調査こぼれ話3   調査こぼれ話5

電話で現地?調査

呉人徳司

夏のツンドラでベリーを摘んでいるチュクチ人夫妻
(アナディル市の郊外)
アナディル川で鮭を捕り塩漬けし、越冬準備に追われるチュクチ人
(アナディル市の郊外)

 

 5週間のチュクチ語の現地調査を終え、先日、ロシアから帰国した。ロシアと言っても、私が滞在していたのは、ロシア北東端チュコト半島に位置するチュクチ自治管区という地域であり、ベーリング海峡を挟んでアラスカはすぐ対岸である。モスクワからは直行便でも8時間以上かかる。大学院の修士課程時代から数えると、もう10回以上の現地調査となる。

 ロシアは未だ経済の混乱状態から抜け出していない。とりわけ、中央から遠く離れたこの極北地域では経済状況は年々厳しさを増しており、中央からはまさに見捨てられたような印象さえ受ける。賃金の未払いが常識になっており、かつては高給と好待遇を約束されてこの地域にやってきたロシア人、ウクライナ人などの白系の人々の多くは、家財道具をコンテナで送り、続々と故郷(彼らがいう大陸)へ引き返している。10年前には15万人だった自治管区の全人口は、今では半減しているといわれている。一方、逃げ場のない先住民たちは、白夜の夏の間、川や海で魚や海獣漁に励み、ツンドラでベリーやキノコを採り、野生トナカイを狩って越冬準備に追われる。

 ところで今回の調査でなにより苦労したのは移動だった。まずは空の移動。鉄道のない広大な極北地域の移動に唯一頼りになるはずの飛行機が、天候不順を理由にしばしば予定を変更するのは、この地域の自然環境から考えればやむをえないことではある。それでも夏の間だけは、タイムテーブルが一応あるのだが、悪天候による飛行中止に加えて、ここ数年、極端な燃料不足というもうひとつの深刻な問題が生じている。このため、しばしば予告なしの飛行中止が起こるばかりか、モスクワを飛び立った飛行機が途中で燃料切れになり、経由地で燃料獲得の交渉を延々と始めるというようなこともある。

 私は、8月初め、マガダン市から2週間に1便という30人乗りのプロペラ機に乗ってチュクチ自治管区の中心地アナディルに着いた。それから、1週間後には同じく2週間に1便というプロペラ機で、今度はさらに北のペベックという町に向かった。ペベックは北極海に面しているため、8月上旬というのに気温はプラス4、5度にしかならない。しかし、半年前にきた時にはマイナス50度だったので、それに比べればはるかに暖かいというわけである。

 さて、ペベックまでの移動はたとえ2週間に1便であれ、この地域の事情を考えればかなり順調だったといえる。だが、問題はその後に起きた。これまで通っていたツンドラの村リトクーチにたどり着き、長老たちから生きたチュクチ語を聞くためには、ペベックからの150キロという距離をなんとか走破しなければならない。村へのアクセスには陸海空の3種類がある。こういうといかにもどこからでも行けそうで聞こえがいいが、ここでは「時間と忍耐力がたっぷりある人には」というただし書きをつけなければならない。日本で150キロといえば、車で2時間もあれば着いてしまう距離だが、ここシベリアのツンドラ地帯ではかなづちの僕が北海道から本土まで泳いで渡るくらい遠いのだ。

 まずは、ペベック空港に行って、そこの職員に「リトクーチ村へヘリコプターが飛ぶ予定はないか」と聞いてみると、こんな答えがかえってきた。「燃料が今、ほとんど底をついている状態なので、ヘリコプターは2つの緊急事態に限ってしか飛ばないことになっている。その1つは村かツンドラのトナカイ放牧地で病人が出た場合、もう1つは火事が起きた場合」。そのいずれかを待っていたら帰国の日になってしまうとあきらめ、今度は港に行って、「リトクーチ村へ石炭を運ぶ予定の船はないか」と尋ねてみた。すると「明日もう1度来てくれ。そしたら船がいつ出るかわかる」という。そこで、かすかな望みを頼りに町のホテルに身を寄せ、様子をみることにした。翌日、港に行ってみた。すると船長は、「1週間後に船が出る予定だ。しかし、それも天候次第で、海が荒れれば、出航できないこともあり得る」と言う。1週間あるいはそれ以上の限りない時間を待つ余裕はもちろんない。ヘリコプターに続き、船で行く望みもなくなってしまった。そこで、最後の手段をとることにした。つまり、夏のツンドラでは唯一の陸上交通手段である装甲車に乗って7時間ほど行くのである。しかし、これには途中で大きな川を渡るという危険が伴う。それに比べれば、装甲車のあのすさまじい揺れなど問題ではない。さて、装甲車を持っている文化局の責任者に聞いてみると、「村に行って壊れてしまい、まだ修理が終わらず戻ってきていない」という。

 これで陸海空の交通手段のいずれもだめになり、結局、村へ行くことをあきらめるしかなくなった。最悪の事態に陥った私は、「もうこうなったら、村に電話して、電話で調査するしなかい」と決心した。翌朝、ホテルの廊下に設置されている電話で、私のインフォーマント、ゲウットワリばあちゃんに電話をかけ、事情を説明し、早速調査に入った。無線電話のせいか、相手の声があまりはっきり聞こえない。お互いに叫び合いながら、この日の聞き取り調査は、朝2時間、昼1時間、夜1時間、合計4時間に及んだ(ちなみにここでは村までは無料で電話がかけられる)。お互いの顔が見えない分、ほどよい緊張感に包まれ、これほど集中して聞き取り調査が出来たのはここ数年の調査では初めてだったかもしれない。不幸中の幸いとはこのことかもしれないとつくづく思ったものだった。

 その後、滞在期間をあと2週間残した私は、これ以上ペベックでねばるよりも、もう一度今年初めて訪れ、十分調査ができそうだという感触をえたアナディルに戻って仕事を続けることに決めた。しかし、アナディルへの直行便は10日待たなければこない。それで、やむをえず、遠いモスクワを経由して、ペベックから直行便だったら1時間半で行けるアナディルに向かうことになった。ところが、空港に行ってみると、「モスクワからの飛行機は経由地で止まっているから、ここに到着するのは明日になる」と言うではないか。翌日、なんとか乗りこんだ飛行機のスチュワーデスに遅れた理由を問いただすと、「経由地で燃料の補給をすぐにしてもらえず、長い交渉をしていた」との返事だった。

 さて、モスクワになんとかたどり着いた私は2日後、また8時間もかけてアナディルに飛んだが、長時間の飛行と時差ボケからくる疲労は頂点に達していた。

 とはいえ、帰国間際になってやっと軌道に乗った今夏の言語調査は、シベリアでは予定はあってなきがごとしと思っていたほうが、精神的損失が少ないということをいやというほど思い知らせてくれたのだった。

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