V I 章 アンタナナリヴへの道



アンドゥリィバへ行軍するフランス軍山岳砲兵隊の挿し絵、H.Gally , La Guerre a Madagascar,1896 , p.537 , アンドゥリィバから敗走するイメリナ王国軍の兵士たちの挿し絵、ibid. p.577
 
  8月21日、アンタナナリヴから北に200kmほど行ったアンドゥリィバ村(Andriba)の郊外において、フランス軍とイメリナ王国軍との間で最後の大規模正面戦が行われた。イメリナ王国軍守備側は、ツァラサウトゥラの遭遇戦に破れたライニアンザラヒ軍の残存歩兵約5000名およびアンタナナリヴから急派された雇いイギリス人士官率いる砲兵隊から構成されていた。王都から派遣された砲兵隊は10門の最新式ホッチキス社製山砲を含む20門の大砲を装備していた上、平野から900mの山がそびえ立つアンドゥリィバ付近の地形を利用してそのイギリス人士官の指導の下、砲台同士を塹壕で結び頂きに旋回砲を配置した複廓陣地を構築し、イメリナ王国軍はフランス軍主力部隊を迎撃するのに十分な火力と兵員と地の利を備えた、主力決戦場と呼びうる体制を準備していた。これに対しフランス軍は、ここまで個別の戦場における戦闘に連戦連勝しただけではなく、戦闘による死亡・負傷による戦線離脱者がごく少数に留まっていた一方、マラリアや赤痢などの感染症による兵員の損耗は甚大であり、当初の派遣軍総兵員数15000名の三分の一近くにあたる4600名が病没していた。したがってアンドゥリィバ攻防戦は、近代的国民軍として数々の欠陥を持つイメリナ王国軍にも第二次フランス−イメリナ王国戦争の中で十分な勝機があるかに見えた唯一の戦闘であり、実際にも戦闘初日の21日の段階ではフランス軍の前進を阻止している。しかしながら、イメリナ王国軍側の砲座の一つが直撃弾を受けたことやフランス軍が塹壕に立て籠もるイメリナ王国軍に対し霰散弾を発射したことなどをきっかけに、21日から22日にかけての夜間に兵士の逃亡が始まり、翌22日フランス軍が再度攻撃を行った際、イメリナ王国軍の陣地は既にもぬけの殻であった(M.Rakotomanga , 2000 , pp.39-40)。
 アンドゥリィバの地を制したことによって、フランス派遣軍の前には王都アンタナナリヴまでの住む人もまばらな丘の重なる起伏に富んだ200km余の道だけが残された。これまでの戦闘でフランス軍の力を思い知らされたイメリナ王国軍はもはや正面戦を挑むこともなくなり、また一方イメリナ王国軍の戦闘能力について十分な情報と評価を得ることのできた今、フランス軍にとって当面の敵はもはやイメリナ王国軍ではなく、11月から12月に始まる雨季の前にアンタナナリヴを占領することができるかどうかの時間との戦いであった。ここまでの400kmをフランス軍は、メッツィンゼールが指揮するフランス派遣軍主力第一陣の上陸から数えて147日間すなわち一日約2.7km、ドゥシェーヌ派遣軍総司令官と派遣軍主力全軍の上陸から数えて83日間すなわち一日約4.8kmの進軍速度で踏破していた。このままの進軍速度から単純計算すると、アンドゥリィバからアンタナナリヴまでは、早くて45日、遅ければ80日後、すなわち10月下旬頃から12月上旬頃の間にアンタナナリヴに到達することになった。アンタナナリヴに近づけば近づくほど、イメリナ王国軍の抵抗も今一度激しさを増すことが予想されたため、従来通りの進軍速度を維持した場合、雨季到来前のアンタナナリヴ占領と言う当初作戦計画の達成は極めて厳しい状況に置かれていた。なおかつ進軍速度があがらない理由は、イメリナ王国軍の抵抗によってではなく、ルフェーブル型荷馬車を通すために道路を建設する作業を行わなければならないことおよび病人の搬送であることは、誰の目にも明らかであった。このため派遣軍総司令官ドゥシェーヌは、残った10000名あまりの兵士たちの中からまだ比較的壮健な4000名を選抜し、22日分の食糧と1500人の輜重軍夫それに266頭のウマおよび2800頭のラバを伴う軽装先遣攻撃部隊を編成した。この先遣攻撃部隊は、ドウシェーヌ司令官自身の指揮の下、9月14日から15日にかけアンドゥリィバを出発した。もしイメリナ王国軍が兵員数と地の利を活かした組織的抵抗を行った場合には、ドゥシェーヌ司令官の決断は派遣フランス軍全体を窮地に陥れかねなかった。しかし結果的には、徒歩とラバによる移動を行った軽装先遣攻撃部隊は、従来の3倍から5倍にあたる一日13.5kmの行軍速度を実現し、雨季にはまだ十分余裕のある9月30日にアンタナナリヴ攻略を完了した(H.Deschamps , 1972 , pp.228-229. , M.Brown , 1978 , pp.247-248.)。

ルフェーブル型荷馬車を通すために道を建設するフランス軍の挿し絵、H.Gally , La Guerre a Madagascar,1896 , p.401 , 傷病兵を運搬するフランス軍の挿し絵、ibid.,p.153
 ポワリエの記述は、堡塁に籠もったりあるいは遊軍化したりしたイメリナ王国軍との小戦闘を行軍の過程で繰り返しながらも、この軽装先遣攻撃部隊が着実に進軍速度を稼ぎながら前進して行く様を、きびきびと伝えている。
  21日、ヴォイロン少将指揮下の先発隊が前進を開始し、タララ村(Talala)(1)に野営した。22日、部隊は越えてきたアンカラハーラ山(Ankarahara)の北斜面に野営、23日、簡単に撃破できた一団のフヴァ軍(イメリナ王国軍)とのピフナ丘陵(Pihona)近辺での交戦の後、同日夕刻、フィハウナナ村(Fihaonana アンディバから南に116km、アンタナナリヴから北に57kmに位置する村)において野営のため部隊は休止した。
 後者の地点から、前哨兵たちはルハヴヒトゥラ山塊(Lohavohitra)に陣地を築いているらしい夥しい敵兵の集まりを確認した。さらに、住民の一部は我が部隊の前から逃げ去ってしまったとは言え、一方岩だらけで急傾斜な斜面に逃げ込んでしまったように思われた大半の住民たちが、この山塊で合流し遊撃戦を支援していた。この頃から、同じ様な戦闘ではいつもお決まりの輜重隊を攻撃とりわけ奇襲攻撃から防御しなければならなくなった。しかしながらこのことは、我が軍の兵員数を削減させた。
 この事態に対処するために、ドゥシェーヌ将軍は、先発隊と主力部隊とを一つの縦隊にまとめるよう命令を発した。ヴォイロンの部隊は、メッツィンゼール部隊の到着を待って、フィハウナナ村に駐留した。
 この休止の日々の間、フヴァ軍の結集地点として注意が発せられたルハヴヒトゥラ山塊およびババイ村(Babay)辺りの一帯に向け、偵察隊が派遣された。
 山塊への偵察は、ディットゥ少佐(Ditte)指揮下のハウサ人歩兵中隊によって行われた。中隊が山の斜面に着くやいなや、激しい射撃を受けたが、簡単に撃破した。ババイ村方面に派遣された偵察隊は、全く敵と遭遇することはなかった。
 この2個の偵察隊からの報告が届くとすぐに、ドゥシェーヌ将軍は翌日、タナナリヴへの進軍を開始することを決定した。
 9月25日、午前5時30分、先遣隊と主力部隊を合わせた先発部隊が野営地を出発し、後続部隊は一日遅れて行軍を始めた。ヴォイロンの旅団が、騎兵隊と共に先遣隊の先鋒として、先頭を進んだ。
          −(行軍部隊の編成について)中略−
 先遣の2個大隊の中から選ばれた1個中隊が、ルハヴヒトゥラ山斜面からの待ち伏せ攻撃から部隊を防御するために、東から縦隊の側面防御にあたった。
 午後1時、縦隊は、50m平方の露営陣地(の構築)を命ずる高地地方に配置された(フヴァ軍の)前哨堡塁に覆われたババイ峰の麓にあるアンダヴァハーニ村(Andavahany)に設営した。
(J.Poirier , 出版年不詳 , pp.280-281)
  戦闘の行われた時と地点、部隊が宿営した時と地点、そしてフランス軍部隊の移動と行動の羅列だけが、ポワリエその人らしく記述されている。戦闘の大勢は決した中での王都アンタナナリヴまでの小戦闘を、描くにふさわしい文体とも言える。同じ出来事の時と場所を変えただけでの記述の繰り返しは、戦闘行動の繰り返しであると同時に、それはまた軽装先遣部隊が行軍してゆくアンドゥリィバからアンタナナリヴ近辺までの草原状の丘が果てしなく連なる景観の単調さの反映でもある。このような行為と出来事と景観の繰り返しと単調さを逸脱し、そこに記述されるべき何ものかを見出すには、<著者>はもちろんのこと、時には<作者>であることを自覚的に記述の内に引き入れなければならない。

中央高地を進軍するフランス軍のエッチング画、Édouard Hocquard , L'Expé ition de Madagascar , 1897 , p.124,p.127
 
  9月14日土曜日 5時半出発。我々は、先遣隊と主力部隊との中間を行軍している。連隊の各部隊、移動衛生班、第一次部隊の輜重隊、および後衛部隊が、30分間隔で続いている。
 3度めすなわち最後に我々がマムクミタ山(Mamokomita)にさしかかるまでの道の何と悪いことか。北東からの風がかなり強いため、我々は暑さでまいることはない。我々は、4km近くに渡るタフフ高地(Tafofo)の長い急な上り坂にさしかかった。第一次部隊が難渋していたため、私は馬を降りざるをえなかった。ラバたちも、ようやくのことでそこを通過した。高地の上には一人のフヴァ軍の姿もなかったが、道に直角に三本の塹壕があり、道の左に数十メートル伸びていた。その場に設けられた二ヶ所の駐屯所と共に焼かれたタフフの村の前に一本めがあり、二本めと三本めはたいしたことはなかった。
 第一次主力部隊と共に、1040高地の麓に休止した。ハウサ人歩兵隊を例外的に含む先遣隊の外人部隊は、ツィナイヌンドゥリィ(Tsinainondry)の状況および索敵の点から、我々から1500m先の地点で野営した。メッツィンゼール将軍は、明日その地点からツィナイヌンドゥリィまで進軍する意向であった。先遣隊からは、16kmないし 17・5kmの距離であった。各部隊は、疲労に耐えていた。輜重隊の歩みは、はかばかしくなかった。複数のラバが、タフフの坂の最初の悪路の隣にある峡谷に落ちた。輜重隊は、3時から到着を始めたものの、6時半になってもまだ到着が続いていた。
 我々は、ツィナイヌンドゥリ方面のフヴァ軍の配置について、あまり正確に把握していなかった。敵の偵察隊が我々の前に現れたが、慎重に我々の射撃圏外に留まっていた。野営地から右に移動する計画になった。私は、アンドリィバの時のように我々の司令官がすぐには出立しないのではないかと言うことをたいへんに心配した。アンプタカの村はまだ焼き払われていなかったが、この夜我々は村が炎上するのを目の当たりにすることができた。
 派遣軍部隊内での自殺が、相次いでいる。昨日の夕方、私が手紙を書き終えた時、一発の弾丸が、私とドゥシャトゥレ大尉(Duchâtelet)から20mか30mの距離を飛んでいった。その弾丸は、銃で自殺した海軍歩兵部隊の一兵士が発射したものである。
 その夕刻、司令官が前線の視察に訪れた。彼は、たいへんに満足して帰っていった。フヴァ軍は自軍の陣地から出撃することがなかったため、司令官は翌朝もフヴァ軍をその場に確認できるとふんだわけである。
               −中  略−
 9月21日土曜日 ヴォイロンの部隊と共に我々は、午前5時半、マハリダーザ村(Maharidaza)を出発。11時半、我々はファーランタズ川(Farantazo)の岸に到着。その名前を信じるならば、川(の名前)は熱病の終わりを示している(2)。我々は、我々がタナナリヴから下って来た時に野宿した場所からさほど遠くない所に、野営地を設営した。
 谷の中央の円い丘の上にあるアンガヴ村(Angavo)の前に、4つの砲眼をもつ砲兵隊陣地があったが、遺棄されていた。
 進路上の村は全て、ほんとんど全てであるが、火をかけられていた。当然のことながら、住民は誰もいない。フィハウナナ村とババイ村の高地までの道は、支障無いように思われた。
 アンカズベ村では、正確にはアンカズベ村の廃墟、最近の日付の入った何通かの書類が見つかったが、さして重要なものではなかった。
 私は、マジュンガから複数の手紙を受け取った。相も変わらず、はなはだしく意気消沈させられる。大衆は、我々が年内にタナナリヴに到着できないのではと考えている。8月31日付けの14名の多数の死者ってわけだ(3)。精神的反発の大半は、(マダガスカルから)逃げ出した人たちの間のものだ。
 9月22日日曜日 我々は、午前5時半、ファーランタズ村を出発。行軍に遅れ。我々の通過以来人口が増えたように見えるアンカズベの村は焼き払われていたが、ズズル(葦)(4)でできた屋根以外の物をできるだけ焼かないようにしているように思われる。扉、窓、階段、テーブル、その他の木工製品は、そのままである。
 我々は、次第に人口が増えてゆく地域の中の通行容易な一本道を進軍。焼き払われた村が少なくなり、道沿いにせいぜい3つか4つ。その他の村はそのままであり、ほとんどの米の貯蔵や家禽も、その場に置き去りにされている。これらの村の一つで、我々は、4人の住人、その内の一人は女性、一人は子供、を見つける。彼らは我々に、フヴァ軍が前々日の夕方通り、棒を振り上げて住民たちに南に逃げるよう強制したと語った。我々はこの哀れな連中をできる限り安心させ、自分たちの村に心配なく留まるよう勧めた。これらの事柄は、むしろ一連の出来事としては吉兆であった。私は、我々の勢力範囲の村々に、幾つかの布告を出させた。
 司令官は、我々より24時間遅れで行軍する本隊の到着を待って、明日まで我々にとどまるよう要請した。フィハウナナ村やババイ村までは少なくとも道に、障害はないように思われた。我々は、一兵の敵とももはや遭遇していない。このことが、情報が非常に少なかったこともあるが、3個大隊と2個砲兵隊と言う前衛部隊だけでタナナリヴ近くに到達することを恐れる、司令官を不安にさせたように見えた。私は、ドゥシェーヌ将軍が、誇張されていた不安に本当に捕らわれていたのか、それともタナナリヴを前にもしくは後にして、いかなる犠牲を払っても軍事行動をとることを望んでいたのかを、見分けることはできなかった。
 タナナリヴ占領のための軍事行動、それはしないよりするほうがはるかに良い。派遣軍は、そこで栄誉の大事な部分を失うことにはならないだろうし、将来起きる事柄はたいへんな利益をもたらすだろう。仮に王都に入る前に小銃や大砲の一斉射撃を受けたとして、アルジェリア人やハウサ人の歩兵部隊や外人部隊のような部隊をどのように引き留めておけるのか?彼らが、ひどい暴行に身を委ねないだろうか?起こりうる結果は、とどまるつもりだった大半の住民の逃亡だろう。私は、将軍に対し、海軍歩兵部隊・第200連隊・工兵隊を除く植民地部隊をタナナリヴ周辺のいくらでもある陣地に残留させておくよう進言すると共に、これらのことを伝えた。
 完全に無傷の村のそばにある、アンドゥラヌベ川(Andranobe)の浅瀬に12時半到着。アンブヒドゥルゥズ村(Ambohidrozo)近くに翌朝まで野営し、メッツィンゼール将軍の部隊をそこで待つ。
 9月23日月曜日 アンドゥラヌベ川の第二の浅瀬からアントゥービ村(Antoby)までの我々の行軍は、事故や支障もなく続けられた。出発時の気温10度。夜の間に夜露がひどく降りる。風が吹きはじめ、我々は自分たちの身を覆うための十分な数のマントを用意していない。アントゥービ村から始まる緩やかな山の頂きで、我々は数発の銃声を聞いた。アンカヴァヴァ村(Ankavava)に駐屯するフヴァ軍が、我々の前衛部隊に向け発射したものだった。相変わらず、2500mないし3000mの距離。停止:2門の大砲を配置につける。それらの砲がまだ一発の砲弾も発射しないうちに、恐らく大砲も備えたフヴァ軍が退却するのが見えた。正午頃にルハヴヒトゥラ村の前に到着するべく、我々は再び出発。その辺りに駐屯するフヴァ軍の数は多く、1500名から2000名であった。
 我々が通過したある村の住民は我々に、フヴァ軍は昨日夕方から撤退を始め、タナナリヴまでいかなる防御も無いと語った。ライニアンザラヒ(司令官)の命令により、村の焼き討ちは行われていなかった。とりわけ倉の中の米と家禽がそうだった。我々の部隊は、うろうろしていた20頭ほどの牛を集めた。私は、村々に布告を掲示した。
 タナナリヴに向かうために総司令官は、フヴァ軍が部隊を集結させたり、あるいは防御をしている場合、そこに到達するためにアンブヒマンガ村(Ambohimanga アンタナナリヴの北北東20kmにある村)の近くを通過する意向であった。良い道を知っているとの一人の捕虜の話に基づいて、我々は、アンブヒツィメルカ村(Ambohitsimeloka)を通りイメリマンドゥス村(Imerimandroso)の東に出るため、ファハンドゥザナ村(Fahandrozana)の南のツィマハンドゥリ村(Tsimahandry)で通常の道を逸れた。我々は、アンブヒマンガの道を通ってタナナリヴに到達する。この迂回は、少なくとも十数キロ我々の進軍を早めた。
 総司令官はまた洪水をひどく心配していたため、洪水が起こることを考慮したとしても、この地域のアンブヒダァトリィム村(Ambohidratrimo アンタナナリヴから北西15kmにある村)とタナナリヴとの間には一連の丘があるため、心配することはないと彼を説得するのはたいへん困難であった。もし洪水が起きた時は、アンブヒマンガの道も同じように寸断され、我々ははるか東に通路を捜さなければならなかった。
 今宵は、素晴らしいメニュー。七面鳥。マジュンガ到着以来、これが初めてであった。
(A.D'Anthouard et A.Rnchot , 1930 , pp.193-209)
  当初従軍中の日記として書かれたランショの記述の筆は、出来事や行為や景観が単調であればあるほど、様々な対象へと及んでゆく。部隊や戦闘の行動についての言及はもとより、道の悪さ、風の強さと寒さ、行軍の疲労、自殺する兵士、この戦争に対する世評への反発、行軍中に目にした焼き払われた村や住民の様子、アンタナナリヴ攻略についての進言や臆病な司令官に対する批判そして美味しかった夕食。あたかもおもちゃ箱をひっくり返したように多岐にわたり全てを網羅するかのごときランショの日記の中で、記述されないものが二つある。それは、修辞と叙景である。このことは一見奇妙に見えるが、自己言及性を中心に据えるランショの日記であるがゆえに、彼の中で修辞と叙景はその辺境に追いやられてしまっていると考えれば、納得がゆく。しかし、同じ自己言及性を強く漂わせるオカールの従軍日誌においては、修辞と叙景こそが、その記述を成立させる中核として位置づけられている。
  9月21日 夜はほとんど明けず。午前5時。道の左手に、我々の視界を遮る丘の連なりが、一枚の黒い厚紙に切り取られたような一列の陰をなしている。薄い光の線が、その上にくっきりと浮かぶ。その光は、道の左手に階段状に折り重なる丘陵を覆う乾いた木々を淡いバラ色に染める。
 我々は、フヴァ軍の跡を追跡する。フヴァ軍は、道に茣蓙やら鍋やらマニオクや米の袋、あるいは同じように砲架や砲弾箱を撒き散らしていた。我々が午前中ずっとその周囲を歩いていた向こうのアンガヴ山は、大きな木々の中にうずくまる巨大な一頭の象のようである。
 道は、跡が不鮮明になり不規則となる。輜重隊は、他の道を辿る。輜重隊は半ば道に迷い、司令官は捜索のために四方八方に騎兵隊を派遣した。その行き来のため、我々は一時間近く足止めされる。その後、我々は、タラタの名前をもつ焼き払われた大きな村の近くで野営するべく行軍を再開した。  マダガスカル人部隊は、我々の後ろのマニオク畑の中に設営した。彼らの小屋の脇で、一人の現地兵が手作りの水パイプをふかしている。そのパイプは、中を刳り抜いた小さなカボチャからできており、そのふくれた部分に一本の葦が挿してある。カボチャは、水の容器になっている。葦の先端に、煙草を置く火皿がある。
 9月22日 我々は、サカラヴァ人歩兵部隊と山岳砲兵部隊との間を、前衛部隊本隊と共に進軍を開始する。サカラヴァ人たちは、背嚢を装備していない。彼らは、紐でくくった野営品の包みを頭の上に載せて運ぶ。大半の兵士は、裸足。どうやって手に入れたのかは知らないが、一部の者たちは、鉄鋲のついた皮のでかい兵隊用短靴を履いている。その短靴は兵士たちをひどく鈍重にさせているが、一方では彼らのたいそうな自慢のネタであるため、上官たちもあえてそれを禁止する勇気は持ち合わせていない。凍てつくような風が吹き、我々の指先の感覚をほとんど奪う。少し前に太陽が昇るが、我々は息が詰まりそう。
 この地方の景観は、変わらず。何時も、狭い谷によって分断された木の生えていない円丘の連なりである。しかし一方、たくさんの村々がある。各丘の上には、赤い粘土でできた壁と乾いた草や稲藁で葺いた屋根をもつ家々の集まりが見える。家々の一部は、二階建てである。多くの村が敵軍によって焼き払われているが、村の数が多いためかフヴァ軍も退却の前に、その全てを焼き払う時間がなかったようである。
 11時、イメリナ王国の境界の町、アンカズベの前に部隊が到着。アンカズベは、狭いが整然と並んだ路や深い濠と塗り固めた粘土でできた壁から成る円形の城壁をもつ50戸ほどの家屋から成る大きな村である。城壁の中には、藁の屋根に覆われた大きな門から入る。フヴァ軍は、町の四隅に大砲を配置していた。フヴァ軍は、ほとんどの屋根を焼き払っていた。
 我々は、狭い門の設けられた円形の壁に囲まれた一軒の大きな農家の近くの、アンドゥラヌベ(Andanobe)呼ばれる小川の岸の、アントゥービ村からさほど遠くない場所に野営した。周囲の平原を見渡すことのできる見張り台を内側に備えるこの門は、ひき臼状に成形された巨大な石板によって夕方には閉じられ、しっかりと据えられた二本の大きな杭によって支えられており、開けようとする力に抗して立てられている。
 9月23日 アンカズベからは、それはすなわちイメリナ王国領に我々が入ってからと言うことであるが、フヴァ軍はもはや村を焼き払ってはいない。フヴァ軍の司令官であるラニアンザーラ(Ranianzala)(4)は兵士達に村を荒らさないよう命令を発していたが、それでも略奪を阻止することはできなかった。不幸な住民達は、ミラミール(5)と呼ばれるフヴァ軍の正規兵たちによって、この土地についての情報を我々に与えることができないように、我々の前から姿を消し山に逃げ込むよう棒で追い立てられた。  その夕方、我々は、タナナリヴからほぼ50kmのアンブヒドゥララーラ村 (Ambohidrarara)にテントを設営した。フヴァ軍の部隊は、あえて王都に入らず、我々から数キロのラヴヒトゥラ山(Lavohitra)の頂上に野営した。この朝、フヴァ軍部隊は、射程圏外から前衛部隊に対して数回射撃を行い、我々の行軍を阻止しようと試みた。
(É.Hocquard , 1897 , pp.126-128.)
  オカールの用いる修辞や叙景が巧みなものであるかどうかは、私にはわからない。しかし修辞と叙景が、オカールその人の教養と性格よりも、<観察者>に徹しようとする彼の視点と立場に呼応するものであることは、間違いがない。マダガスカル人兵士の持つ手製水パイプの記述、サカラヴァ人兵士たちの装備と服装についての記述、焼き払われたアンカズベの村についての記述、野営地の農家の門についての記述。そこになにがしかのエクゾティシズムの入り交じった好奇心が見て取れるにしても、記述する文体とそれが<読者>に与えるものは、微細な<観察者>の眼が切り取った確かな形の断片である。それゆえオカールの記述においては、戦闘や部隊についての記述や言及が一切無くても、<旅の表象>が成立する。けれども、<観察者>に徹することを文章表現の上で実現することとは、ポワリエのように<著者>であることさえも遠景に退くことではなく、<作者>であることの方へ歩み出す行為に他ならない。戦記が終わる地点で、<旅の表象>そのものが始まることを、オカールの記述が雄弁に物語っている。
 ポワリエの本によれば、1895年の第二次フランス−イメリナ王国戦争におけるフランス軍の人的損失の総計は、「陸軍省の報告によれば5592人、ドゥシェーヌ将軍によれば5765人」(J.Poirier , s.d. , p.315)であり、その中で戦闘行動中の銃撃・砲撃による即死者7名、負傷が原因で亡くなった者13名であった(ibid., p.316)。
 フランス軍の人的損害に言及しながら、派遣軍歩兵第1旅団司令部所属の大尉ミレポワは、この戦争を総括して次のように述べている。
  この作戦行動の過程において、派遣軍本隊は、16名の戦死者、その内士官1名、および負傷者97名、その内士官7名、の損害を受けたにすぎない。  相当の損害を予想していたが、フヴァ軍が複数の戦場において戦意と強靱さを発揮し、とりわけファラファテ(Farafate)の防御陣地の攻防において、我が軍はフヴァ軍を駆逐できなかったため、この懸念は、派遣軍が内陸に侵攻しなかった1883年-1885年の作戦の中でますます現実のものとなった。  その当時よりも戦争に慣れまた装備も改善された上、今回の新しい作戦においてフヴァ軍は、長期にわたる頑強な抵抗を行うために自分たちの土地にある様々な障害物を利用するものと思われた。そのようなことは、全く無かった。
          − 中 略 −
 これまでの医学的統計値は、あらゆる戦争において、病気が火器よりも致命的であることを、明らかにしている。疲労、食糧の欠乏、野営や密集の致命的影響に、容赦なく照りつける太陽および極度の湿度の中での不衛生で不健康な活動が加わる熱帯地域における遠征の場合には、このことがよりよくあてはまる。
 そのことを避けるためにとられた様々な予防措置にもかかわらず、マダガスカル遠征もこの運命をまぬがれることはできなかった。病気による死亡者の数は、軍夫を除いても、士官35名、兵卒4463名にのぼる。すなわち、およそ士官700名、兵卒18000名の実員数に対し、士官5パーセント、兵卒25パーセントの死亡率である。戦線離脱者率については、実員数の75から80パーセントに達することを認めなければならない。
 しかしながら、過去複数の遠征の経験を有し、マダガスカル海岸地方の健康への影響については完璧に把握していたと、一般には考えられていた。それゆえ細心の予防の数々が、入念に行われた。
          − 中 略 −
 これらの予防措置も、残念ながら病気の原因を無くすことには無力であったため、派遣軍諸部隊は、既に見たようなたいへんにひどい死亡率を被った。
(Mirepoix , 1898 , pp.150-159.)
  直接の戦闘による死傷者数は敵軍が弱兵であったわけではないにもかかわらず幸運により事前予測よりもはるかに少なかったが、病没者数は予防措置をこうじたにもかかわらず不可抗力により事前予想をはるかに上まわった、すなわち現実の戦争は事前予測のようには進行しないものだと、陸軍大学校卒らしい冷徹なミレポワの自己弁護ないし弁解が披瀝されている。参謀本部や将官が記述する戦記や作戦報告におけるこのような数値は、挿入されている作戦地図上の配置付けを離れる時、参照されるいかなる枠組みをも失い無機的な記号と化す。その数値に再び固有性を与えるものは、その戦場に居た人間一人一人が記述する戦記をおいて他にはない。
 しかし一方、イメリナ王国軍側の人的損害については、推計数値さえ何処にも示されてはいない。
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