6月19日、ツァラサウトゥラ村は、レントゥーヌの派遣部隊によって占領された。
数日間は敵についての情報は無かったが、ツァラサウトゥラから11kmのベリツカ山(Beritsoka)方面に敵が現れたとの注意を促す知らせがもたらされた。
6月24日、この方面に偵察隊が出された。偵察隊は、敵のいかなる痕跡も見出せなかったが、アンパシーリ(Ampasiry)近辺にフヴァ軍の大部隊が終結していることを知った。
28日、午後9時頃、ツァラサウトゥラの東側に設けられたアルジェリア人歩兵大隊の陣地がフヴァ軍の一隊の攻撃を受けたとの知らせが入った。我が部隊は、その場における戦闘を継続しながら、アルジェリア人歩兵大隊を援護するために派遣された斥候隊を回収する地点まで、後退した。10時半、敵は攻撃を諦め、全てに静けさが戻った。
a)6月29日:午前5時半、レントゥーヌ司令官が、前線陣地を視察した。突然彼の目は、ツァラサウトゥラ村から500m南の峡谷に釘付けになった。フヴァ軍の強力な部隊が、そこに終結していた。
レントゥーヌは、コールメル中尉(Corhumel)指揮下、砲兵と騎兵の一部に続いてアルジェリア人連隊第6中隊を前面に配置した。陣地の南面の防御は、第6中隊および騎兵隊に任された。シャルティエ曹長(Charretier)率いる歩兵二分隊が、北東を防御するため後方に配置された。
この配置は、素早くまた運良く行われ、5時45分フヴァ軍兵士たちは突破を図る南面に対し激しい砲火を浴びせ始めた。6時15分、彼らの攻撃は南面を突破することができなかったため、次にフヴァ軍兵士たちは東面に対しさらに激しい攻撃をかけた。それに対しほとんど効果の無い一斉砲撃を撃ち返したものの、敵の激しい砲撃の前に第2小陣地は放棄された。
我が軍の砲兵隊は、東面の位置を占めることに成功した。砲兵隊は、敵砲兵隊に対し砲撃を浴びせ始めた。7時頃、オージィ=デュフレース中尉(Augey-Dufresse)は、右腹部に対し致命的負傷を受け、その指揮をマヘアス(Mahéas)副官に代わった。
我が諸部隊の状況は、次第に危機的なものになっていた。レントゥーヌ司令官は、一人の伍長指揮下の30名の歩兵に、第2小陣地を奪回するよう命じた。途中この部隊は、同じ命令を受けたオーベ大尉(Aub氏jと遭遇した。南面のもう一方から、始めの部隊と合流した第6中隊第2小隊が出撃した。砲兵隊が激しい砲撃を開始し、好機を見計らい、この2個小隊は、フヴァ軍の陣地に対し銃剣突撃を敢行した。敵の部隊は浮き足だち、南と東方面に逃走した。我々は、サパン上等兵(Sapin)の戦死を哀悼したい。
午前10時頃、オーベ大尉の状況はさらに危機的になった。たいへんに都合良く、この時ピロ大尉(Pillot)が、砲1門と共に第7中隊と第5歩兵半中隊を率いてベハナナ(Behanana)(1)から徒歩で到着した。この救援部隊によってオーベ大尉は救われ、フヴァ軍兵士たちは打撃を受けて、ツァラサウトゥラから7kmの地点の丘まで退却した。
正午、この戦闘は終了した。7635発の弾丸を発射したことからも、この戦いの激しさがわかるであろう。
午前10時、ドウシェーヌ将軍は、スーベルビヴィル(フランス派遣軍の司令部の置かれていた村)において、レントゥーヌ司令官からのこの第一報を受け取った。彼は、その場でメッツィンガー中将に対し、増援部隊を派遣するよう命令した。第40歩兵大隊と第16砲兵隊所属の2個小隊が、派遣された。
12時30分、32度の暑さにもかかわらず、先の第40歩兵大隊所属の3個中隊と砲兵2個小隊は、行軍を続けた。ベアナナにおいて2時間の休息を一度とった後、これらの部隊は、メッツィンゼール中将と共に、午後11時にツァラサウトゥラに到着した。
士官を交えた会議の後、メッツィンゼール中将は、翌日一斉に(フヴァ軍)陣地への決定的攻撃を命令した。
b)6月30日:午前6時、アルジェリア人連隊に所属する第5と第8の2個半中隊から成る部隊、司令部と第40歩兵大隊所属の3個中隊および第16山岳砲兵隊所属の2個小隊、これらの全ての部隊が、メッツィンゼール中将の指揮の下で前進を開始した。
(ツァラサウトゥラの)陣地には、アルジェリア人連隊所属の第6中隊と砲兵隊1個小隊が、防衛のために残された。騎兵が、スーベルビヴィルとの連絡にあたった。
6時40分、アルジェリア人連隊所属第7中隊が前日から厳重に警戒していた320高地に、全軍が到着した。第7中隊は、中将の警護と砲兵隊の護衛のために左側面を受け持ちながら全軍の行動に加わった。7時20分、藪に覆われた峻険な坂の麓に到達したが、そこを抜けるには砲兵隊を通すために道を改修しなければならなかった。
先遣隊は、オーベ大尉指揮下の第5と第8中隊所属の半中隊から構成されていた。先遣隊は、ナンドゥルジア(Nandrojia)を抜け後から砲兵隊が布陣する予定の小丘を占拠する任務を帯びていた。歩兵大隊はそこから最左翼に移動し、フヴァ軍の陣地に対する包囲行動にうつった。
8時15分、窪地を通過中、先遣隊は突然激しい一斉射撃を受け、カミサール伍長(Camisard)が負傷した。先遣隊は、幸いにもフヴァ軍の射撃からしばしば身を守ってくれた通過の困難な地点を、時折発砲しながら前進した。
間もなく、この先遣隊は、第40歩兵大隊と合流した。
マッシエ・ドュ・ビエストゥ中隊長(Massiet du Biest)が個人的に指揮をとる大隊の中の一中隊が、他の2個中隊を予備に残した2個半中隊と同じ第一線上に進出した。この第一戦列からの発砲は、フヴァ軍の注意を引きつけることに成功した。
半時後、我が軍砲兵隊がまだ稜線まで上ることが出来ていなかった時、フヴァ軍の砲兵隊が激しい砲撃を始め、その砲撃はあらゆる窪地からの活発な小銃射撃に援護されていた。
歩兵大隊は、数名の損失を被ったものの、前進を続けた。ようやく、第7中隊に守られた砲兵隊が所定の位置に布陣し、2500mの距離からの正確な照準の砲撃を数度加え、フヴァ軍砲兵隊を沈黙させた。
歩兵大隊と第5と第8中隊は、敵から200mの地点に達した。数度の一斉射撃の後、銃剣突撃を敢行した。9時30分であった。
この激しい攻撃は、フヴァ軍に対し効果的であった。フヴァ軍は、幾度か抵抗を試みた後退却したが、超人的な努力の末に丘の上に布陣することに成功した砲兵隊の一斉射撃の追撃を受けた。
10時20分、戦闘は終了した。敵は、450張のテント、司令官旗、2門のホッチキス社製大砲、2台のこの型の砲のための砲架、砲弾、小銃、多量の糧食を我々の手に残していった。
フヴァ軍の損害を、推計することはできない。我が軍の損害は、オーディエンヌ中尉(Audienne)が負傷、ブーヴィエ大尉(Bouvier)が打撲傷、8名の兵卒が負傷であった。
−即日叙勲者名省略−
結果:29日と30日の戦闘は、二重の結果をもたらした。それは、長期間に渡り、アンディバ村へと撃退したフヴァ軍の抵抗を無力化した。またそれは、イクパ川沿いに我が軍の基地を確立し、この地方における重要な宣撫拠点を提供した。
(J. Poirier , 出版年不詳 , pp.235-240)