全面 的な闘いを起すべきだ、と潔く提案するものはいません。すると、村人の心情を知る老人がおもむろにいいました。「わしたちは偉大な神に知恵を授った人間です。ゆえにどんな時でも、その知恵を最大に利用すべきです。みなは戦闘を望んでいる。だがよく考えなされ。みんなの勇気や力などクボ・イオにとってどれほどの意味があるか。確かにやつをこのバリから追い払うためにこうして会議を開いているわけだが………………」

「結論を早く。じれったいな」と若者の一人が老人をせかしました。

「君は何かいい考えがあるのですか」と村長がたしなめました。

「まあ、いいでしょう、内輪もめしている場合ではありません。わしに提案があります。賛成していただければ………………………」とさきほどの老人がいいました。

ついに会議は、ある策略をもってクボ・イオに対処することに決定したのです。

そのころ、クボ・イオははらを満たして、おとなしく横になっていました。人間らしさをとり戻したようです。狂暴さが消えた顔は赤みをおび、人間と家畜の血で洗ったくちびるは、薄笑いを見せています。様子を見に行ったものが、今が絶好の機会だ、と伝えました。こうして数人の使者がクボ・イオの所へ出かけて行きました。そして、クボ・イオは何事もなかったかのような笑顔で彼らを迎えたのでした。話しあいがすぐに始められ、クボ・イオの同意を得ました。それは次のような内容のものでした。

 一、クボ・イオは自分で破壊した堤防、家屋、プラを造りなおすこと。
 一、米の収穫をあげるため、新しい灌漑用の井戸を掘ること。
 一、家畜や財産の弁償は免除する。
 一、クボ・イオに今まで以上の食べ物を与える。

 

こんなわけでクボ・イオにこわされたものはすべて、一週間もかからぬうちに、新しくなりました。村人たちは壁を塗るための石灰を集める協力をしただけでした。同意事項のひとつを終ったクボ・イオは、引き続き井戸を掘る作業にかかりました。それはバリ全土の水田に水を引くために充分な井戸なのです。今の人にはあきれる話ですが、クボ・イオは何の道具も使わず、自分の手でバトゥール山のふもとの地面 を掘ったのでした。どんな力の持主でも、この井戸掘り作業には、一ヶ月はかかるだろうと村人は考えていました。いかに深くて巨大な作業を村人が依頼したか、おわかりになるでしょう。クボ・イオは井戸掘りを続けました。地の底へ、地の底へとだんだん掘り進んで行きます。クボ・イオの姿が見えなくなると、村人は用意した石灰を積み上げはじめました。クボ・イオは地下から顔を出した時、そんなに多くの石灰をどうするのか、とたずねました。村人は、「あふれる水をムダにしないためには堤防が必要なんだよ。灌漑がうまくゆくんだ」と答えて、さらにこうつけ加えました。「石灰の一部は、おまえのご苦労分として、おまえの住家に使うつもりだ」

クボ・イオはすっかりうれしくなりました。自分の家なんて考えてもみませんでしたから。いつもはねむくなった所で寝ていました。丘の上とか、広い河岸とか、ある時は草原がねぐらになりました。

クボ・イオは食べ物を腹に入れると、また作業を続けに堀かけの井戸へおりて行きました。ところが腹がいっぱいだったので、すぐに仕事にとりかからず、横になるといねむりをはじめたのです。

井戸といっても湖ほどの大きさがあるので、上にいる村人たちは、クボ・イオが下で働いているのかどうかよく見えません。

クボ・イオは一週間以上も上へあらわれませんでした。あるものは、彼は土に埋もれて死んだのではないか、と思い、あるものは、壁を塗ってやると約束したのでよけいはりきって働いているのだ、といったりしました。

突然のこと、青空にとどろきわたるような音がして、人びとは、はじめてクボ・イオがぐっすり寝入っていることを知りました。その音はクボ・イオのいびきだったのです。深い井戸が何百倍も大きく響かせたのでしょう。人びとは、クボ・イオは地球の中心まで達したのではないか、と思いました。

村長がみんなに合図を送ると、石灰が井戸の中へ流し込まれました。すると地下からわきでた水につかって眠っているクボ・イオの姿が見えました。彼は何も感じていないようです。村人の必死の作業で、石灰はクボ・イオの脚を埋めていました。みんなは彼に気づかれないように神経を使いました。やがて石灰はクボ・イオの体をかくしていきました。それが彼の鼻の下まで達した時、人びとは計画がクボ・イオに気づかれたことを感じとり、どよめきました。クボ・イオは息苦しさに眠りからさめ、何か胸のあたりに痛みを感じたのです。

欺かれたと知ったクボ・イオは怒りました。目を大きく見開き、狡猾な人間どもを憎憎しげに見すえました。彼は井戸からはいあがろうとしました。があいにく体を埋めた石灰は水に溶け、固まってきたのです。この様子を見て、人びとの騒ぎは静まりました。そして石灰が再び投げ込まれ、クボ・イオの体は完全に見えなくなりました。彼は生き埋めにされるのです。

村人は敵が身動きできなくなったことを確かめると興奮しました。クボ・イオの、やがて見えなくなる目には、観念の色がただよい、まるで静かに死を待って、神のもとに行く人間のようでした。彼が水面 から消えた時、息がとぎれました。クボ・イオの魂の旅立ちに従うかのように、水面 は次第にあがってきました。ついに巨大な井戸の水はあふれ出て、地面をはって、四方に流れました。そしてだんだんと幅広い流れとなり、やがて湖を形づくっていったのです。この湖はのちにバトゥール湖と呼ばれるようになりました。(バトゥール山のふもとにあります。)ここから大きな河が流れを発し、バリ島の南を流れて、あたかもクボ・イオと村人の協定に従ったかのように、バリ平野の大部分をうるおしているのです。

こんなわけでバトゥール湖は、今でも危険視されています。クボ・イオの魂の呪いなのでしょうか、この湖のほとりにむかしから住んでいる人びとの話では、すでに多くの人が、崖から落ちて沈んだり、舟が湖の沖でひっくり返ったりしているというのです。ここの人びとはまた、クボ・イオが自分たちの土地で生まれ、ここに住み家をもっていたのだ、と得意げにいいます。その住み家といわれるクボ・イオの寝所は、バリ島で最も古くて長い建物です。クボ・イオは石造で円錐形の形をしたこの村の聖なる場所の建設者ともみられていて、そこの彫刻は大へん原始的なモチーフをしています。

スルルン、バトゥカアン、チャトゥルには、クボ・イオが手の指のつめで完成した遺跡が数多くあります。

バンリの近くでは、クボ・イオは優秀な灌漑用水家として知られています。彼はサンサン河の流れをせきとめるために、バンリとデムリの二つの丘を背負ったのだそうです。しかしその作業は、かつぎ棒が折れたために、失敗しました。そんなわけでクボ・イオはそのかつぎ棒に呪いをかけて、建築用として使えないようにし、またそれをかついだものは危険に会うようにした、といわれています。いまの人びとでも、この呪いをかけられたケロル材を建築材として使いません。そしてこの木はへびをころすのにききめがあるといわれています。

タンパクシリンにあるカウィ山にも、クボ・イオの残したプクリサン河があります。この河の両岸は岩で、クボ・イオはこの岩を彫ってエルランが王家のウンスー王子の墓としたといわれています。この墓は二世紀の末頃造られたと推定され、一晩のうちに、それも手の指のつめだけで完成させたといわれています。プクリサン河の名はクリス(剣)という語源に由来しています。むかし、この河でクボ・イオとバリ住民の間に烈しい斗いがあり、住民が全滅して、彼らのクリスだけがこの地に残った、といわれています。このウンスー王子の墓の他に、クボ・イオは王の貢献者としての異名をももち、バリ島に数多くいる修行者たちにも貢献しました。例えば彼らの修業のためにクボ・イオが造ったといわれる寺院は、トイェ・プルにたくさんあり、またウブッドの近くを流れるオス河の河べりの崖に造られたラクササ寺院、ジュクット・パクゥ寺院そしてデンパサルの近くにある岩を彫って造った寺院もクボ・イオの手によるものといわれています。

ペヂェンの人びとは、プナタラン・サシのプラ(神殿)に保管されている「ブーラン(月)・ペヂェン」は、クボ・イオの耳飾りだった、と信じています。それは直系160センチの青銅の太鼓で、バリの青銅器時代の遺物です。

この伝説の主人公、クボ・イオの名と功績をバリのブラバト村の人びとは、ある胸像を造ってきざみ、聖なる建物、プラ・ガドゥに保存しているのです。このプラもクボ・イオが造ったものといわれていますが、実は1917年バドゥ山の噴火による地震で、以前のプラがすっかり壊れてしまったので、新しく村人の手によって作られたものです。

クボ・イオの遺業はキンタマニ山脈からデンパサル平野にいたる全バリ島にあります。クボ・イオ伝説がバリ住民の間にいかに親しまれているかはこれでおわかりでしょう。バリの人びとはみな、クボ・イオが自分たちの村に生き、死んでいったかのように思っているのです。

クボ・イオは、その名前から判断するとバリ人の名ではありません。ガンドリン刀工の剣の物語の主人公、クボ・イジョから、東ジャワに由来している、と考える人もいます。バリ語でクボ・イオのクボは、野牛を意味しますが、イオは、はたしてバリ語のおじを意味するイオであるかどうか疑わしい。強いて意味づけるとすれば、クボ・イオは、「野牛のおじさん」ということになります。

クボ・イオが存在した時と所、および状況は話しの中で限定されておらず、また誰も正確に知りません。ある老人は、パティ、ガチャマダの時代だ、と大胆にもいいます、つまり十四世紀半ばです。この考えに基づけば、クボ・イオは数世紀も生存したことになります。カウィ山にある石寺は二世紀末に彫られたのですから。従ってクボ・イオの年令は十世紀を数えることになります。

クボ・イオの死は、俗にいう勝利の歓喜、拍手がともなったものではありません。バリの人びとは、彼を真の敵とみなしていたのではなく、やむをえない事情があって、彼を葬ることにしたのでした。クボ・イオは、プラ、岩に彫った寺院、河川、堤防を残したことにより、王をはじめ、修行者や庶民に数多く貢献した、と思われているのです。

 


前のお話  ▲トップ▲   次のお話