共同研究プロジェクト



『「中華」に関する意識と実践の人類学的研究』

***発表要旨***(『通信』96号に掲載済)

平成10年度第3回研究会
日 時: 平成11年1月30日(土)
場 所: AA研小会議室
報告者: 1. 植野弘子(共同研究員,茨城大学)
 「植民地台湾における社会教化」
  2. 索文清(AA研究員)
 「チベット文化圏におけるシャーマン儀礼(Vchams)の家庭とその機能」(通訳:謝茘)
  3. 清水純(日本大学)
 「福建省の私人仏信仰」


***報告の要旨***

1.「植民地台湾における社会教化」/植野弘子

 植民地の民として教育を受け、また管理・組織された台湾の人々が、日本の施政をいかに受けとめ生活していたのか。また植民地統治終了後、彼らの台湾人としてのアイデンティティに、日本の施政はいかに影響を与えたのか。このような、支配された者の視点から植民地支配を問い直す研究のためには、フィールドワークを通じて日本の植民地統治を経験した人々の生活とその実感を把握し、さらに植民地統治時代の文書資料との照らし合わせを行っていく必要がある。今回の発表では、1998年に行った台南県でのフィールドワークで得た調査資料と植民地時代の文書資料から、昭和期の日本語教育・行政組織・戸口管理を行う警察の相互的関連と、その体制の下での社会教化(社会教育)について報告した。

 台湾での日本語教育は、学校教育のみでは十分ではなく、国語講習所において学校教育を受けていない者への日本語教育が行われていた。講習所の教師「専任講師」は、公学校に所属しながら、その地域の村の保正の業務を補助しており、社会教育と行政とが密接に結びついていた。また、保正は警察管轄下におかれていたが、さらに警官・保正を補佐する「壮丁団」が組織され、台湾人を利用した管理が行われる。そして、皇民化運動下では、部落振興会が組織され、行政の末端単位を「部落」−村落とし、政策の撤退が計られる。この際、神棚の設置、家屋の改造などの「生活改善」が奨励されるが、実態は、必ずしもこうした施策が 浸透していたとはいいがたい。日本語教育についても、女子や村落部ではその浸透度はかなり低いのではないと考えられる。台湾における植民地統治の影響については、地域差、階層差、村落部・都市部の差異、また男女差などを考慮に入れて、その実態についての綿密な検討が、今、何よりも求められている。(文責:植野弘子)




2.「チベット文化圏におけるシャーマン儀礼(Vchams)の家庭とその機能」/索文清(通訳:謝茘)

 本発表では、「チベット文化圏」の諸民族において行われる「チャム( Vchams)」とよばれるシャーマン儀礼の形成過程及びその機能を論じ、あわせて中国の社会主義化や昨今の開放路線の中でのチャム儀礼の変容について考察した。

 チベット文化圏とは、中国及びその周辺地域においていわゆる「チベット仏教」を信仰する諸民族の分布する地域をさす。「チベット仏教」は七世紀以後インドより渡来した大乗仏教をもとにしながらも、チベットの土着的な宗教であった「ポン教」との約三百年にわたる融合の結果生まれたチベット独特の仏教で、俗に「ラマ教」ともいわれている。「チャム」とはチベット文化圏内の仏教寺院においてラマ僧によって執り行われるシャーマン儀礼であり、中国文化圏における鬼やらい、即ち「追儺」儀礼の系統に属する。チャム儀礼の雛形は、インドの密教のなかの「金剛舞」に求めることができるが、一方では獣の仮面をつけることや独特の楽器を用いるなどポン教的な要素を多く取り入れており、仏教とポン教の融合を示す儀礼でもある。

 「チャム」においては、仮面をつけた僧侶の舞踏を通して、鬼神を調伏する。そして仏教の教義を宣揚し、人々に積徳善行、自己規律を促すといった機能を果たしている。チャム儀礼自体は、古くは寺院の内部で行われる神秘的・秘儀的な儀礼であったが、二人以上の息子がいる家庭から必ず一人以上の僧侶を出していた というチベットの伝統社会においては、文化的な意味の継承といった面で重要な役割を果たしてきたのである。

 しかし、中国建国以後のチベット仏教は様々な面で変容を余儀なくされてきた。社会主義化の中で一時は儀礼が行われる機会も極度に減少したが、開放路線がとられるようになってから以降は、宗教活動も自由に行えるようになってきた。しかし、かつてのチャム儀礼は、純粋の宗教儀礼としてあるいは文化の価値伝達装置としての機能から、現在ではより民俗行事化、娯楽化の道をたどりつつある。(文責:三尾裕子)




3.「福建省の私人仏信仰」/清水純

 福建省恵安県東部では、家庭内で祀る特殊な神像が数多く見られる。類似の信仰は、金門島、晋江県でも報告されており、これらの信仰は南地方に顕著であることが報告されている。陳国強は、これらの神のことを「夫人媽」と呼び、非業の死を遂げた親族、または、若くして非業の死を遂げた姉妹伴の女性を神格化したものであると規定した。しかし、近年では「陰転神」(死者が転化して神になったもの)の呼称の方がより信仰の実態に即しているとの報告もある。

 各地の信仰には共通点もあるが、調査報告には相違点やずれも多く、神の性格には重層性もあり、各研究者の使用する用語上の混乱を招いてきた。そこで報告者の調査地である恵安県東部の小郷における信仰形態と他地域の信仰とを比較して、「夫人媽」の概念を再検討し、つぎのような点を強調したい。

 祀られる神は、死者に由来する神のみに限定されず、死者を神格化した場合でも親族のみとはかぎらず、女神ばかりでもない。また、村人はこれらの神を女性名詞である「夫人媽」ということばでは表現しない。

 むしろ、村人の概念のなかではこれらの神は「私人仏」の範疇に入る。力量の小さい雑多な神々(草木神)が信仰の対象となり、死者が転化した神もそうでない神も「私人仏」の概念のもとに渾然一体をなしている。「陰転神」が祀られること自体が南地方の特徴であるにしても、「陰転神」であるか否かは当事者にとって大きな問題ではない。その祭祀は、世帯・家族・房レベルを包括する「私的な」領域に属するものとみなされる。

 このような神への信仰は、村人の観念にしたがえば、民間信仰のうちでも、大枠としての「私人仏」信仰であり、全国的に知られた有力な公の神々(衆人仏)への信仰とは対照的なカテゴリーに分類される。これまでの研究でいわゆる「夫人媽」信仰とされてきた信仰形態は、南全体の宗教信仰の多面性を視野に入れながら、私的に祀られる神という、より広いコンテクストにおける理解が必要になろう。(文責:清水純)



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