里耶秦簡J1⑧1517の作成過程と「某手」の示すもの
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青木俊介(学習院大学)
里耶秦簡J1⑧1517は使用されている文言から見て、派遣する出張者への食料支給を道中の機関に要請した「続食文書」である
[1]。
卅五年三月庚寅朔辛亥、倉銜敢言之。疏書吏・徒上事尉府
者牘北、食皆盡三月、遷陵田能自食。謁告過所縣、以縣鄕次續
食、如律。雨、留。不能投宿、齎。當騰騰。來復傳。敢言之。(J1⑧1517正)
令佐温
更戍士五城父楊翟執
更戍士五城父西中痤 𦡌手。(J1⑧1517背)
その内容は、遷陵県の吏・徒が洞庭尉府へ報告をしに行くにあたり、道中通過する県・郷に対して食料の支給を要請するよう、倉の主管者である倉嗇夫が県廷に求めたものである。簡の背面(「牘北」)には、出張する吏(「令佐温」)と徒(「更戍士五城父楊翟執」「更戍士五城父西中痤」)の情報が箇条書き(「疏書」)されている。
このJ1⑧1517と非常によく似た文面を持つのがJ1⑧110+669+1203
[2]である。
卅五年〼庚寅朔辛亥、倉〼
者牘〼□皆盡三月、遷□〼
食如律。雨、留。不能投宿、齎〼
三月庚申朔辛亥、遷〼(J1⑧110正+669正+1203正)
令佐温 〼
更戍士五城父陽翟【執】〼
更【戍士五城父西】
[3]中痤〼(J1⑧110背+669背)
J1⑧110+669+1203は断簡だが、背面に見える固有名詞の記載はJ1⑧1517背のそれとまったく同じで、正面の文面も途中までは一致している。唯一異なるのは、J1⑧110正+669正+1203正四行目の「三月庚申朔辛亥、遷」にあたる部分がJ1⑧1517にはないことである。同じく「続食文書」であるJ1⑤1の書式に照らせば
[4]、この部分は出張者を派遣する県から道中通過する県・郷に対しての通達文言であることがわかる。すなわち、倉からの要請であるJ1⑧1517を受けた遷陵県廷が、その文面を転写したうえで道中の県・郷への通達文言を加えたものがJ1⑧110+669+1203なのであって、両簡は同じ案件についての異なる手続き段階の文書ということになる。
手続き段階が異なるのであればそれぞれの作成者も違い、筆跡も変わるはずである。しかし、両簡の文字の様子はよく似ている。またJ1⑧1517には、倉から送られてきたのであれば記されているはずの送達記録もないのである。どうしてこのようなことが生じているのであろうか。
J1⑧1517の文字をよく見てみると、「銜敢言之」の部分は他より薄く、文字の間隔がやや間延びしている。さらに、「言」の字体が末尾の「敢言之」のものとは明らかに異なる。このことから「銜敢言之」の四文字は、他の部分とは別の人物によって書き込まれたものと考えられる。つまり、あらかじめ空白を設けた文書が作成され、倉嗇夫の銜が後からそこへ署名したということである。同様の処理がなされた文書は西北漢簡にも見受けられ
[5]、名前の入るべき部分が空白のままの文書も散見される
[6]。なお、J1⑧1517の場合は名前だけでなく、「敢言之」の分のスペースまで空けられていたわけだが、これは署名のしやすさを考慮したものであろうか。
「某手」という記載の意味するところについては諸説あるが、その文書等を実際に書き、作成した者を示すとされることが多い
[7]。それならば、J1⑧1517の作成者は「𦡌」ということになる。𦡌は、J1⑧901+926+839によれば倉佐であり
[8]、倉に所属していたことは確かである。J1⑧1517のほかに「𦡌手」とある簡は、J1⑧348・405・865・898+972・902・1771・1809・1973・2269の9件存在する。「𦡌手」とある以上、いずれも𦡌によって書かれたものであるはずだが、これらの簡とJ1⑧1517の筆跡を見比べたところ、同一であるとはいい切れない。例として各簡に共通して記されている「𦡌」の字をあげておくが、J1⑧1517の文字は比較的水平に書かれているのに対し、その他では右肩下がりの傾向が強い。そのため、「𦡌手」とあるものの、J1⑧1517は別人の手によって作成された可能性を指摘することができる。
それならば誰が作成したのかが問題となるが、J1⑧1517とJ1⑧110+669+1203は県廷に直属する令佐らの出張に関する案件なので、倉による続食手続きの開始に先立ち、まずは県廷から倉に対して出張する旨を通知する必要が生じる。その際、本来は倉が作成するはずのJ1⑧1517を便宜上、文書の発行名義人となる倉嗇夫の名前が入る部分は空けておいたうえで、県廷の吏が作成してしまったのではなかろうか。そして、出張の件を知らせるために県廷から派遣された使者がそれを持って倉へ行き、空けておいた部分に倉嗇夫の署名(「銜敢言之」)をもらって、再び県廷に持ち帰る。続いて、J1⑧1517を作成したのと同じ県廷の吏がJ1⑧110+669+1203を作成した。そのために両簡の筆跡は似ているというわけである。J1⑧1517に送達記録がないのは、実際には倉から送られてきたものではなく、県廷の使者がJ1⑧1517を持って倉との間を行き来したためであると推測される。
「続食文書」は本質的に、出張者への食料支給の継続を県外機関に要請するものなので、J1⑧110+669+1203さえあればJ1⑧1517は省いてもよいように思える。それにもかかわらずわざわざJ1⑧1517を作成するのは、県外機関による継続支給(=続食)開始以前の食料は出発地の倉から支給されるので
[9]、それを倉嗇夫から保証してもらわなければならないためであろう。また、J1⑧1517と同文の簡が、控えとして倉に保管された可能性がある。あるいは県廷から同文の二簡が持ち込まれ、そのうちの一簡を控えとしたのかもしれない。
それから里耶秦簡では、一つの文書簡牘に複数の筆跡を確認できることが多い。これは他機関から送られてきた文書原本に自機関での処理内容を追記し、それをまた別の機関に送るということがなされたためである。ただ、前述の手続き過程にもとづけば、J1⑧1517は(名目上は)倉から遷陵県廷に送られてきた原本である。追記形式が義務であるのならばJ1⑧1517は遷陵県外の機関へ送られているはずだが、遷陵県廷址に残されているということは、原本への追記に特段のこだわりはないのであろう。少なくとも同じく「続食文書」であるJ1⑤1やJ1⑧422+50において、倉と県廷の筆記部分に明確な筆跡の違いは認められない。
最後に、「某手」について再び触れておきたい。
前述したように、「某手」はその文書等の書き手・作成者の表示とされることが常である。確かに、同じ名前で「手」されたもの同士を見比べるとその筆跡は大体において似ており、顔師古も『漢書』郊祀志の注で、「手、謂所書手迹」としている。しかし、J1⑧1517の場合は、「𦡌手」とあるものの、𦡌が作成したものではなさそうである。
次のJ1⑧1511は、遷陵県の水火敗亡者課を令史感に上呈させるという内容の文書である。
廿九年九月壬辰朔辛亥、遷陵丞昌敢言之。令令史感上
水火敗亡者課一牒。有不定者、謁令感定。敢言之。(J1⑧1511正)
已。
九月辛亥水下九刻、感行。 感手。(J1⑧1511背)
ここには、「有不定者、謁令感定(確定しないことがあれば、感に確定させてください)」とあり、この文書を「手」し、かつ送達した感が当該案件の事情に精通していたことがわかる。
さらに、冊書を成していたと思われるJ1⑧755・756には、
卅四年六月甲午朔乙卯、洞庭守禮謂遷陵丞。
丞言徒隸不田、奏曰、司空厭等當坐、皆有它罪、(J1⑧755正)
耐爲司寇。有書、書壬手…<略>…(J1⑧756)
とあり、過去に遷陵丞から送られてきた文書について、そこに「壬手」と記載されていたことを洞庭太守が指摘している。文書を「手」した壬がその案件の処理に関与し、責任を負うべき立場にあったことが見て取れる。
加えて、岳麓秦簡「為獄等状」〇一癸、瑣相移謀講案には、
●廿【五年】六月丙辰朔癸未、州陵守綰・丞越、敢𤅊之…<略>…南郡假守賈、報州陵守綰・丞越…<略>…受人貨材以枉律令。其所枉當貲以上、受者・貨者、皆坐臧爲盜、有律。不當𤅊。獲手。其貲綰・越・獲、各一盾。它律令有律令。
と見える。州陵県廷が論罪に迷い、南郡太守府に判断を仰いだが、南郡仮守賈はすでに律で規定されていることを理由に、この奏讞を不当なものとして却下。そして州陵からの奏讞文書に「獲手」とあったことを指摘して、州陵守綰と丞越のみならず獲をも処罰の対象とし、手者としての責任を問うているのである。
これらのことから、「某手」という表記は、その文書の作成者という以上に、その文書に記載されている案件の処理担当者を示す意味合いを持っていたと考えられる。上掲「為獄等状」において、奏讞の名義人である州陵守・丞と同額の罰金が獲に科せられていることも、手者が文書の作成のみならず、記載されている案件そのものに深く関与する立場であったことをうかがわせる。つまり、J1⑧1517の「𦡌手」は、当該案件の担当者が𦡌であることをはっきりさせるために記されたのである。
秦漢の律令においては行政業務に不備があった際、嗇夫などと並んで「吏主者」が処罰の対象者としてあげられている。『史記』巻56陳丞相世家の、
平曰、有主者。上曰、主者謂誰。平曰、陛下即問決獄、責廷尉。問錢穀、責治粟内史。上曰、苟各有主者、而君所主者何事也。平謝曰、主臣……。
という陳平と文帝の間で交わされた丞相の役割に関する問答からわかるように、「主者」も担当者の意味である。律令に見えるような行政業務の場合、当該業務の文書に「某手」と記されている吏がその「吏主者」に相当するのではなかろうか。
とまれ、事情を把握している当該業務の担当者が、自ら文書を作成するのが自然な流れである。その結果として、「某手」と作成者が大体において一致するのだろう。あるいは、文書の作成者という元来の意味から派生して、記載案件の担当者をも示すようになったのかもしれない。長沙走馬楼漢簡第2簡において伝舎の建物を管理する「吏主者」を(10)、工官において器物製造の監督官を「某主」と表記し (11)、「某手」としないのは、これらが文書業務ではないからであろう。担当者一般をいう「主」の中でも、特に文書記載業務の処理担当者を表す語として「手」が用いられたのだと考えられる。
編集者注記:2017年2月16日入稿
[1]「続食文書」については、拙稿「里耶秦簡の「続食文書」について」(『明大アジア史論集』第18号、2014年)参照。
[2]綴合は、何有祖「読里耶秦簡札記(四則)」(『簡帛網』http://www.bsm.org.cn/show_article.php?id=2257、2015年6月10日発表、2017年2月14日閲覧)に従った。なお、J1⑧1203の背面には文字が認められないようで、何有祖氏は背面釈文の簡番号を「8-110背+8-669背」としている。
[3]この部分の釈字については、趙岩「里耶秦簡劄記(十二則)」(『簡帛網』http:// www.bsm.org.cn/show_article. php?id=1952、2013年11月19日発表、2017年2月14日閲覧)に従った。「【】」は文意のみに基づく釈読を表す。以下も同じ。
[4]元年七月庚子朔丁未、倉守陽敢言之。獄佐辨・平、士吏賀、具獄縣官。
食盡甲寅、謁告過所縣・鄕以次續食。雨、留。不能投宿、齎。
來復傳。零陽田能自食。當騰期卅日。敢言之。/七月戊申、零陽
龏移過所縣・鄕。/齮手。/七月庚子朔癸亥、遷陵守丞固告倉嗇夫。
以律令從事。/嘉手。(J1⑤1正)
※傍線は筆者による。(ワードファイルを参照、編者注)
[5]このことについては、大庭脩「文書簡の署名と副署試論」(同氏著『漢簡研究』同朋舎出版、1992年所収)や邢義田「漢代簡牘文書における正本・副本・草稿と署名の問題」(籾山明・佐藤信編『文献と遺物の境界―中国出土簡牘史料の生態的研究―』六一書房、2011年)などに詳しい。
[6]例えば、居延漢簡E.P.T27:7は「建武四年正月乙未甲渠候 謂第廿三守」というように、甲渠候の名前の入る部分が空白のままとなっている。
[7]「某手」の解釈に関する諸説については、陳偉主編『里耶秦簡牘校釈』第1巻(武漢大学出版社、2012年)5頁注12にまとめられている。
[8]卅五年正月庚寅朔朔日、倉守擇・佐𦡌、𠏟人中〼
令史就視平。〼
[10]牒書。傳舍屋檽・垣壞敗、門内戸扇見、竹不見者十三牒、吏主者不智。數遁行、稍繕治、使壞敗物不見。毋辯護。不勝任。□□五年七月癸卯朔癸巳、令史援・雍敢言之。謹案、佐它主。它・酃佐前、以詔遣故長沙軍司馬貰死・丞陽。敬寫移。謁移酃、以律令從事。敢[言之]。釈文は張俊民「對長沙走馬樓西漢簡牘幾條簡文的認識」(『簡帛網』http://www.bsm.org.cn/show_article.php?id=1117、2009年7月18日発表、2017年2月14日閲覧)を参照した。
[11]例えば、大同江石巌里丙墳出土の永始元年金銅釦夾紵漆盤には、「護工卒史安、長孝、丞
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、掾譚、守令史通主」と刻まれており、梅原末治氏はこれらを監督の官名と見なしている(梅原末治著『支那漢代紀年銘漆器図説』同朋舎、1984年版、12頁)。