ウデヘ語の話者、そして言語状況
風間伸次郎(東京外国語大学)

 ウデヘの人口は一説には1500人、話者は500人ほどと言われて いる。ウデヘの住む村は4つあり、私はそのうち3つを訪れることができた。そこで私が見た限りでは、500人も話者がいるとは 思えなかった。もっとも上記の統計も数年前のものであるし、さらにここ数年でもかなりの話者が亡くなったものと思われる。若者がこの言語を話すのはまず見たことがない。筆者はここ数年の間に9回ウデヘ語のフィールドワークにでかけ、この言語の記録 に努めてきた。しかしその成果は数編の短いテキストを公表したことが一度あるきりである。その間にもっともすぐれた語り手が亡くなり、最後のシャーマンも亡くなった。そして昨年、私の仕事の大部分を助けて下さってきたコンサルタントの方の訃報を聞 いた。彼女は、テープからの書き起こしに際しては、ゆっくりと 言い直して下さったり、私のロシア文字での表記を見て直して下 さったり、ロシア語で意味を解説して下さったり、文法的かどうかの判断や、派生形の例をあげたりもして下さった。もちろんウ デヘ語の知識は誰よりも豊かだった。分析の手伝いのかたわら、自分でも実話や民話を語って下さった。要するに言語研究者であ る私の仕事の全般を助けて下さった「神様のような」コンサルタ ントであった。私は何遍となく、「来年には立派な本にして出版 するからね、」と言い続けてきたのだけれど、その約束も果たせないうちに、本を見せることもできないうちに、彼女は逝ってし まった。

 数年前までウデヘ語の記述といえば、1936年刊のシュネイデル による簡明だが薄い辞書兼文法書が一冊あるきりで、わずかなテ キストさえ出版されていなかった(やはりシュネイデルによる子 供用の教科書があったぐらいである)。そのために私はよりよい ものを、より完全で文法や辞書も含んだ大きなものを出したいと 思い、少しずつでも形にし発表していくことをためらっていたよ うに思う。また言い訳のようだけれど、記述が少ないだけに表記 をはじめ分析になかなか自信が持てなかったということもある (今だって自信があるとはいえない)。
ウデヘの三人のコンサルタント。 残念ながら三人とも最近亡 くなった。右端がニーナ・ズンゴーブナ・ククチンカ氏。
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 だがしかし、彼女を喪った今、ただただ申し訳ない気持ちで いっぱいである。ほんの少しでも成果を見せて喜んでもらいた かった。くだらない功名心など早く捨てればよかった。長い時間、もどかしく地道な作業を辛抱強くずっと一緒にやってきた 「仲間」に、何かしらの織り上げた布を一目見てもらうべきだっ た。このやりきれない思いからすれば、学問的正確さだの、全体 像を描き出す価値なんてのも、「くそくらえ」である。

 むろんその仕事にはいつもできる限りのお礼もしてきたのだけ れど、そんなものでは到底計れない価値をもつ仕事である。彼女 が手伝ってくれたのは何度か通ううちにできあがった人間同士の信頼によるものだと思うし、最後はお互いに実の祖母や孫のように思っていたと思う(少なくとも私はそう思っている)。それだけに、今なおさら残念に思うのだろう。形になった成果を見せること以外、その価値に報いる方法があっただろうか。彼女は賢い人であった。彼女もその完成の価値と喜びを理解していたからこそ、労を厭わずに助けてくれたのに。

 この言語へのアクセスは悪い。深い山の奥にある村へ行くの に、公の交通機関は無く、道も悪い。大雪の日、5時間で行ける 道を50時間もかけて、スタックする車を夜通し押し続けたことも あった。ロシアの悲惨な経済事情の極みともいえるこの辺境の村 には、電気のない夜がずっと続いている。こんな中で行ってきた 調査であるから、その成果への私の思い入れはまた強くなる。し かしこうした体力勝負や力仕事はむしろ私の得意な分野であった のかもしれない。

 ここ数年のうちにウデヘ語については、ロシアの研究者から3 巻本の辞書が一組、文法記述が2冊、それに伴うテキストや語 彙、そして教科書が1冊出版された。さらに近くもう1冊辞書が 刊行される。予想外の展開である。話者は残りわずか、子供の教 育そのものが困難な村の経済状況であるというのに、なんという皮肉なことだろう。しかしとりあえず私にとって、これらを正確 に消化し、かなりの量の自分の資料に統一した分析を行うのはな かなかたいへんだ。もっと地道で、苦手な分野である。私のような雑な人間がやれば、間違った分析や表記の不統一などがたくさん残るに違いない。しかし一年、また一年と時が過ぎるにつれ、ノートに書いた自分の記述に対する記憶さえ鮮明さを失っていく。

 3巻本の辞書を書いたロシアの学者、ノボシビルスクのシモノフ氏は昨年突然に亡くなった。まだ40代の若さであったと思う。1994年にノボシビルスクで会って以来、論文を送ったり、何度か 手紙のやりとりをした。間違いなくウデヘ語に最も長く真摯に取 り組んだ研究者だったろう。研究者の命だって一つしかない。ウデヘ語の他にも私にはどうしても形にしなければならない生の資 料がまだたくさんある、人間同士の「信頼」に応えるために。

 だから今度こそ本当に「来年」、私はウデヘ語の成果を出す。 ここに宣言する。一人の言語研究者ではなくて、一人の人間とし てとにかくこの仕事をやり遂げなくてはならない。今また一語の 表記に悩み、一文の訳に困っているけれど、彼女の助けはもうない。時間は逆行しない。やはりより正確で、より網羅的で、より良いものを作る以外に彼女の恩に報いる方法はないのだろう。

 ニーナ、ごめんなさい。
 何度かあなたに手紙を書きましたね。今天国のあなたに手紙を書いています。「来年にはできあがった本を送るから」なんて、うそを言いました。電気毛布を持って来てあげようと思っていたんだけど、持って行きませんでした。あなたの助けに見合うほどの、立派なものは作れそうにないんです。ごめんなさい。あなたが逝ってしまったことが無念で、自分の無力さも悲しくて、私は泣いています。でも泣いていてもしょうがありませんね。できあがるまでがんばります。アササ(ありがとう)、天国でもアヤジ ビトゥイジュ(良く過ごしていて下さいね)。ダッスィヴィダー ニヤ。