共同研究プロジェクト



『「中華」に関する意識と実践の人類学的研究』

***発表要旨***(『通信』97号に掲載済)

平成11年度第1回研究会
日 時: 平成11年7月10日(土)午後12時30分より午後5時30分まで
平成11年7月11日(日)午前11時より午後3時まで
場 所: AA研セミナー室(4階)
報告者: 第1日目(7月10日)
1. 佐々木衞(共同研究員、神戸大学)
 「中国村落社会の構造の変容について---三河市燕郊鎮馬起乏村を事例として---」
  2. 渡邊欣雄(共同研究員、東京都立大学)
 「中華文明と沖縄---風水思想史の観点から---」
  3. 秦兆雄(共同研究員、神戸市外国語大学)
 「中国農村の政治変化---nativeの視点---」
 
第2日目(7月11日)
4. 伊藤亜人(共同研究員、東京大学)
 「セマウル運動は韓国の農村に何をもたらしたか?」
  5. 沼崎一郎(共同研究員、東北大学)
 「中華の構築と脱構築---植民地香港における平等土地相続権論争に注目して---」


***報告の要旨***

1.「中国村落社会の構造の変容について」/佐々木衞

 〔調査の課題と本報告の目的〕 「現代中国の産業化における基層文化の変容と展開」(国際学術研究、代表:佐々木衛、佐々木が海外出張のため柄澤行雄に変更、課題番号:09041023、1997・98・99年)と「現代中国の社会変容と『伝統の組み替え』に関する研究」(基盤研究(C)、代表:佐々木衛、課題番号:11610320、1999・2000年)による、現代中国の社会変容に関する実証的研究によってえた資料にもとづく中間報告である。

 本研究は、河北省三河市燕郊鎮馬起乏村と西柳河屯村を調査対象としている。北京の東50kmに位置し、かつてから北京との関係が濃厚な地域である。

 馬起乏村は村営による集体企業を中心に経済的発展を図ってきた。これに対して、西柳河屯村は村営企業をすべて個人に請け負いに出して、個人企業の育成による経済発展を図ってきた。二つの対照的と思われる村を比較研究することで、現代中国の村落社会が多様な姿の中に変容しながらも基本的な構造を共有する現実をモデル化することができるのではないかと考えている。本報告では、馬起乏村の事例から検討した。

 〔まとめ〕 村が行政村としての機能をもったのは新しいのがわかる。現行の体制を整えたのは、基本的には人民公社時代ではないかと考えられる。

 本村では土地が農地としてばかりでなく、工場用地として、あるいは宅地(村内・外者に対する住宅開発)として利益を生んでいる。利益は村に蓄積されるばかりでなく、土地を有効に使う方法、開発は村人の関心を集める。各家庭に分割された口糧田、あるいは請け負いにだされた耕地の利用はそれぞれの家庭に任されているが、本村人が利用する限りにおいて自由な利用が認められているのであって、村外者への賃貸、利用は村民委員会の承認が必要で、厳しく限定されている。土地を村が全体的に管理している点が、今日の村の性格を解放前のものと全く異なったものにしているところだと考える。

 馬起乏における村営企業の展開も村に利益をもたらし蓄積されるという点では、土地の村による管理と同じである。現在は村の党書記が企業の管理者にもなっており、村と企業との一体が強調されている。企業の経営的展開をすすめるためには、外部者との提携・共同出資が必要であり、そのためには請け負いによる管理なども検討されている。しかし、企業の利益が村にもたらされ蓄積される構造は変わらないであろう。この点は、村の企業をすべて個人に受託させた西柳河屯村の事例で検討しているところである。

 村が村全体の土地を管理するのは、当地では土地改革まで経験したことがない。廟地を共有することもあったが、土地を村で共同管理するというには距離があった。廟地からの収益は「吃会」の費用をまかなう程度で、村の凝集力の中核となるほど積極的に利益を生みだすことはなかった。村が村の土地を全体的に管理するのは、初級合作社と高級合作社をへて、馬起乏が人民公社の生産大隊として一つの単位となり、管理運営の制度を確立した後である。本村への土地の割り当ては近隣村に供出させられたところもあるが、ほぼ当村が所有していた範囲に重なっている。しかし、初級合作社が土地と農具・家畜の持ち寄りによって共同化されたように、村の土地が最初から村人によって共有されていたのではない。高級合作社、人民公社生産大隊は村人の土地と家畜・生産用具の持ち寄りによって組織されてたのである。持ち寄りであるかぎり、構成している成員は等しく権利をもつ。

 中国の村の構成原理が「持ち寄り関係」にあるとみると、持ち寄った財産が利益を蓄積することで、村の凝集力は高くなる。本村の村営企業の経営は本村の人々の生活を基本的なところで支えており、利益を共有する絆は強い。しかし、利益を生みだすことができない村では、村の凝集力は低いと推測される。また、個人的な資産で企業をおこして、持ち寄り関係による財以上の利益を上げるようになれば、村の凝集力は低くなるのであろうか。今回の調査ではこうした地域の研究にまで及ぶことができなかったが、将来、こうした村との比較研究がすすめば、現代中国の村の展開、さらには中国における「人と人との結合関係」が正確に理解できる道が開けるのではないかと考える。




2.「中華文明と沖縄−風水思想史の観点から−」/渡邊欣雄

 沖縄が、張啓雄のいう「中華世界帝国」の傘下に入ったのは、明の太祖の呼びかけに応じて朝貢した洪武5年(1372)以来のことである。朝貢・冊封という政治経済的な琉中交流を円滑にすべく、やがて明は「人三十六姓」を沖縄に派遣し(1392)、かれらの子孫たちは沖縄でいう「唐栄士族」の身分を得て、以後琉球国の国政に寄与することになる。琉球国の記録では康熙6年(1667)、福建省に初めて地理(風水)を学ぶための留学生(唐栄士族)を派遣したことになっているが、平敷令治によれば、それ以前の万暦年間(1573-1620)にすでに地理の知識は沖縄で活用されていた。地理の知識は主として「殖産興業」のために生かされ、儒教思想に次ぐ第二の輸入知識だったことも、都築晶子の指摘で明らかである。そのうち本報告では、国策として生かされた風水思想を、主として村落建設と移動に関する『球陽』その他の記録により紹介した。18世紀から20世紀までの風水知識の活用により、沖縄村落は以前とはまったく異なる容貌を呈し、その生活もまた一変してきた。こんにちの「沖縄文化」の形成に、風水思想の果たした役割はきわめて大きいといわざるをえない。




3.「中国農村の政治変化----nativeの視点」/秦兆雄

 今世紀に、中国農村の政治体制はどのように変化してきたのだろうか。湖北省の場合、歴史的に次の段階に分けて考えることが出来る。

・34年まで国家権力は県レベルまでに止まり、村落社会の秩序が主に宗族組織によって保たれ、郷紳達は宗族間、宗族と国家との間の仲介者の役割を果たしていた。34年以後、保甲制度の実施により、国家権力が集落に浸透し始めたが、代理人としての保長の権限は弱く報酬もあまり高くなかった。

・51年に実施された土地改革の結果、国家権力が集落に定着し、宗族組織が弱体化した。村幹部は国家の強制的行政管理の代理人となり、その定員が増え、地位、権限、報酬などが大きくなり、幹部組織は肥大化した。

・土地改革と人民公社時期の村幹部は、主に革命の受益者で、世襲的な傾向が強かったが、経済改革時期の村幹部はその能力と「関係」がより重要視されるようになった。

・経済改革時期に村幹部の定員数は大幅に縮小されたが、それまで村幹部を監督、指導してきた工作組の引き上げなどにより、村幹部の腐敗は深刻な問題になった。

・権力闘争は常に宗族間よりもむしろ村幹部同士の間で行われる。なぜなら、村幹部の任命と解任は、宗族全体の支持と利益とはあまり関連しないからである。

・90年から村幹部の選挙が試験的に行われるようになった。この動きは他の地域にも見られ、色々な難問を抱えながら、将来地方の自治化と分権化及び中国全体の民主化へ発展していくことに繋がるかもしれない。




4.「セマウル運動は韓国の農村に何をもたらしたか?」/伊藤 亞人

 韓国のセマウル運動は農村開発の成功例として国際的な評価を得てきたが、その実証的な研究に基づく評価はまだ不充分である。この運動は、行政主導による (1)精神啓発 (2)生活環境改善 (3)所得増大を目標とし、その過程としては、物資の投与による「外形事業」を農民に対する刺激策とし、次いで住民自身の自発的な副業の導入などによる所得増大に発展する二段階を想定していた。しかし、行政の人脈を動員して推進した結果、末端の村においては外部に人脈を持つ指導者がブロ−カ−として活躍し、内発的で自律的な村落生活の改善事業よりも安易な行政への依存体質を生むに至った。一方で、都市を中心とする産業化による経済発展のもとで、農民は農村に副業や産業を興すよりも都市部への移住を選択し、家族・親族関係の拡大にともない都市転出者から農村への支援を促し、都市的な消費生活が農村にも波及した。都市での消費拡大にともない商品性の高い作物が導入され農民の所得は増大したが、一方で過疎化と老齢化も進んでいる。セマウル運動は国民形成には大きな効果を果たしたが、副業や新しい産業による地域社会としての農村の経済発展や自立化と活性化をもたらしたとはいえない。




5.「中華の構築と脱構築」/沼崎一郎(文責:三尾裕子)

 1993年9月頃から94年6月頃にかけて、香港においては、女子平等相続権論争が盛り上がった。香港の中で、99年期限で租借されていた新界では、租借以前から新界に先祖が居住していた「原居民」に限って、慣習を尊重して条例により土地の相続権を男子のみに認めてきた。ところが、90年代になって、この条例が男女平等の理念に反するというので、「人権」擁護の立場から、原居民女性にも相続権を認めるよう条例を改正する運動が高まった。すると、女性の相続権を認めることは、「伝統的」な家族制度の崩壊につながるという、原居民からの反発が強まり、「人権」と「伝統」をめぐる論争がわき上がった。

 本発表では、このような論争を人類学の立場から読み解き、以下の二点を指摘して検討した。第一点は、運動は、当初一部の女性の非常にパーソナルな感情に基づいて発生したにもかかわらず、運動の拡大にともなって、近代西洋科学によって持ち込まれたprivate/publicといった概念に結びつけれられた言説が、一人歩きするようになったこと、第二点は、「中華の伝統文化」といった時の「文化」概念が、「慣習」以上の重みを持って、他人の批判を許さぬ用語となっていること、特に中国ではフリードマンの宗族研究以降、家族や宗族が「中国文化」の神髄を示すものとして、政治的な力を持つに到っている点である。



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