V 章 ツァラサウトゥラ遭遇戦



ツァラサウトゥラで砲撃を行うフランス軍の挿し絵、H.Gally , La Guerre a Madagascar,1896 , p.425
 
  マルヴアイ陥落の報告を受けた宰相ライニライアリヴニ以下のイメリナ王国指導者たちは、この時に至り初めてそれがアンタナナリヴ攻略を目指すフランス軍主力部隊であることを認識した。宰相はすぐさま、ライニアンザラヒ将軍(Rainianjalahy)指揮下の5000名の増援部隊をフランス軍主力迎撃のために派遣した。6月13日に兵士と共に前線に到着したライニアンザラヒは、宰相の命を受けてラマスンバザハ・マジュンガ地方長官を解任し、先に派遣されていたアンドゥリアンターヴィ将軍(Andriantavy)率いる2000名の増援部隊をも指揮下に組み入れ、フランス軍主力に対する攻撃の準備を行った。一方フランス軍は、4月末のマルヴアイ攻防戦後も、マジュンガからアンタナナリヴに向かう道沿いに進撃を続け、6月9日には中央高地への入り口にあたりアンタナナリヴから330kmに位置する沿道最大の町マエヴァタナナ(Maevatanana)を砲撃戦の末奪取した。ツァラサウトゥラ(Tsarasaotra)の村は、マエヴァタナナのすぐ近くのフランス軍の本営が置かれていたスーベルビヴィル(Suberbiville)の村から南に約20km行った、イクパ川(Ikopa)沿いにあった。この方面におけるイメリナ王国軍の活動が活発化しツァラサウトゥラ村が奪取されたとの報告を受けたフランス軍は、6月18日レントゥーヌ(Lentonnet)指揮下の200名の先遣隊を派遣した。フランス軍先遣隊は19日ツァラサウトゥラ村に着いたが、そこにイメリナ王国軍の姿はなかった。このツァラサウトゥラ村に駐屯し周囲の偵察・哨戒活動を行っていたフランス軍先遣隊を、ライニアンザラヒ軍主力が6月28日夜から翌日にかけ包囲し総攻撃を行った。ライニアンザラヒ軍は、フランス軍先遣隊の堅守とその後の増援部隊の到着によって、ツァラサウトゥラ村のフランス軍を捕捉殲滅することに失敗し、村から7km東方の陣地に後退した。翌6月30日、スーベルビヴィルから急派されたメッツィンゼール中将指揮の増援部隊が、このライニアンザラヒ軍の陣地を攻撃、これを敗走させた。この三日間の戦闘を<ツァラサウトゥラの戦い>と呼び、1895年の第二次フランス−イメリナ王国戦争における最も激しい戦闘の一つであった。  しかしながらツァラサウトゥラの戦闘は、火力の応酬では激しいものがあったにせよ、軍事的には両軍による主力決戦ではなかった。ライニアンザラヒ軍にとりツァラサウトゥラに駐屯していた先遣隊への攻撃とは、おそらくフランス軍主力との決戦を前に兵員数と火力の圧倒的優位を利して勝利を得、それによって戦闘経験の無い兵士たちの士気を鼓舞し実戦経験を与えるために前哨戦として急遽決行されたものである。また一方フランス軍側もイメリナ王国側の迎撃軍主力としてのライニアンザラヒ軍の派遣到着と襲撃を正確には察知しておらず、この時期この地点近辺における大規模戦闘が必至であったとしても、双方にとって主力正面の準備が整わないうちに始まった遭遇戦であったと、特徴づけることができる。さらに、200名ばかりのフランス軍先遣隊を包囲したライニアンザラヒ軍5000名から1万名による総攻撃が、敵軍に2名の戦死者と10名内外の負傷者と言う軽微な損害を与えただけで自軍は200名の遺棄死体を残すと言う失敗に終わったばかりか、その後の追撃戦によってマエヴァタナナ地方周辺から駆逐された戦闘の帰趨は、イメリナ王国軍の指揮官や兵士たちに、自分たちはどのように有利な状況下でもフランス軍に対抗できないとの諦念と無力感を強く植え付けることとなった。そしてツァラサウトゥラ遭遇戦で醸成されたこのような感情が、主力決戦場として用意されたはずのアンドゥリィバ(Andriba)攻防戦における唐突な兵士たちの戦線離脱と逃亡を、この時点で既に予告していた(cf. E.Ralaimihoatra , 1976, pp.200-203. , J.Poirier , C.Valensky , 1995 , pp.66-70. M.Brown , 1978 , pp.245-247.)。
 以下が、ポワリエの記述による3日間に渡るこのツァラサウトゥラ遭遇戦をめぐる全戦闘経過である。
  6月19日、ツァラサウトゥラ村は、レントゥーヌの派遣部隊によって占領された。
 数日間は敵についての情報は無かったが、ツァラサウトゥラから11kmのベリツカ山(Beritsoka)方面に敵が現れたとの注意を促す知らせがもたらされた。
 6月24日、この方面に偵察隊が出された。偵察隊は、敵のいかなる痕跡も見出せなかったが、アンパシーリ(Ampasiry)近辺にフヴァ軍の大部隊が終結していることを知った。
 28日、午後9時頃、ツァラサウトゥラの東側に設けられたアルジェリア人歩兵大隊の陣地がフヴァ軍の一隊の攻撃を受けたとの知らせが入った。我が部隊は、その場における戦闘を継続しながら、アルジェリア人歩兵大隊を援護するために派遣された斥候隊を回収する地点まで、後退した。10時半、敵は攻撃を諦め、全てに静けさが戻った。
 a)6月29日:午前5時半、レントゥーヌ司令官が、前線陣地を視察した。突然彼の目は、ツァラサウトゥラ村から500m南の峡谷に釘付けになった。フヴァ軍の強力な部隊が、そこに終結していた。
 レントゥーヌは、コールメル中尉(Corhumel)指揮下、砲兵と騎兵の一部に続いてアルジェリア人連隊第6中隊を前面に配置した。陣地の南面の防御は、第6中隊および騎兵隊に任された。シャルティエ曹長(Charretier)率いる歩兵二分隊が、北東を防御するため後方に配置された。
 この配置は、素早くまた運良く行われ、5時45分フヴァ軍兵士たちは突破を図る南面に対し激しい砲火を浴びせ始めた。6時15分、彼らの攻撃は南面を突破することができなかったため、次にフヴァ軍兵士たちは東面に対しさらに激しい攻撃をかけた。それに対しほとんど効果の無い一斉砲撃を撃ち返したものの、敵の激しい砲撃の前に第2小陣地は放棄された。
 我が軍の砲兵隊は、東面の位置を占めることに成功した。砲兵隊は、敵砲兵隊に対し砲撃を浴びせ始めた。7時頃、オージィ=デュフレース中尉(Augey-Dufresse)は、右腹部に対し致命的負傷を受け、その指揮をマヘアス(Mahéas)副官に代わった。
 我が諸部隊の状況は、次第に危機的なものになっていた。レントゥーヌ司令官は、一人の伍長指揮下の30名の歩兵に、第2小陣地を奪回するよう命じた。途中この部隊は、同じ命令を受けたオーベ大尉(Aub氏jと遭遇した。南面のもう一方から、始めの部隊と合流した第6中隊第2小隊が出撃した。砲兵隊が激しい砲撃を開始し、好機を見計らい、この2個小隊は、フヴァ軍の陣地に対し銃剣突撃を敢行した。敵の部隊は浮き足だち、南と東方面に逃走した。我々は、サパン上等兵(Sapin)の戦死を哀悼したい。
 午前10時頃、オーベ大尉の状況はさらに危機的になった。たいへんに都合良く、この時ピロ大尉(Pillot)が、砲1門と共に第7中隊と第5歩兵半中隊を率いてベハナナ(Behanana)(1)から徒歩で到着した。この救援部隊によってオーベ大尉は救われ、フヴァ軍兵士たちは打撃を受けて、ツァラサウトゥラから7kmの地点の丘まで退却した。
 正午、この戦闘は終了した。7635発の弾丸を発射したことからも、この戦いの激しさがわかるであろう。
 午前10時、ドウシェーヌ将軍は、スーベルビヴィル(フランス派遣軍の司令部の置かれていた村)において、レントゥーヌ司令官からのこの第一報を受け取った。彼は、その場でメッツィンガー中将に対し、増援部隊を派遣するよう命令した。第40歩兵大隊と第16砲兵隊所属の2個小隊が、派遣された。
 12時30分、32度の暑さにもかかわらず、先の第40歩兵大隊所属の3個中隊と砲兵2個小隊は、行軍を続けた。ベアナナにおいて2時間の休息を一度とった後、これらの部隊は、メッツィンゼール中将と共に、午後11時にツァラサウトゥラに到着した。
 士官を交えた会議の後、メッツィンゼール中将は、翌日一斉に(フヴァ軍)陣地への決定的攻撃を命令した。
 b)6月30日:午前6時、アルジェリア人連隊に所属する第5と第8の2個半中隊から成る部隊、司令部と第40歩兵大隊所属の3個中隊および第16山岳砲兵隊所属の2個小隊、これらの全ての部隊が、メッツィンゼール中将の指揮の下で前進を開始した。
 (ツァラサウトゥラの)陣地には、アルジェリア人連隊所属の第6中隊と砲兵隊1個小隊が、防衛のために残された。騎兵が、スーベルビヴィルとの連絡にあたった。
  6時40分、アルジェリア人連隊所属第7中隊が前日から厳重に警戒していた320高地に、全軍が到着した。第7中隊は、中将の警護と砲兵隊の護衛のために左側面を受け持ちながら全軍の行動に加わった。7時20分、藪に覆われた峻険な坂の麓に到達したが、そこを抜けるには砲兵隊を通すために道を改修しなければならなかった。
 先遣隊は、オーベ大尉指揮下の第5と第8中隊所属の半中隊から構成されていた。先遣隊は、ナンドゥルジア(Nandrojia)を抜け後から砲兵隊が布陣する予定の小丘を占拠する任務を帯びていた。歩兵大隊はそこから最左翼に移動し、フヴァ軍の陣地に対する包囲行動にうつった。
 8時15分、窪地を通過中、先遣隊は突然激しい一斉射撃を受け、カミサール伍長(Camisard)が負傷した。先遣隊は、幸いにもフヴァ軍の射撃からしばしば身を守ってくれた通過の困難な地点を、時折発砲しながら前進した。
 間もなく、この先遣隊は、第40歩兵大隊と合流した。
 マッシエ・ドュ・ビエストゥ中隊長(Massiet du Biest)が個人的に指揮をとる大隊の中の一中隊が、他の2個中隊を予備に残した2個半中隊と同じ第一線上に進出した。この第一戦列からの発砲は、フヴァ軍の注意を引きつけることに成功した。
 半時後、我が軍砲兵隊がまだ稜線まで上ることが出来ていなかった時、フヴァ軍の砲兵隊が激しい砲撃を始め、その砲撃はあらゆる窪地からの活発な小銃射撃に援護されていた。
 歩兵大隊は、数名の損失を被ったものの、前進を続けた。ようやく、第7中隊に守られた砲兵隊が所定の位置に布陣し、2500mの距離からの正確な照準の砲撃を数度加え、フヴァ軍砲兵隊を沈黙させた。
 歩兵大隊と第5と第8中隊は、敵から200mの地点に達した。数度の一斉射撃の後、銃剣突撃を敢行した。9時30分であった。
 この激しい攻撃は、フヴァ軍に対し効果的であった。フヴァ軍は、幾度か抵抗を試みた後退却したが、超人的な努力の末に丘の上に布陣することに成功した砲兵隊の一斉射撃の追撃を受けた。
 10時20分、戦闘は終了した。敵は、450張のテント、司令官旗、2門のホッチキス社製大砲、2台のこの型の砲のための砲架、砲弾、小銃、多量の糧食を我々の手に残していった。
 フヴァ軍の損害を、推計することはできない。我が軍の損害は、オーディエンヌ中尉(Audienne)が負傷、ブーヴィエ大尉(Bouvier)が打撲傷、8名の兵卒が負傷であった。
   −即日叙勲者名省略−
 結果:29日と30日の戦闘は、二重の結果をもたらした。それは、長期間に渡り、アンディバ村へと撃退したフヴァ軍の抵抗を無力化した。またそれは、イクパ川沿いに我が軍の基地を確立し、この地方における重要な宣撫拠点を提供した。
(J. Poirier , 出版年不詳 , pp.235-240)
  ツァラサウトゥラの遭遇戦が、それまでにフランス軍が経験したイメリナ王国軍との戦闘と比べてもいかに多くの砲弾や銃弾が飛び交いまたレントゥーヌ指揮の先遣隊にとっていかに切迫した包囲戦であったことが、<作者>はおろか<著者>からも遠ざかるように見えるポワリエの著書の中においてさえ、「激しい」・「危機的」などの形容詞が多用されることからもうかがい知ることができる。「フヴァ軍兵士たちは突破を図る南面に対し激しい砲火を浴びせ始めた」、「次にフヴァ軍兵士たちは東面に対しさらに激しい攻撃をかけた」、「敵の激しい砲撃の前に第2小陣地は遺棄された」、「我が諸部隊の状況は、次第に危機的なものになっていた」、「オーベ大尉の状況はさらに危機的になった」、「7635発の弾丸を発射したことからも、この戦いの激しさがわかるであろう」、「フヴァ軍の砲兵隊が激しい砲撃を始め、その砲撃はあらゆる窪地からの活発な小銃射撃に援護されていた」などの叙述、さらに下記に引用するダッヴィッドゥ=ベルナールの本にも挙げられているツァラサウトゥラ村のフランス軍先遣隊が28日夜から29日午前にかけてのおよそ8時間の戦闘で発射した小銃弾総数7635発ないし7655発と言う異様に微視的で具体的な数値の提示(2)が、確実にポワリエの自身の中にも<著者性>をたぐり寄せる。すなわちツァラサウトゥラの遭遇戦においては、ポワリエの本の<読者>といえども、一度その高みから戦場に降りてきて、銃弾がうなりをあげ砲弾が炸裂し硝煙の匂いが立ちこめ兵士が血を流して倒れる戦いの場に立つことが要請されるのである。しかしこのようなポワリエの記述は、それまでの二次元的動きが三次元に変わっただけの、おあつらえ向きの戦闘と戦場を描く仮想現実に陥る危険と隣り合わせの共感を<読者>にもたらす点を、注意しなければならない。なぜなら、ポワリエの記述は緻密や豊富になることはあっても、細部に入ることは依然としてないからである。戦闘にかかわりが無いとポワリエによって判断された事柄は、記述されなくても構わないわけである。
 戦闘についての記述しか存在しなくても当然のツァラサウトゥラの戦いにおいてさえ、細部は何時でも何処にでも無数に姿をあらわし、<著者>が選び取り<読者>に示すことの瞬間を待っている。
  レントゥーヌ指揮下の小部隊は、6月18日、でこぼこであちこちに水溜まりがあり、断崖に遮られた、ほとんど通行不能な道沿いに出発したが、そんな道をアフリカ産のラバたちは、たいへんに器用ではあったものの、やっとのことでかじりつくように歩くことができた。
 スーベルビヴィルからツァラサウトゥラまでは、およそ20kmである。分遣隊は、夜になっても、道程の半分に位置するベアナナの村(3)に到達することができなかった。
 ベアナナの村は住民たちによって放棄され、見るもおぞましいライ病の老婆二人が残されていた。
 翌日、小部隊は敵に占領されたと言われるツァラサウトゥラを奪回する戦いにのぞむべく、前進を開始した。しかしながら、先遣隊の前方を偵察するために派遣された斥候隊は、一人のフヴァ軍兵士の姿も発見できずに戻ってきた。
 その結果、一戦も交えることもなく、ツァラサウトゥラ村に到着した。不可欠の村の掃討と人と動物の糧食として役立つマニオクやモロコシや米などの入手を行った後、奇襲を防ぐため偵察隊が周囲の村や森をくまなく調べた。敵のいかなる痕跡も見あたらず、村の生活は平穏で、静寂が兵士達を捉えた。(レントゥーヌ)指揮官が、糸釣りに熱中する様が見られた。こんな村人の中では、これから輜重隊の荷馬車の通行を確保するための道を開削するために植民地歩兵大隊の兵士の一部が働くことは、不必要かと思われた。
 しかしながら、敵にとりこの小部隊は、我が軍といえども不死身ではないことを証明し、もって敵兵の士気を再度鼓舞する手段をイメリナの王宮に与える、多少不確実ではあるものの成功をもたらす、目の前に置かれたたいへんに誘惑的な餌であった。
 6月28日夕刻、多くても10人ほどの小さな前線基地と装備の良いフヴァ軍100人ほどの部隊との間で銃撃戦が行われた。その小さな前線基地の抵抗は、フヴァ軍の奪取を許さなかったが、両軍は極めて接近していたため夜通し人の声が聞こえた。
 6月29日夜明けに、攻撃が開始された。もはや小前線基地を奪おうとする100人ほどの小部隊などではなく、ツァラサウトゥラ村の200名の兵士に対するゆうに数千名のフヴァ軍であった。
 村に駐屯する全ての兵士が、武器を取った。アフリカ人歩兵は馬を綱で繋いでおき、駐屯地の一角を徒歩で戦った。砲兵隊は、砲座についた。フヴァ軍が我々を攻撃したのは、これが初めてであった。フヴァ軍は、(攻撃を)成功させねばならなかったし、また優勢であることを実感していた。
 5時45分、フヴァ軍が駐屯地の南側に砲撃を開始した。彼らはいつもとは違い、包囲戦術をとってきた。6時15分、彼らは東面を激しく攻撃してきた。敵は正確に照準された一斉射撃を数回受け、声もなく倒れた。砲兵小隊は、東に面した砲座に配置されていた。フヴァ軍の砲弾が、雨のごとくに我が軍の駐屯地に降り注いだ。我が軍が射撃したにもかかわらず、フヴァ軍が優勢を保ったのも初めてであり、指揮がゆき届いているようであった。さらに、射撃手の第一列に複数のヨーロッパ人の姿が、望見された。アルジェリア人歩兵はしっかりと防御されていたが、小隊の射撃の狙いを定めるために、これらの歩兵の後ろに立ってオージィ=デュフレース中尉が一斉射撃の指揮をとっていたところ、一発の弾丸が腹に命中し、地面に倒れた。中尉は衛生班に運ばれたが、そこで負傷者は致命傷と診断された。
 あちこちで激しい戦闘が、続いていた。敵が迂回行動をとり続けたため、状況は危機的であった。牽制攻撃を行うことが不可欠であり、また少人数の兵士たちが火線を下げることは厳禁された。攻撃の開始と共に放棄された第2小陣地の地点に立ち向かうために、30名の歩兵が選抜された。
 海軍歩兵隊のアンリ・オーベ大尉が、我われが既に見たようにこの情報部の士官は1894年の冬期の期間にマジュンガとタナナリヴとの間を走る道の開削を探る旅行を行った、この分遣隊の指揮をとる栄誉を申し出た。村を防御していた2門の虎の子の80mm山砲による砲兵隊の短い準備砲撃の後、オーベの分遣隊は指示された地点に向かい、銃剣による激しい攻撃を仕掛けた。同時に、第6中隊第2分隊も敵と会戦するべく出撃した。この2個分隊による連携のとれた激しい攻撃は、敵の間に動揺を引き起こすのに十分であった。フヴァ軍の攻撃が停止し、彼らは後退し、間もなく東および南に退却した。
 フヴァ軍は、頂きの一つがベリズカ(ベリツカ)と呼ばれるツァラサウトゥラ村から南に7kmに位置する丘に陣取った。
 我々は、オージィ=デュフレース中尉とアルジェリア人歩兵大隊のサパン伍長の2名が戦死、6名が負傷した。敵方は、数多くの兵員を失った。正午、全てが終わったが、戦闘は7時間続いた。発射された弾丸は、7655発であった。
レントゥーヌ司令官は、戦闘の開始と共にスーベルビヴィルに一頭の騎兵を走らせ、注意を喚起した。この報告を受け取るや、メッツィンゼール大将は、4門の砲とおよそ500名の第40歩兵大隊を率い、攻撃された地点へと向かった。
 これらの兵士たちに課せられた努力は体力を消耗させたが、本当の急襲を実現した。なぜなら、通行の困難な小道を通り、極めて短時間でそれは行われたからである。援軍は一人の落伍者も出すことなく、夕刻にはツァラサウトゥラ村に到着した。
(E. David-Bernard , 1943 , pp.130-131)
  ダッヴィドゥ=ベルナールの著書は戦争から48年後に出版されたものであり、そのことに対応するかのように、その文体もポワリエ的戦記記述スタイルを基調に先のアンドゥリアメーナやランショの日記的記述スタイルを付け加えたような、あるいはその場に居た兵士としての証言と事後的に入手した文献資料に基づく評価・分析の二つが混淆した中途半端なものとなっている。しかしアンドゥリアメーナの失敗した修辞を救ったものがポワリエには描かれえない細部であるならば、ベルナールのどっちつかずの文体を救うものもまた細部である。水溜まりと断崖によって遮られた悪路、住民によって遺棄されたライ病の老婆たち、28日夜敵兵の話し声が聞こえるほどの近距離で行われた銃撃戦、戦死した中尉の立っていた位置と弾丸の命中箇所、2門の虎の子の80mm山砲、そして最も秀逸な記述はツァラサウトゥラ村における索敵を命じられた小隊が敵を全く発見できなかった結果、川で釣りをする小隊長の姿であろう。フランス軍にとって、ライニアンザラヒ率いるイメリナ王国軍主力部隊の襲撃が、予期していなかったいかに唐突なものであるかが、このエピソードによってどのような単語による説明よりも雄弁に物語られている。
 II章の「史料と著者」において述べたように、ドイツ占領下において出版されたベルナールの本の前書きは、フランス植民地帝国意識が何らの含羞もなく剥き出しで前面に押し出されている。そうであるにもかかわらず、ベルナールが、敵のフヴァ軍やその兵士たちを貶めることもなく、また敵対感情を吐露することもなく、その点ではポワリエ同様に描いていることは、注目されて良い。なぜならイメリナ王国軍の組織や装備や戦闘能力について分析を加えた箇所を除き、先に挙げた9冊の史料全てが個別の戦闘場面におけるイメリナ王国軍とその兵士についてベルナールと同様な記述態度をとっているからである。フランス植民地帝国の絶頂期に国家的事業として企画され、そしてフランスの目論見通りの勝利とその後の政治的帰結をもたらしたこの戦争の特徴を思う時、露骨な自民族中心意識に立った記述の弱いことこそが、問題系を構成する。このような記述態度は、何処から生じてくるのだろうか。それは恐らく、戦記をめぐる大状況に鑑みるならば、戦力上は両軍に結果的に大きな差異があったとしても、1895年の第二次フランス−イメリナ王国戦争は、国家と国家との、そして正規軍と正規軍との外交手続きを踏んだ上での正式な戦争であったこと、および戦争を鳥瞰的な二次元平面記録として描く参謀本部や将官が事後に必ず執筆する作戦報告書ないし戦記と言う確立された記述様式の存在、この二点に由来するものであろう。さらに、戦記をめぐる小状況に鑑みるならば、現場において個々人が目撃し経験することのできる戦争とは常に、目の前の敵との具体的な戦いであり、そこにおいては自己言及の度合いを高めるほど敵を類型化して表象する余地はなくなると言う反語的な特徴である。とするならば戦記は、記述対象との間に自己言及的記述を前提とせずに成立しうる<旅の表象>として、一個の独立したジャンルを構成することになるであろう。
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