共同研究プロジェクト



『「中華」に関する意識と実践の人類学的研究』

***発表要旨***(『通信』91号に掲載済)

平成9年度第1回研究会
日 時: 平成9年6月28日(土)
場 所: AA研小会議室
報告者: 1. 三尾裕子(所員,プロジェクト主査)
  2. 瀬川昌久(東北大学東北アジア研究センター)
  3. 本田洋(所員)
  4. 末成道男(東京大学東洋文化研究所)


1.「趣旨説明」/三尾裕子

 近代以前の中国及びその周辺領域に居住,存在してきた諸民族,諸国家は中華文明を長く理想型(普遍的価値)と見なし,それを積極的に取り込むことにより,独自の文化,社会の正統性(個別的価値)を保持し,中華帝国から認証(册封等)を得たり,それと対抗してきた。しかし,近代以降は,この地域の諸国家では,国境が画定され,国家建設のために西洋近代(共産主義を含め)という新しい普遍的価値を求心力としながら国民を各国の中心に引きつけるという動きが一般的となった。

ところが,近年では,これらの国々は,急速な経済発展を遂げ,政治経済的に自信をつけ初めており,普遍的価値と個別的な価値との間の関係の見直しが進みつつあると言えよう。それは,例えば,政治の民主化,一枚岩的な国民の創造から多様な民族,多様な思考を持つ人々の集合体として国家をとらえるという動き,文化的な親縁性を基盤とした越境的な文化,社会,経済交流の活発化等となって表れつつある。一方,中国本国においても,主に80年代に入ってから,対外開放路線が積極的に押し進められ,沿岸地域,国境地帯などを通して,外からの文化,資本の流入が盛んになってきている。こうして,中国国内の周辺部内部,また,それとそれに歴史文化的につながりのある周辺部諸地域との間の新たなネットワーク,経済・文化圏域が形成されるようになりつつある。これに伴い,これまで文化的に周辺的なるもの,二次的なるものと見なされてきた地方的な伝統,民俗文化にも新たな意味づけが与えられ,かつての周辺地域を新たな中心とする,中心--周縁関係が生まれつつある。

  以上のことから,本共同研究では,昨今の経済発展の中での各地域における民俗文化の再編成・再創造のプロセスを明らかにし,従来の国家の枠組みを解体・再構成するような社会・文化の創造の可能性に関して新しい視点を提起していきたい。具体的には,これら諸地域で,「近代化」の過程の中で,更に,上述した中心--周縁関係の変容の中で,伝統社会において「正統」と見なされてきた文化が如何なる変容を遂げたのか---例えば,正統的文化の維持,再生に向けてどのような試みがなされたのか,もしくは,正統的文化の衰退にかわって如何なる新しい正統的文化がうまれつつあるのか,等---について考察してきたい。




2.「香港人アイデンティティーのゆくえ」/瀬川昌久

 香港は,1997年7月1日をもって,英国から中国へと主権返還され,中国の「特別行政区」となったが,華やかに演出された返還の式典の映像はわれわれの記憶に新しい。筆者は,これまで十数年にわたりフィールドとして香港と向き合ってきた者として,「返還」を機に自分なりの視点から香港中国人のアイデンティティーの変遷過程を総括し,かつ今後のその行方を予測してみたいと考える。

 香港島が英国の植民地になったのは1842年の南京条約によってだが,その後,九龍,新界をその支配下に取り込み,今日の香港の領域が確立されたのが1898年であった。このような英国による租借以前から新界に住んでいた人々の子孫が,今日の香港社会において「新界原居民」と呼ばれている人々であるが,租借当時の新界原居民たちは自分たちを称して「唐人」という言葉を用いていたことが知られている。

 20世紀に入って,特に辛亥革命の前後の時期には,革命家・亡命者・経済難民など多様な人々が香港に移り住んだ。彼らの出身地は雑多であった。ただし,中国・近代初期の潮流の中で,香港は中国ナショナリズムを育む場所として一定の役割を果たしたものの,香港在住者による「香港」そのものへの愛着といったものは明確には形成されなかった。第二次世界大戦開始から日本の敗戦まで続いた3年8ヶ月の日本軍政下では,香港の経済的窮乏は著しく,人口も激減した。この日本軍による占領の体験は,住民の反日感情と中国人としての愛国心を醸成することになったが,香港住民独自のアイデンティティーの覚醒を促すような性格のものではなかった。むしろ,その後の日本の「教科書問題」や尖閣諸島領有問題における反日感情の噴出に見られるように,日本軍国主義の記憶は,香港住民が中国人としてのアイデンティティーを表出しようとするときの一つの原点として作用しているようにも見える。

 戦後50年代,60年代になると,香港は今日の香港住民の大多数を構成している新移民の流入を迎えることとなった。特に新中国成立前後の混乱期には,中国本土から多くの人々が政治的または経済的な理由から香港へと流入し,例えば1948年から1953年の間には,推定255,656人の流入人口があったという(吉原和男 1988「移民都市のボランタリー・アソシエーション---香港の宗親団体と同郷団体」,末成道男編『文化人類学5』,京都,アカデミア出版会,152-153頁参照のこと。)この結果,推計総人口は,戦争直後の80万人程度から,1961年には既に3,129,648人となり,1981年には4,986,560人を数えている。特に40年代末から60年代前半までの流入が多かった。流入者は若年者層が中心である。

 これらの新移民たちは,国共内戦,大躍進,文革などからの避難が目的で香港にやってきた者が多く,したがって彼らにとっては香港は仮の宿り,一時避難の地という意識が強かった。新移民たちは,中国本土におけるさまざまな出身地からやってきた人々であった。地理的に近い広東省内からの移住者が大半を占めてはいたが,広東省内もそれぞれの地域ごとに方言,地方文化の相違が著しく,同じ出身地からの移住者は,移住地香港において「同郷団体」を形成して,異郷の地での相互扶助を図った。

 60年代までに香港にやって来た移民たちの間では,仮の住処である香港への愛着度は低く,共通の「香港人」意識はいまだ未成立であったが,こうした状況に変化が現れ始めるのは,1960年代後半から1970年代にかけての香港の経済成長期である。この時期,新移民たちの経済的安定と世代の推移が徐々に進展していった。職を得,広東語での生活,都市・香港の消費文化に馴染んで行き,未婚の若い移民たちは結婚して子育てを始めた。この時期に至って,その後今日にまでつながる香港の「大衆」が成立し,われわれ「香港人」という意識の萌芽が現れ始めたと考えることができる。

 さらに,1970年代後半から1980年代にかけては,香港生まれの世代が増加し,「香港人」としての独自のアイデンティティーが成長して行く時代であった。1981年の人口統計を見ると,4,986,560人の総人口のうち,香港で出生した者の割合が57.2パーセントと過半を数えている。この時期になると,香港住民の大多数が香港の広東語を母語とし,香港の都市生活を自明のものとするようになった。

 それは同時に,非広東語系移民の言語コミュニティーの崩壊とも並行していた。移民がスクウォッターとしてバラックの居住区を形成して住み着くことによりかろうじて維持されていた少数方言話者の言語コミュニティーは,彼らが香港各地の公共住宅へと分散居住するようになるにつれ,次世代の方言離れ、標準広東語への同化が急速に進展した。

 このような新移民の社会生活の変化は,同郷団体の機能低下をも生んだ。香港では,1970年代後半から同郷団体や宗親団体の衰退,非機能化が見られるようになったと指摘されているが,その一因には香港の経済成長と福祉の充実に伴い,同郷移民相互間の互助の必要が低下したこと,あるいは大量移民が一段落して新規移民の補充が少なくなったことなどが考えられるであろう。

 他方,香港に定着した移民たちの間では,徐々に「中国本土」に対する違和感の増大,後来の「大陸人」への差別意識が見られるようになっていった。ここでいう「大陸人」は,文字通り中国大陸の中国人であり,あるいはそこから香港へ出てきて間もない人々を指す。もとはと言えば自分もしくは父母の世代には「大陸」からやって来た者が大多数を占めながら,香港住民の間では,貧しく,田舎臭く,遅れた人々という「大陸人」イメージが,定着していったのである。そうした中国本土に対する違和感は,香港住民の「回郷」時の体験により拍車がかかった。

 英国植民地・香港に暮らし,もちろん英国人になったわけではないが中国本土の中国人とも違和感を感じてしまう存在,すなわち中国人ナもない英国人でもない「香港人(Hong Kong Man)」という自己意識については,人類学者・ヒュー・ベイカーが1983年に指摘している(Baker, Hugh D. R. 1983 Life in the Cities: The Emergence of Hong Kong Man. The China Quarterly 95: 478.)。だが,皮肉なことに,こうした中で英国と中国の政府間交渉が進み,1984年には「返還」についての英中合意が本決まりになった。そして香港の将来に見切りを付けた住民の中には,次の移住地を探す人々も現れ,「人材流出」などが大きく危惧されて報じられるようになった。

 80年代も終わろうとするころ,突如起こった「天安門事件」は,その後の香港住民の自己意識,アイデンティティーのあり方に,直接・間接に大きな影響を与えたもう一つの事件であった。この事件により,親中国派の人々は大きなショックを受け,他方,親中国派でない人にとっても,いよいよ中国本土というものと否応なく向き合わざるを得なくなった。香港を脱出して海外に安住の地を求めようとする人々により,移民ブームも生じた。だがそれと並行して,明らかにより積極的な意味での「香港人」意識が,この時期に確立へ向かっていった。

 新たに生じたこの香港人アイデンティティーは,当然ながら国家や伝統文化を拠り所とするものではない。それは,国民国家的な枠組みのそれや,原理主義的なそれとも明らかに異なる指向性に基づくものと言えるであろう。香港人アイデンティティーを支えるもの,それは「儒教文化」や「中国四千年の歴史」や「中国伝統歌謡」でもなく,また「資本主義」でも「共産主義」でもありえない。確かに,「レッセフェール」という言葉に集約される政治的経済的自由のイデオロギーを核にした「香港人」意識は,一部の知識人や「民主派」の人々の間には存在するが,一般大衆は「中国」と明らさまに逆立する可能性を秘めたそのようなイデオロギーに自分たちの自己意識の基盤を置くことを,意識的または無意識裏に回避しているように見える。

 彼らの「香港人」としてのアイデンティティーを支えるものは,結局のところ香港の「普通の生活」そのもの,大衆文化そのものなのである。それは日常の「当たり前」の生活様式である故に,本来はアイデンティティーの核として顕在化しにくい性質のものであるが,1997年の「返還」を目の当たりにした香港の住民の場合,「返還」によってそれまで当り前であった日常の生活様式が失なわれてしまうのではないかとの不安感が,それを核とした「香港人」としてのアイデンティティーの結晶化を促していると考えられる。

 香港のポピュラー・カルチュアは,全体としては英国文化あるいは西洋文化を多く取り込んでいるが,それをそのまま受容しているわけではなく,一種ピジン化している。例えば,個人名として中国語名の他に英語名をもっている人も多く,家庭内はともかく,職場などではそれが通用していることも少なくない。また,英語起源の名詞が日常会話の中に氾濫しており,そればかりか副詞,動詞などについても英語の単語が広東語の会話の中にしばしば挿し挟まれたりする。こうした英単語を多用した会話の様式が,香港広東語の大陸の広東語に対する弁別要素にもなっていたりもする(日野みどり 1997「香港人であることと中国人であることと---香港の社会変動とアイデンティティー」,瀬川昌久編『香港社会の人類学---総括と展望』東京,風響社,195-203頁を参照のこと)。

 「香港人アイデンティティー」というものの成り立ちを考えてみれば,それはこれから自分たちを飲み込もうとしている中国本土(「大陸」)との異質性に支えられ,かつ脱伝統化されグローバライズされた自己イメージの上に成り立っていると言えよう。この異質性が維持され続ける限り,「香港人アイデンティティー」は維持されるということが予想される。もともとそれは国家や伝統=純粋文化に寄りかかった自己認識ではないので,「返還」による政治的独自性の解消によっては消滅しない。むしろ,もしも中国の政策が香港の「普通の生活」に対する制限を「外圧」として加えるようなことがあれば,それは「香港人」の独自性の意識の強化につながる可能性もあるだろう。

 逆に,「香港人」が自らのアイデンティティー・クライシスを迎える時があるとすれば,それは本土の中国人との差異性が急激に失われるような事態に直面したときであろう。香港はポピュラーカルチュアの有力な発信地でもある。香港の歌謡曲やファッションなどは,海外華人社会や中国本土へも伝わり,受容されている。それら全てが「香港的」と認識されて本土へ入って行くわけではないが,両者の生活様式上の格差は確実に縮まる方向へ向かっている。中国の人民が改革・開放によって順調に経済発展を成し遂げ,日常生活の様式において香港住民との間に顕著な差異性が見出されなくなるときがあるとすれば,それは香港人をして,自分たちは一体何者なのかともう一度自問させる機会となるであろう。




3.「儒教規範の実践とその評価:韓国南西部南原地域における郷校表彰の事例から」/本田洋

 韓国の農村社会において儒教規範の実践の正統性が保証されるシステム,ならびにそのシステムの再生産の過程を検討することの一環として,地方での教化の拠点である郷校における孝烈表彰の事例を取り上げた。

 南原郷校では,管内の住民のなかから孝子,孝婦,烈女を発掘して,毎年春秋の文廟釈奠の際に表彰している。これは1964年2月に開始され,1966年2月には一旦中断したが,1981年8月に復活して現在に至っており,資料を入手しえた1994年8月までの間に,計77名に対して表彰が行なわれている。種別内訳では孝婦が圧倒的に多く,その点で,孝子,烈婦がむしろ多く見られる朝鮮時代の旌表や邑誌の忠孝烈条の記載とは,傾向を異にしている。受賞者の住所の分布は,現南原郡のうちで南原郷校の管轄区域となっている旧南原郡12面,ならびに南原市9洞のほぼすべてにわたっているが,人口分布と比較すると,市部の受賞者が圧倒的に少ない。加えて,現在は南原郡に所属していないが,旧南原郡に含まれていた周辺の諸郡面からも受賞者が出ている。これは,儒林の活動基盤が農村地域にあることと,そのネットワークが,旧郡の範囲に広がっていることを反映するものと考えられる。

 表彰において,孝烈を構成する要件は,主として,孝子の場合には父母の奉養・奉祀,孝婦の場合には婚家の舅姑や祖父母の奉養や嫁としての役割の全う,烈婦の場合には若くして夫と死別しても再婚せずに婚家での役割を全うすることであり,旌表の伝統が忠実に守られているのをうかがうことができる(ただし,烈婦に関しては,質疑の際に,朝鮮時代には殉死が多く見られたという指摘もなされた)。また,候補者の選考は,候補者が居住する面洞の儒林や面洞長等の公職者による推薦という形をとり,面洞に依頼して功績事項を調査する手続きも時にはとられている。

 郷校孝烈表彰の目的は,孝烈の実践者を讃えるとともに,その実践内容を他の者に対し範として示すことにある。ただし,それが実効性をもつのは儒林の影響力の及ぶ範囲内に限られる。

 最後に,1980年代に入ってなぜ孝烈表彰が再開され,さらにはそれが南原郷校の教化活動の主軸をなすようになったのか。朝鮮時代と比較すれば,国家の行政機構における儒教自体の地位が低下し,郷校の財政的基盤も弱まりつつあるが,地域の儒林の自助努力によって,郷校の教化の拠点としての機能は弱まりつつも維持されてきた。しかし,1960年代中盤に始まる高度経済成長と都市化の過程のなかで,儒林の存立基盤をなしていた農村社会は過疎化と老齢化に見舞われた。それとともに,儒教・漢籍を教育する場も少なくなり,儒教的な教養を備えた後継者を確保し育成することが極めて困難になりつつある。このような状況のなかで,儒林のネットワークの再構築,後継者の育成とともに,釈奠・焚香儀礼を執り行い旌表の伝統にのっとって孝烈の表彰を行なうことを通じて郷校の儒教教化機関としての正統性を主張し続けることが,儒林の取りうる限られた途の一つであるのだと考えられる。




4.「周辺からみた中心」/末成道男

 中華モデルという富士山型の同心円的な中心から周辺へと降りてゆくモデルにたいして,周辺部では,その内容を摂取しながら,それをも強力な対抗手段のひとつとしてその均質化に抗したり,類似の蔭に固有性を創造したりする動きが常に渦巻いていたのではないか。このようなベクトルの多様性こそが,東アジア文明全体を豊かにし,中華文明にも活力を与えていたと思われる。

1.
漢族化しない中華文明の導入にも,様々のタイプが見られる。例えば,日本のようになしくずしに都合の良いところだけを摂取するケース,中華文化と日本文化を導入しながら,その下に固有な原理が働いている沖縄,同様表面上は漢族文化に圧倒されたように見えながら,固有のエスニックアイデンティティを保持しているサイシャット,プユマなどの台湾原住少数民,国家の側で積極的に中華化を押し進め,原理の純粋性を強め本家をしのいでいる韓国と,同じく国家主導で固有な原理の組織強化に利用しているベトナムなどがある。これらを,見ると,中華文明摂取の度合いは,必ずしも漢族への同化の度合いの指標にはなり得ないことがわかる。

2.
この過程は,一方的ゲームではない。周辺においては,漢族も周辺に同化される現象が認められる。例えば,ベトナムにおける漢族およびその後裔には,ショロンの漢族のように普段は漢族方言で生活し,故郷とのつながりを保っているものから,クメール系住民やベト族との混血の進んでいる南部ソクチャンの「明郷」,北部デルタのベト族に溶けこんだ「明郷」,さらにはベト族村落で中国渡来の祖先を持つ親族集団の存在に至るまで様々のベトナムへの文化的同化とエスニシティの関係をみることができる。

3.
ベトナム少数民族においても,直接の中華化と,ベト化を介した中華化という二つのタイプの漢化を対比させることが出来る。北部国境地帯を歩くと,中国の壮族と関係の深いと言われるヌン(Nung)族とタイ(Tay)族は,前者が中国の習俗を直接取り入れているのに対し,後者はむしろベト族によって濾過された中華文化を取り入れベトナム化を進めているという対比が目に付く。漢族やベトナム族以外の少数民族を主役としてみると,そこには漢族とベト族との二者関係においては気づきにくかった過程も明らかにすることが可能になろう。
 以上から,結論として次の3点が言えよう。(1)「漢化」と言う言葉は,多様に用いられ混乱するので,エスニックな現象としての「漢族化」と文化のレベルでの「中華化」とに分けることが有効である。(2)「漢族化」,「中華化」は,一方向でなく双方向の現象として捉えるべきである。(3)漢族や多数民族以外の周辺民族を主体とすることにより,現象をより複合的に把握することが可能になる。



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