フランス軍先遣部隊のマジュンガ上陸から数えてほぼ85年後の1981年12月17日の朝、この日私は日本から52日間の航海の後、午前6時マジュンガの町の沖に着いた。これが、初めてのマダガスカルへの旅であった。船橋から双眼鏡で視たマジュンガの町は、木々に覆われた小高い丘を中心に少し緑色がかった青い水面の上に朝日を背景に浮かぶ静かな美しい佇まいであった。午前9時に入国審査を船内で終えたものの、荷揚げの関係で上陸できたのは午後4時。タム大尉の書簡に綴られた上陸を待たされる兵士たちの心情を、今追憶する。12月23日早朝、空路マジュンガから首都アンタナナリヴへと向かった。現在でもマジュンガからアンタナナリヴへの空路と陸路は、フランス軍の侵攻進路とほぼ同じ、ベツィブカ川からその支流のイクパ川(Ikopa)に沿って走っている。飛行機の窓からマジュンガからアンタナナリヴまでの600kmの間に繰り広げられた私にとって最初のマダガスカルの風景は、朝陽が大地を赤く染める樹一本生えていないような丘の地平線の彼方までの連なりと、それらの丘を削りながら赤い泥土と共に雨季の雨を集めて流れる川であった。以来20数余年、時に空路で、時にタクシ・ブルースと呼ばれる乗り合い自動車で、このマジュンガとアンタナナリヴとの間の道と空を幾度往復したことだろうか。
現代マハザンガの町の中に1895年当時のことを形にとどめる物を探し求めても、海岸近くにある樹齢数百年のバオバブの樹、ダウ船やスクーナー船の船泊まり一帯に点々と残る珊瑚礁の石を積み上げ漆喰で塗り固めたコモロやザンジバルにも見られるスワヒリ的建築様式を伝えるその一部は廃屋となっている古い二階屋、そして町中の小さな公園に集められたかつては丘の上のイメリナ王国軍の要塞に据えられていたジャン・ラボルドゥ工房が作製した1895年当時既にものの役には立たなかった前装式青銅砲などを、散見することができるだけである。

マエヴァタナナの町にある1895年戦争の顕彰碑
マルヴアイ攻防戦の行われたマルヴアイの町にも、二度訪れたことがある。1895年当時は沼沢が広がっていたマルヴアイの町の郊外も、今ではすっかり水田化が進み、乾季に訪れれば辺り一面稲穂の黄色が目に焼き付く豊かな田園風景となっている。かつては町のまわりにも多数棲息し、町の名称の由来となったワニは、今ではベツィブカ川に少数棲息するだけである。その昔はサカラヴァの首長が居住し、1895年5月2日午前10時それまでひるがえっていたイメリナ王国旗に代わってフランス国旗が掲揚された30mほどの丘の上に立てば、東から町に通じる唯一の道、それゆえフランス軍の一方の進入路となった道を、青空の果てまで眺め渡すことができる。
ツァラサウトゥラ遭遇戦に際し、フランス派遣軍司令部と主力部隊が駐屯していたマエヴァタナナの町は、今ではマジュンガとアンタナナリヴを行き来するタクシ・ブルースの給油兼一時休息の地として、小さな食堂やバーや雑貨店が沿道にひしめき賑わっている。そのガソリンスタンドの脇に今でもひっそりと、「1895年作戦中に死亡した兵士達の想い出に」と銘が刻まれた3mくらいの白い顕彰碑が建っている。フランス植民地時代、顕彰碑の銘は、「フランス兵士達の想い出に」とあったにちがいない。マジュンガからアンタナナリヴに向かう乗客はここで寒さ対策のために服を着重ね、アンタナナリヴからマジュンガに向かう乗客はここで着ていた厚い服を脱ぐ。マエヴァタナナの町は、マジュンガとアンタナナリヴを結ぶ国道4号線の中で、中央高地と西海岸の中継点ないし出入り口の役割を果たしている。
標高80mほどのマエヴァタナナの町を出ると、アンタナナリヴに向かう道は右手に時折イクパ川の流れを見ながらほどなくして中央高地の入り口にさしかかって次第に高度を上げ、アンドゥリィバの町に着けばそこはもう700m近い。インメリナ王国軍が強固な防護陣地を構築しながらフランス軍の攻撃の前にあえなく放棄した900mの孤立峰は、国道4号線の脇に今でも当時そのままの姿で道を睥睨するように聳えている。その稜線には、当時の塹壕であったかもしれない深い溝が現在でも幾筋か認められる。アンドゥリィバの町は、街道沿いに教会や憲兵隊駐屯所や小中学校が並ぶ静かな群庁所在地である。観光客が訪れることもなく、またタクシ・ブルースの中継地となることもなく、この町の北東部一帯が1895年の両軍の主力決戦場であったことを、この町を停車することもなく通り抜ける車中のどれだけの旅人たちが想い起こすことであろうか。
アンドゥリィバからアンタナナリヴまでの216kmの道のりは、1000mから時には1700mにおよぶタンプンケツァ(tampon-ketsa)と呼ばれるほとんど草原状の丘や岩山の重なりを上り下りしながら進む。フランス軍がこの一帯を通過した9月の夜は、6月や7月に比べ少し気温が上がってきたとは言え、それでも荒涼とした丘を吹きわたる夜風は身を切るほど冷たく、明け方は10度をはるかに割り込むまでに気温が下がる。アンタナナリヴから26km北西に行ったマヒーツィ(Mahitsy)の町に着けば、そこから道は緩い上り下りを繰り返すようになると共に急速に人家の数が増え、アンタナナリヴ平野に近づいたことを実感する。15km離れたアンブヒダラァトゥリィム(Ambohidratrimo)の町の丘からは、アンタナナリヴの市街と丘の上に建つ女王宮殿をはっきりと見てとることができる。現代の国道4号線は、アンブヒバウ(Ambohibao)の町を下ってから、イクパ川とシサウニ川(Sisaony)がつくり出した広大な氾濫原のベツィミタタトゥラァ(Betsimitatatra)の水田地帯を抜け、アンタナナリヴの市街地へと向かう。1895年の派遣フランス軍軽装先遣攻撃隊は、この大沼沢地帯にはまることを避けるために、アンブヒダラァトゥリィムの町の手前から進路を一旦東にとり、イメリマンドゥルゥス村(Imerimandroso)から一路南下、アンタナナリヴに北方から迫った。
アンタナナリヴ攻略を目前にしたフランス軍が大砲を据え女王宮殿に向けて砲弾を発射したアンブヒデンプナの丘は、女王宮殿が建つ丘から続く一連の町並みの中に<アンタナナリヴ>の市街地として飲み込まれてしまっている。宰相ライニライアリヴニによって破壊され1895年9月当時は廃墟となっていた天文台はフランス植民地時代に再建され、現在もその場所に姿をととどめている。そして、フランス軍にとってアンタナナリヴ攻略の象徴的建物であった女王宮殿は、フランス植民地統治時代から1960年のマダガスカル独立後も長らくその当時のままの姿をアンタナナリヴの丘の頂きに見せていたが、1995年11月6日の放火事件によって消失し、再建計画が進み始めたものの、外側の石造りの壁や楼だけを残す廃墟となった姿を晒している。
このように100有余年の歳月は、土地の上からこの戦争の記憶を、切れ切れの景観の断片を残し、消し去ってしまっている。60有余年のフランス植民地化は19世紀までのイメリナ王国の痕跡をぬぐいさろうとし、また1960年のマダガスカル共和国の誕生と1972年からの民族主義と社会主義の高まりは、今度はフランス植民地化の痕跡をぬぐいさろうとした。植民地時代に大きな町の通りに与えられたこの戦争に従軍指揮し戦功をあげた将官たちの名前は、民族主義と社会主義のうねりの中でマダガスカル人や他国の著名人の名前によって取って代わられ、あるいはその顕彰理由を忘却され人名ではなく通りの名称として存続している。
とするならば、1895年以前にマダガスカルの人びとの間に<戦記>は存在したのだろうかと、100年の歳月の意味をマダガスカルの土地にではなくマダガスカル人の記述と表象の中にその前と後として問うこともあながち無意味ではないだろう。1809年に生まれ、1820年から1829年まで王によってイギリスに派遣され英語を習得、帰国後は宮廷で官吏を務めたラウンバーナ(Raombana)は、晩年英語で書き記した『歴史』(Histories)の中で、ラダマI世の南サカラヴァ王国遠征について次ぎのように叙述している。
1822年ラダマ王は、フルプワンとタマタヴに兵士と士官たちを駐屯させると直ちに、兵の主力を率いて、ラミタラァハ王(Ramitraha)の支配下にある南サカラヴァ国にあるムドゥンギの町(Modongy)を攻めるために、南から南西に向かった。ムドゥンギは、高所に位置する町である。そびえ立つ岩山の上にある上、妻子たちを奴隷や捕虜にしないために勇猛かつ死に物狂いに戦うことを決意した多数の戦士たちによって守られていた。
町を防衛するために彼らは様々な防御法を用い、頂上に大小の夥しい石を蓄え、兵士たちが町を奪うために岩山を登ろうとすると攻撃者たちの上にそれらを転がすなど、ムドゥンギ町の人びとの並外れた勇気によって、ラダマと彼の勇敢な兵士たちと士官たちの努力も、数日の間実を結ばなかった。これらの石によって、多くのラダマの士官たちや兵士たちが殺され、殆どの兵士たちにムドゥンギは難攻不落と思わせた。高位の士官たちは、軍を撤収してムドゥンギを離れ、それほど高所でもなくまた堅固でもない他の場所を攻撃するよう王に嘆願に行った。
けれどもラダマはある朝、士官たちと兵士たちを集め、「ムドゥンギは今日中に奪取されるだろう。なぜなら、私自身が町に攻め上り、皆が私の行動と勇気を見習うならば、ムドゥンギの陥落は、今日と思って良いからだ」と訓示した。そう言うと、彼は登頂を命令し、自らが先頭に立った。彼は、素早く登り始めた。
マスケット銃が王と彼の兵士めがけて発射され、夥しい石と槍が彼らに向けて投げつけられた。しかしながら、勇敢な士官たちと兵士たちは大きな損害を受けることもなく、兵士たちと共にラダマはなおも前進を続けた。
巨大な断崖から彼を投げ落とすために彼に向かって突進しきた数人の男たちを、彼自身の手で切り倒した。双方の間での血なまぐさい殺戮の後、ムドゥンギの町は、攻略された。
(Raombana , 1994 , pp.117-119. 原文英語)
ラウンバーナによるこの一節が、イメリナ王国のラダマI世王の武勲を伝承するマダガスカル語のタンターラ(tantara)すなわち<歴史語り>に根ざす叙述スタイルを纏っていることは、容易に見てとることができる。しかし、イギリスで英語や教養科目を習得したラウンバーナが、英語のヒストリーとしてこれを叙述しようと意志し、その結果タンターラから逸脱しつつあることもまた事実である。ラダマ I 世王と同じ民族に属するだけではなく、その王の寵臣でもあったラウンバーナが、王の武勲を称揚することになんらの不思議もないが、このムドゥンギ町攻略の記述が、一人王のみならずイメリナ王国軍の兵士たち、そしてさらにはムドゥンギの町を守る敵の兵士たちに対しても向けられている点に注意しなければならない。<歴史語り>としてではなく<歴史>として何かを記述することは、ある場所に身を置くこととある場所から身を引き離すこと、その双方の<立場>の問題であることをラウンバーナは、この時点で十分に知り抜いていたに違いない。<歴史>を記述する主体として覚醒した<著者>が、そこに居る。その一方、当時のラダマI世の軍隊が徴兵制を基礎とする近代国民軍とは異なる常備兵を中核に非常時参集する一般兵を含めた曖昧な組織形態であったことと関連するように、ラウンバーナの歴史記述の中では、<歴史>一般から<戦記>を分離する意識は、まだ萌芽的な段階に留まっている。<戦記>が他の<歴史>記述から独立して成立するには、集団としての軍隊がその他の社会組織や社会生活一般から分離される時を待たねばならない。フランス−イメリナ王国戦争に従軍したイメリナ王国軍の士官や兵士たちの記述がほとんど残されていない理由は、それがマダガスカル側にとって独立を失うきっかけとなった恥ずべき敗戦であっただけではなく、イメリナ王国軍の軍隊組織としての未成熟さに由来するものであろう。
では、1895年の後は、マダガスカル人の記述と表象に何をもたらしまた残したのであろうか?序章の冒頭で引用した歴史小説『干渉』の巻頭言において、<作者>ラベアリヴェルは次のように書き記している。
突進し激しく吠えかかる犬を制止し撫でながら、その老人はため息をついた。半分白くなりのびた眉毛の茂みの下にある眼差しは、彼の表情を容易には読みとらせない不思議な炎を発していた。
私は、不安と好奇心と共に注意深く彼を、見ていた。水の上よりも他に洩らすことのない夜の闇の固さの中で何かを掴もうとするかのように伸ばされた手と張りつめた首、彼は黙っていた。
なぜなら夜の闇だけが、水面に無数のさざ波が立ち、大きくなると次第に輪になり震える縁と共に消えてゆく水の上で、不動だったからである。
彼は、立ち上がった。
子供たちよ、水の静けさを破った石一つに象徴されるバフーリ(Baholy)一家の物語を、イメリナ地方の難解な人びとの心を表す明晰で曖昧な言葉で彼は私に語る。
彼は、犬の上に屈みこみ抱き、私の謝辞も別れの挨拶にも耳を傾けずに、立ち去った。
私は、彼の後を追い、今一度もっと詳しく聞かせてくれるよう彼に頼もうと、さらには、二つの文化の相反する光が視力を奪うまでに眩惑し、もし私がこのように言葉を整理することができるならば、その消滅までこの一家の物語をもう一度私に語ってくれるために私の家で一晩を過ごしてくれるようお願いしようと思った。
彼は足早に歩いたため、一本の暗い大木に続く曲がりくねった道の二番目の曲がり角で私は彼を見失った。
この失望の後でどうして私は、水辺に戻ってきたのだろう?その老人の何気ないしぐさが、一片の石を永久に失った定かには見極めがたいその場所に、私はどうして最後のしかし魅入られた視線を投げかけたのだろう?
今は水面も波立たず、つい今し方の動揺を記憶にすら留めてはいない。
年齢とった語り手の最後の言葉が、私の心の底でいつも鳴り響いた。ある朝、裂けたシーツ、乱れたベッド、バフーリ一家の物語を夢のなかで美化し飾り立てた後で、私はもう一度それらに聞き入った....
1928年10月31日
(J.Rabearivelo , 1987 , pp.13-14. 原文フランス語)
このような老人が、ラベアリヴェルの前に居たのかどうかすら誰にもわからない。それゆえこの小説はかかる容貌の老人から聞いたあるマダガスカル人一家の物語を書いたのだとラベアリヴェルが記述する瞬間に、その老人と一家は何処かの特定の誰かでありまたそれは同時代のマダガスカル人の誰彼へと止めどもなく漂流を始める。全ては、読者にこそ委ねられる。これはモデルの存在する歴史小説なのか、そんな問いをも全て無化してしまう、重なり合い共鳴しあう比喩と暗喩。マダガスカルの記述と表象はついに、R.バルトが主張する世界へと行き着いたのだ。
まさにエクリチュールは、あらゆる声、あらゆる起源を破壊するからである。エクリチュールとは、われわれの主体が逃げ去ってしまう、あの中性的なもの、混成的なもの、間接的なものであり、書いている肉体の自己同一性そのものをはじめとして、あらゆる自己同一性がそこでは失われることになる、黒くて白いものなのである。
おそらく常にそうだったのだ。ある事実が、もはや現実に直接働きかけるためにではなく、自動的な目的のために物語られるやいなや、つまり要するに、象徴の行使そものを除き、すべての機能が停止するやいなや、ただちにこうした断絶が生じ、声がその起源を失い、作者が自分自身の死を迎え、エクリチュールが始まるのである。(R.バルト , 1979 , pp.79-80)
1895年の前と後は、マダガスカルの記述と表象の歴史の中においても確かに存在する。<歴史語り>と<歴史>、<歴史>と<戦記>、<歴史>と<小説>。しかし、ラベアリヴェルが自分たちのことを語ることのできる「明晰で曖昧な言葉」を既にしてその老人が持っていたと書いた時、そしてラベアリヴェルが最終的にフランス語の詩とマダガスカル語の詩を自らの言語表現として選択したことを知る時、自己同一性の喪失を導き現実化したものが何でありそれが何処からやってきたのか、それらのことは今一度マダガスカルの識字化の過程の中に戻って考察されなければならないであろう。
註