共同研究プロジェクト



『「中華」に関する意識と実践の人類学的研究』

***発表要旨***(『通信』97号に掲載済)

平成11年度第2回研究会
日 時: 平成12年1月29日(土)・30日(日)
場 所: 沖縄国際大学文学部会議室
報告者: 1.宮岡真央子(東京外国語大学大学院研究生)
「植民地における出会いと他者像――台湾先住民族ツォウの「マーヤの伝承」を事例として」
  2.笠原政治(共同研究員・横浜国立大学)
「『認識臺灣』の“認識台湾原住民”度」
  3.李 鎮栄(名桜大学)
「亡命ベトナム王族の祖先探しと歴史認識」
  4.中西裕二(福岡大学)
「ベトナム南部の華人子孫に関する民族カテゴリーと信仰−ソクチャン省D村の明郷(Minh hu'o'ng)概念とong bon信仰−」

***報告の要旨***

1.「植民地における出会いと他者像――台湾先住民族ツォウの「マーヤの伝承」を 事例として」/宮岡真央子

 日本統治下の台湾では、先住諸民族の植民地状況への適応や抵抗の過程は、民族集団ごとに実に多様であった。この違いには、日本が台湾を領有する以前の彼らの社会状況や民族文化が大きく関わっている。ツォウの間では、かつて「マーヤ」という異民族と共住し別れたことが伝えられているが、日本の植民地統治開始期に、日本人はマーヤでありツォウの兄弟であるという言説が生まれ、以後の植民地の展開過程は非常に平和であった。この背景には、それ以前のツォウと漢族との関係がある。ツォウは清朝時代に漢族商人を通じて納税する「帰化生番」であり利益をめぐる確執があった。また彼らの領地は漢族移住民の開拓前進によって常に浸食され狭められていた。この経験からツォウの間には「暴戻」で「貪欲」で「狡猾」な漢族像が伝えられている。この二者の関係の上に日本の植民地統治は開始された。ツォウは自分たちに伝わる親縁性を持った他者のイメージを、それとは対照的な漢族と比較することで、日本人に当てはめたのである。植民地における出会いと他者像が文化的・社会的・歴史的な文脈に枠づけられるものであるということを、本事例は示している。




2.「『認識臺灣』の“認識台湾原住民”度」/笠原政治

 台湾で1998年から使い始めた國民中学の新教科書『認識臺灣』(歴史篇・社會篇・地理篇)は現地でさまざまな論議を喚んだが、その台湾先住民に関する記述にも、人類学研究者からみれば検討を要する問題が少なくない。「歴史篇」では、原住民社会は主に「史前時代」の章に記述されており、しかも、近代・現代の民族分類や分布図、写真などが時間を遡及するようにして用いられている。それ以外の記述は、牡丹社事件と日本の台湾出兵(1874年)、霧社事件(1930年)などの箇所に断片的な説明が見られるだけで、現在の原住民については本文にまったく言及がない。他方、「社會篇」においては、現代の台湾社会を構成する原住民、南人、客家人、外省人(新住民)の「四大族群」が指摘され、その融合・融和が高らかに謳われている。そうした主調音の中で、原住民という存在の独自性は、ともすれば掻き消されがちになってしまうのである。『認識臺灣』が教育現場、さらには台湾社会において今後いかなる評価を受けることになるのか、原住民研究の立場からも注視していく必要があろう。




3.「亡命ベトナム王族の祖先探しと歴史認識」/李 鎮栄

 発表は13世紀にベトナムから亡命したとされる一族の祖先探しの旅から韓国とベトナムにおける歴史認識と親族原理の構造の差を族譜の問題と関連して考察するものである。

 1992年12月に韓国とベトナムの国交が修復されるや花山李氏一族の祖先探しが本格化する。花山李氏は13世紀にベトナムの李王朝(1010-1225年)が陳王朝によって滅びた際に、李王朝の王子(李龍祥)とその一族が外戚陳氏による「李氏狩り」を逃れ国外脱出、朝鮮半島の北部の黄海道に漂着したという私的記録を持つ一族である。伝承は族譜という形で韓国に存在する。一族の代表は1994年5月ベトナムを訪問し、ベトナム李王朝の建国の地であるハノイ近郊のDingBang村を訪れて今も残る祀堂に参拝した。DingBang村を訪問した李王朝の子孫(自称)たちは熱烈な歓迎を受けたとされる。この出来事は両国のマスコミにより大きく取り上げられ、時空を乗り越えた祖先意識の顕現の美談として注目を集めた。

 しかし、両国のマスコミの記事の取り扱いの姿勢にはいくつかの相違点がある。その一つは歴史認識に関するものである。韓国のマスコミが花山李氏の主張を「事実」として取り扱い、「歴史」に価値を与えている。これに対してベトナムのマスコミは「歴史」そのものに対する意味付けよりは、歴史的出来事をきっかけに経済発展のための投資を期待しているのが際立った特徴といえる。

 実際、韓国社会においては「歴史的過去」が今日においても意味を持ちつづけていて「生きている過去」として語られることが多い。過去を現在と結ぶ意識は個別家系の族譜を通じて保たれる。韓国におけるの士族への族譜の普及は17世紀後半からのもので、「偽譜」「濁譜」が常に問題となっていた事実もあって「記録の操作」を考慮に入れないといけない。しかし、一般には文字のブランド性が作用してるせいか信頼されている状況である。族譜の普及は朝鮮王朝が強力な出自社会を目指す過程の中で生み出された制度物といえる。この族譜の存在が現在と過去を結ぶ架橋の役割をしている。

 ベトナムにおいても族譜は存在し、実際の村落調査でも族譜が見つかる。しかし、ベトナムの父系親族組織であるDong ho(ゾンホ)は常に分裂する仕組みを見せており、族譜の存在がゾンホの維持・結束に不可欠とはいえがたい。また、養子制度や位牌祭祀の継承律がゾンホを維持するための仕組みとしては機能していない。それはベトナム社会がキンドレッド的なベースの上に出自社会の原理を移植したが朝鮮朝ほどには至っていない。末成はベトナムの親族組織の原理を「父方キンドレッド」と称するが、的を射た指摘といえよう。  このように二つの異なる親族原理をもつ社会においては族譜という記録が持つ意味あいも異なるものと理解できよう。花山李氏一族の歴史の意味付けはベトナム人の歴史の意味付けと異なるのは自然な考えである。花山李氏一族が王族の末裔としての意味付けに奔走しているのに対してベトナム人の反応は至って冷静であることも上述した観点から理解できる。

 花山李氏一族は今なお過去の栄華を夢見ている。それは700年という時間の空白と韓国とベトナムという空間の空白を飛び越えるものである。花山李氏の一族にとって族譜の記録は、比較的劣位に立たされている社会的な威信の上昇を計ることができる「偉大なる外部」に他ならない。実際、花山李氏一族の男性たちは「王族」としての自覚を持ち、会社勤めを辞めたり、「祖国(ベトナム)帰還運動」(未実現)を行ったのもこのような意識の延長線で理解できる。さらに、花山李氏一族の財政状況とは無関係に工業団地建設と大学設置などベトナム再建計画ともいうべき巨大案をいくつか発表しているのも支配者としての王族意識の表わしているといえよう。




4.「ベトナム南部の華人子孫に関する民族カテゴリーと信仰−ソクチャン省D村の 明郷(Minh hu'o'ng)概念とong bon信仰−」/中西裕二

 ベトナム南部メコンデルタ地域のソクチャン省D村は、先住民であるクメール人の居住域に、キン族と華人が流入し現在の形が形成された。D村では、正確な統計は不明であるが、民族間の婚姻が過去、現在とも多いため、ミンフンと呼ばれる混血のカテゴリーの人々が多くいる。明郷(ミンフン)とは、元来は明朝滅亡後(1693年)、ベトナムに亡命し当時まだカンボジア領であったメコンデルタ地域(ミトー)に入植した人々を意味するが、現在では混血の意にも使用されている。D村にはキン族の宗教施設はなく、クメール系の上座部寺院と華人廟があり、ミンフンと華人の信仰の中心がこの華人廟となっている。本報告では、D村における民俗的なミンフンの概念、そしてD村の華人廟、及びソクチャン省やホーチミン市を含むベトナム南部に住むミンフンと華人の信仰する ong bon 神(漢字に直すと“翁本”、漢語での表記では“本頭公”)信仰について報告を行い、ベトナム華人研究、明郷研究のの持つ意味、そして他地域の華人研究との比較の可能性について検討を行った。



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