共同研究プロジェクト



『「中華」に関する意識と実践の人類学的研究』

***発表要旨***(『通信』93号に掲載済)

平成9年度第3回研究会 ワークショップ「東アジアにおける文化の多中心性」
日 時: 平成10年1月24日(土)・25日(日)
場 所: AA研セミナー室
報告者: 第1日目(1月24日)
三尾裕子(AA研所員)/「開催主旨」
  I 韓国
  1. 本田洋(AA研所員)/「趣旨説明」
  2. 網野房子(都立大学)/「珍島の一巫女」
  3. 川上新二(国学院大学)/「降神巫の現状」
  コメント/安田ひろみ(京都文教大学)
  4. 秀村研二(明星大学)/「牧師と教会」
  コメント/林慶澤(民族学振興会)
  5. 岡田浩樹(甲子園大学)/「韓国仏教の過去と現在」
  コメント/大野祐二(民族学振興会)
  総括コメント/伊藤亞人(東京大学)
  書面によるコメント/丹羽泉(東京外国語大学)、土佐昌樹(神田外国語大学)
 
第2日目(1月25日)
  II 台湾
  1. 上水流久彦(広島大学大学院)/「宗教団体による地域活性化のメカニズム」
  コメント/堀江俊一(中京女子大学)
  2. 原英子(九州大学大学院)/「台湾アミ族宗教の漢化」
  コメント/笠原政治(横浜国立大学)
  III 香港
  1. 志賀市子(滋賀県立大学)/「戦後香港道教界の動向」
  2. 芹澤知広(奈良大学)/「香港社会研究における中心と周縁」
  コメント/瀬川昌久(東北大学)
  IV 沖縄
  1. 小熊誠(沖縄国際大)/「沖縄士族門中における姓の受容と同姓不婚」
  コメント/植野弘子(茨城大学)


***報告の要旨***

「開催主旨」/三尾裕子

 「中華文明圏」における諸文化は長く、中国文化をその中心と見なして積極的に導入することで、それぞれの文化の正統性を維持してきたと考えられてきた。しかし、歴史的に見ても、この地域の諸文化は、中華的な枠組みを取り入れても、土着のシステムをその中に埋め込むことにより、換骨奪胎してきた。また、近代以降では、例えば、ある地域では、植民地経験を通して形成された新しいライフスタイルや価値観と、祖国や伝統文化へ回帰したいという復古的傾向との間の揺らぎの中で、独自の文化が形成されている。また、都市化や産業化等のめまぐるしい生活環境の変容の中で土着的な信仰が復興したり、かつての大伝統が再解釈をほどこされたり、様々な宗教伝統の併存・競合・混淆と言った現象が生じている。

 今回のワークショップでは、以上のような諸事象に関し、時間的にも空間的にも幅広い事例を扱いながら、これまでの単一中心論的(あるいは、中心−周縁の二元論的)なこの地域の文化像を見直し、また多中心的な文化像の構築の可能性を探った。




I 韓国

 「韓国の社会変動と宗教:近年のフィールドワークの成果から」というテーマを掲げ、この日のみ、韓国・朝鮮研究者の集まりであるナグネの会と合同で、ミニ・ワークショップを開催した。プロジェクトで依頼したコメンテーターに加え、ナグネの会で依頼した諸氏からもコメントをいただいた。全体として、プロジェクト共同研究員、研究協力者、ならびにナグネの会メンバー約40名の参加を得て、会場は熱気に包まれた。終了後の懇親会の席でも、活発な意見交換がなされた。




1.「趣旨説明」/本田洋

 韓国社会を対象とする日本の人類学的研究に、近年、研究の対象や方法において徐々に変化が見られるようになっている。なかでも、主として1980年代中盤以降にフィールドワークを開始した若手・中堅研究者に、宗教や信仰の領域に注目した研究が目立つ。これらの研究には、従来あまり調査研究がされてこなかった分野に光をあてる、社会構造・機能論、類型・系統論といった従来の枠組みを批判的に乗り越えようとする、あるいは宗教・信仰の領域でおこりつつある変化に焦点をあてるなど、新たな方向性が顕れつつあるように思える。この分科会では、このような宗教・信仰研究の新しい成果を、韓国の全体社会の脈絡のなかで捉え直したうえで、東アジア諸社会の事例との比較の視座を模索したい。




2.「珍島の一巫女」/網野房子

 本発表の目的は、韓国全羅道珍島においてタンゴルといわれる宗教的職能者が、一般の社会成員に対して、その生命全般に深く関わり、「異者」として位置づけられる存在であることを、神観念、儀礼、地域社会との関わりについて明らかにすることである。その際、従来の巫俗研究とは異なる以下の視点で考察した。第一に、職能者やその儀礼を捉える際の「調査者の視点」をあえて一人のタンゴルに置き、「彼女とともに見る」という立場をとる。この視点により、宗教的職能者にとってのケガレが、不浄とは異なる観念であることが明らかになる。第二に、従来の関心は儀礼の概要を叙述することに留まっていたが、地域社会におけるタンゴルの位置、そのあり方という点に注目することが重要であると考え、その解明のための一つの手がかりとしてタンゴルパンを檀那場として捉えることを提唱する。これにより、「聖」としてのタンゴル、李朝時代より賎民として位置づけられたタンゴルの被差別の問題に取り組むための手がかりをつかむことができる。




3.「降神巫の現状」/川上新二

 本発表は、韓国巫俗の地域的類型が近年になって曖昧になってきているとの指摘について、全羅南道珍島における降神巫の現状を通して考察するものである。珍島で生まれ、珍島で成巫した降神巫たちには、(1)降臨した神霊は祖父母の世代より下の世代の血縁関係・姻戚関係にある死者である、(2)祭壇には神仏菩薩の名前が印刷された紙や、降臨した死者の名前を記した紙の位牌が掲げられている、(3)巫儀は大枠において世襲巫の巫儀から逸脱しない方向で実施されている、という共通性が見られる。他方、珍島で生まれたがソウルで成巫した降神巫の場合には、(1)降臨した神霊については祖父母の世代より下の世代の血縁関係・姻戚関係にある死者の他に、曾祖父母の世代より上の世代の死者も降臨しており、それらの死者には神名が付されている、(2)祭壇には巫神図が掲げられている、(3)巫儀にはソウル式と珍島式の巫儀が混在している、という特徴が見られ、各面においてソウル地方の巫俗の要素が多く取り入れられている旨明らかとなってきた。




4.「教会と牧師−韓国キリスト教の一断面」/秀村研二

 韓国のキリスト教は韓国社会を反映しており、牧師と教会の関係にそれがみられる。韓国のキリスト教会(プロテスタント教会)は個々の教会の独立性が強く、牧師の任用に際してもそれがあらわれている。牧師は本人が教会を作った場合には大きな発言力を有するが、教会から依頼されて赴任した場合にはさまざまな人間関係の中で自分の牧会を実現させていかなければならない。本発表ではソウル市内に所在するY教会に新しく赴任したP牧師のそれまでに所属した教会との関係についてと、Y教会での赴任に至るまでの経過をみることによって教会と牧師との関係を明らかにしようとした。P牧師のかって所属していた教会での元老牧師の存在と葛藤、Y教会での前任牧師の死亡からP牧師赴任に至るまでの経過は韓国のキリスト教会だけではなく、韓国社会の組織と個人のあり方を考える際に示唆を与えてくれた。




5.「韓国仏教の過去と現在−「沈黙する多数派」から「発言する少数派」へ?−」/岡田浩樹

 本報告は、これまで人類学者が看過してきた韓国仏教についてとりあげ、韓国社会の変動や社会構造をめぐる議論における重要性を強調した。さらに韓国仏教を研究対象とした場合に考えられる理論上の諸問題を提起した。まず韓国仏教の歴史的状況、現況についてふれ、植民地期の仏教をめぐる諸問題、性差の問題などについて言及した。そして従来の韓国社会研究における「二重構造モデル」の再検討の必要性を提案した。次に、忠清北道の一寺院の事例を報告し、特に仏教の構造化の問題をとりあげた。韓国仏教は、儒教的な支配文化の拘束が強い状況下で「構造化」されると同時に、「沈黙する多数派」としての民衆を「構造化」していく装置としての性格をもつ。このような仏教のあり方はいわば、今日まで継続している韓国仏教の「過去」の状況である。報告では今日見いだせる個人の主体的な信仰活動を「発言する少数派」と表現し、韓国仏教の「現在」の新しい動きに関しても報告した。




II 台湾
1.「宗教団体による地域活性化のメカニズム」/上水流久彦

 台北市玉山(仮名)は、台北で最も早く開拓され、以後1950年代まで台北の政治、経済、文化の中心地であった。だが、現在は最も没落した地域とされる。そこで、玉山の開拓者の末裔で当地の名士は、当地を代表する寺廟を中心にかつての玉山の名声の回復を試みている。その手段は、寺廟の福祉センター化と観光地化である。

 前者は年間数億円規模の慈善事業で、信者であるか否かを問わず、不特定多数の人々に寺廟の財を顕在的に分与することによって威信を獲得する回路の確立である。後者は寺廟周辺を伝統文化(歴史の古さ)を体現する公園とする試みであり、その契機に浅草の観光産業や来廟する多数の外国人観光客が深く関与している。

 漢人社会の文化的中原の根拠は、動態的な政治経済的勢力(王朝の都が中原と称されるように)と、不変の歴史的古さとにあり、本事例もその思考に沿うものである。今後は、寺廟の威信が福祉や観光という新たな回路を通じて玉山の名声回復を現実のものとするかを見極めたい。




2.「台湾アミ族の宗教における漢化」/原英子

 「中華」モデルを同心円的に考えた場合、中心にある「中華」的モノを周辺民族で求める力が働く。この時いわゆる「漢化」がはじまる。しかし周辺民族では自民族的なものを求める力も作用しており、多中心性がみられる。これについて台湾アミ族呪医シカワサイsikawasayのタンキー化という現象を取り上げた。シカワサイは儀礼で異民族的なモノのひとつとして「漢」的なモノを導入していたが、アミ族タンキーは漢人宗教と同一であることを目指している。その一方でアミ族であることも主張している。アミ族タンキーとその信者はアミ族でありながら漢人的なコトをおこなうタンキーの正統的根拠に、シカワサイをアミ族的なシンボルとみなしてそれとの関係を主張している。また漢人との系譜的関係をもつものはその主張をすることでアミ族タンキーとしての正統性を獲得しようとしている。「中華」的なモノとアミ族的なモノを求めて揺れ動くアミ族宗教の姿がうかがわれる。




III 香港
1.「戦後香港道教界の動向−「道教」へのベクトルが向かうもの」/志賀市子

 香港道教界の戦後から現在に至るまでの動向を通して、香港の道教系宗教団体が、戦後香港社会の急激な変化の中で、中華、大伝統といったものに対していかなる接近を図ってきたかについて論じた。資料として道教団体の開催した法会の榜文や刊行物等を用い、香港道教界の目指す「道教」へのベクトルが、いかなる意図のもと、どこへ向かいつつあるのかを検討した。1960年代香港道教聯合会の結成以降、法会の開催等によって「正統な道教」の継承者であることを対外的にアピールし始めた香港道教界は、1984年の中英共同声明調印以後、「正統な道教」へのベクトルを大陸の道教教派や道教協会へと向け、経済的支援を含む積極的な働きかけを行っていく方向にすばやく転換した。結論では、1997年7月に開催された慶祝回帰祖国法会に至って、「道教」へのベクトルは、祖国中国を中心とした中華民族の団結と発展を目指すものとして読み替えられつつあると述べた。




2.「香港社会研究における中心と周縁」/芹澤知広

 香港社会研究においては、1990年代、社会学やカルチュラル・スタディーズの分野を中心に「香港人」のアイデンティティーの問題が積極的に論じられている。この中心課題に対して、いわば周縁的な対象を扱ってきた文化人類学者は、いかなる有効な接近が可能であるのか。このことを、住民の説明する仕方を内側から理解しようと試みるという、文化人類学に特徴的な方法を使って批判的に検討してみた。具体的には、香港の社会史を振り返り、「香港人」が「香港」を語る今日の学問状況の出現を跡づけ、社会学・文化人類学の研究動向を概観した。そして、文化人類学の香港都市社会研究において中心的に論じられてきた中国系の人々のサブ・エスニシティーの問題に焦点を絞り、ベトナムとインドネシアからの「帰国華僑」のライフ・ヒストリーの事例を紹介することで、今日の香港と東南アジアとの関係という新たな視点を提示した。




IV 沖縄
1.「沖縄士族門中における姓の受容と同姓不婚」/小熊誠

 沖縄における門中組織は、中国の宗族システムの影響を受けているといわれてきた。門中の理念型は、近世の士族門中にあり、それは、家譜、門中墓、位牌、祖先祭祀、父系嫡男相続、養子同門制などを伴う近世史的所産である、と小川徹氏は概念化した。現行民俗における門中は、士族門中の模倣として、明治以降に庶民層に普及し、現在も門中イデオロギーの浸透に伴って伝統的な家族・親族構造の変容を生成し、そのため地域によって大きな偏差が見られる。この門中を生成していく実態は、『門中化』という概念で捉えることができる。近年の門中研究においては、それが一つの中心課題とされてきた。

 しかしながら、門中の構造原理の理念的な特徴の解明を研究の視点にする場合、理念型である士族門中と中国の宗族との対比による両者の差異の検討が必要である。さらに、中国文化の周辺地域への波及という視点からみると、士族門中の検討から沖縄における宗族システムの受容のあり方の特徴を知ることができる。

 王松興先生は、ショ族における家譜研究において、近世以降中国文化の影響として家譜編纂が行われていること及びショ族において父系出自による系譜継承の原則は理念として導入されているものの、それとは矛盾するホスト側本来の家族・親族組織の実態が家譜に反映されていることの2点を指摘した。この視点と方法を沖縄における士族の家譜を資料とした門中の分析に当てはめることによって、中国の周縁に位置した少数民族あるいは地域において中国文化がどのように受容されたかという課題を汎東アジア的視点で比較することも可能になる。

琉球において、1689年以降士族は家譜を作成して王府の系図座に提出することが義務づけられた。多くの士族は、その際に姓=氏を王府から賜った。中国において、本来姓は父系血縁の表徴であり、同姓は同一父系血縁を意味し、同姓の通婚は忌避された。ところが、首里士族の毛氏家譜にある婚姻264組のうち36組が毛氏どうしによる同姓婚であり、同姓不婚の禁忌はみられない。

 毛氏は、一姓で一つの門中を形成することの多い他の士族門中とは異なり、同じ毛という姓を持ちながらも、始祖を異にする7つの首里系士族と1つの久米系士族がある。そうでありながらも、、首里系毛氏の中で、同一姓でありかつ同一父系の男女の通婚例が14例ある。この事例から、首里系士族の間には、姓は導入されたものの、それに伴う同姓不婚の観念が十分に浸透していなかったのではないかと考えられる。それに対して、久米系毛氏の約110組の通婚事例では、1組の例外を除いて同姓婚の事例は見られない。彼らは、琉球の女性と通婚を繰り返すことによって、血縁的には琉球人に限りなく近づいていたが、儒教及び漢語の教育あるいは中国への留学を通して中国人としての文化あるいは中国人らしさ(Chineseness) を保持し続けることができた特異な社会集団であった。その規範となったのが、「朱子家礼」を基本とした「蔡家家憲」や「嘉徳堂規模帳」といった家礼であった。それらには、同姓婚を禁じる儒教的規範が明記されている。

 近世琉球の士族社会には、姓つまり氏は、家譜編纂に伴って近世以降に人為的に付与された制度であり、姓が共通の祖先を有する父系出自を示す表徴であるという中国の社会的コンテクストから切り離された一つの文化要素として導入された。士族の間では、門中という父系出自集団が形成されるが、首里・那覇士族においては、それは中国の宗族のように同姓不婚を伴う社会制度の導入および変化までは至らなかったのではないかと思われる。ただし、久米村士族は、儒教的規範を遵守することによって、中国における本来の姓の意味を理解し、同姓不婚をも遵守していたことがわかる。

 琉球の士族は、分家すると別の家系として分節し、家系ごとに日本式の名字を変えることがある。この家系レベルでの通婚事例を調べると、首里系毛氏の家譜においては同一家系内での通婚は見られない。家系は、「家」(ヤー)の問題とも関連するが、ヤーが一つの外婚単位となっていた可能性もあり、ヤーの継承、養子などの問題とも関わるので、姓と名字あるいは門中とヤーの問題は今後の課題としたい。



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