I V 章 マルヴアイ攻防戦



川からマルヴアイに迫るフランス軍の挿し絵、H.Gally , La Guerre a Madagascar,1896 , p.289川岸にガードナー式機関銃で掃射を加えるフランス海軍河川艦隊、ibid.p.361
 
  フランス軍とイメリナ王国軍との間で最初の本格的な戦闘が行われたのが、マジュンガから南に約80km行ったベツィブカ川(Betsiboka)の川岸の台地周辺に形成されたサカラヴァ王国群・ブイナ王国第二の町マルヴアイを中心とする一帯であった。マルヴアイの町の西から北にかけてベツィブカ川が流れ、一方町の南と東にはベツィブカ川が作り出した氾濫原の沼沢や水田が広がり、町の中心部は周囲を見渡す高さ30mくらいの丘の上にあり、防衛するイメリナ王国軍にとって町とその周辺の村は天然の要害を形成していた。一方フランス軍にとっては、アンタナナリヴへと侵攻する道の入り口に位置するマルヴアイの町は戦略上の要衝であり、またマジュンガの町をフランス軍上陸前に撤退しマルヴアイ周辺に集結したラマスンバザハ長官率いるイメリナ王国軍主力を壊滅させることは北西部一体を軍事的に掌握することと同意であり、是が非でもこれを占領する必要があった。この作戦は、3月1日にマジュンガに上陸したメッツィンゼール率いるフランス派遣軍主力第一陣によって、マジュンガ地方掃討作戦の一環として実施された。イメリナ王国軍側の守備兵力は、最新のホッチキス社製78mm野砲を含む大砲25門および機関銃数門を装備した兵士3000名であり、マルヴアイの町とその周辺に複数の陣地を構築し布陣していた。イメリナ王国軍は兵員数ではフランス軍先遣隊にいささか劣るものの、防御陣地に対する攻撃戦において攻撃側は守備側兵員数の3倍を必要とするとの軍事的原則に照らせば、長期間の防衛は難しいとしてもその占領にあたってフランス軍にできうる限り大きな損失を強い、それによってアンタナナリヴ進軍の速度を遅延させ、フランス軍が恐れる雨季の到来までにアンタナナリヴ攻略を完了できない可能性を高めると言う戦略的意味を十分に見込むことのできる戦闘であった。しかし、現実にはマルヴアイ周辺をも含め、4月29日から5月2日までの4日間の戦闘でこの攻防戦は終わり、戦場にはイメリナ王国軍側の兵士の屍体と共に夥しい最新火砲を含む装備品の数々が遺棄されていた(J.Razafindranaly , 2000 , pp.106-111.)。
 先のポワリエの著書から、マルヴアイ攻防戦の数日を下記に引用する。
  4月29日、パルデス(Pardes)陸軍中佐指揮する(ベツィブカ川)左岸部隊の第1小隊が前進を開始した。30日、第1小隊はヌシピア(Nosipia)の陣地に到達した。5月1日、第1小隊は、たいへんな苦労の末にアンドゥラヌラーヴァ村(Andranolava)を突破することができた。翌2日、この小隊が前進を続けていると、前進する道の左方に配置されたフヴァ軍の伏兵およびアンブディマンガ村(Ambodimanga)を占拠した他のフヴァ軍からの攻撃を受けた。
 短い抵抗(を受けた)の後、パルデス陸軍中佐はアンタニムーラ村(Antanimora)とアンパリラーヴァ村(Amparilava)の敵を撃退した。
 パルデス小隊が後者の村の敵軍追撃の命令を受けたのに対し、砲兵隊とアルジェリア人歩兵部隊と共にポニャール(Pognard)小隊は、同じ左岸部隊の1個中隊を予備にまわしながら、アンタニムーラ村(2)の敵を追撃した。
 部隊に与えられた命令を遂行する前に、各部隊にしばしの休息が与えられた。9時半、各部隊は休息を止め、前進を開始した。
 3km前進した後、我が軍の2個の部隊は、フヴァ軍の陣地と遭遇した。パルデスの部隊は正面から、ポニャールの部隊と砲兵隊は左翼からこの陣地を攻撃した。
 30分後、敵は沼地と水田を横切り、フヴァ軍の前線の南に向け逃げ散って行ったが、その退路は我が軍砲兵隊の砲弾の射程距離内にあった。
 正午頃、ポニャールの部隊がマルヴアイの町に突入した。
 中央部でも、ビィアンエメの部隊が同じように任務遂行を成功させていた。5月1日、ガベス号(Gab峻)の支援を受けながら、プリモーゲル号(Primauguel)、ランス号(Rance)、リンクス号(Lynx)が、マジュンガを出港した。これらの小艦隊は、その他にも上陸部隊としてアルジェリア歩兵第9中隊を輸送していた。5月2日、午前6時頃、アルジェリア歩兵隊がマルヴアイからの川とベツィブカ川とが合流する地点に上陸し、マハツィンズ村(Mahatsinjo)に向けて前進した。上陸部隊は、船から水面に降ろされた14艘の舟艇に乗船した。上陸部隊は、4つの集団に組織された。
  このうちの3つの集団は川を遡上したが、川から2500mのマハツィンズ村の丘の上に設けられた(フヴァ軍)砲兵隊の砲座の一つからの砲撃や、また土手の上の茂みから発射される激しい一斉射撃や(川から)離れた場所から川面への縦射を受け、前進が阻まれた。
  65mm砲の反復砲撃や多銃身式機関銃の射撃は、(フヴァ軍の)攻撃を圧倒し、3個小隊が、ガテル(Gatel)海軍少佐に率いられた左岸歩兵部隊と合流するために、上陸、前進することを可能にした。ビアンエメ海軍大佐自身が、別部隊の指揮をとり、その部隊をマルヴアイまで率いた。ルーヴァ(1)の丘の上に掲げられたフヴァ軍の旗が引き下ろされたのが見えたのは、午前10時頃であった。少佐は、歩みを早め、マルヴアイの町を駆け抜け、午前11時15分、わずか15名の部下を引き連れただけで、ルーヴァの上にフランス国旗を掲げた。
 左岸と中央部隊によって成し遂げられた成果は、ガベ号に乗りベツィブカ川を渡河したデルブスケ部隊(Delbousquet)の任務を著しく軽減した。アンバラマンガ村(Ambalamanga)を横切り、部隊はアンブヒバーリ村(Ambohibary)に前進し、そこから左岸部隊によって敗走させられたフヴァ軍を一斉砲撃によって追撃した。同日夕刻、デルブスケ部隊は、アンカブカ村(Ankaboka)に入った。
 この重要な作戦は、我々にマルヴアイとベツィブカ川河口の占領を確かなものとした。作戦はまた、我々の手に次ぎの物を残した;マルヴアイに残されていた18門の旧式大砲;アンパリラーヴァ村に残されていた2門の大砲と1丁の機関銃、10000発の小銃弾、2000発の砲弾、5台のホッチキス社製大砲用砲架および貯蔵された火薬。ブイナ地方の長官でありまたフヴァ軍の司令官であるラマスンバザハ(3)は、自分の衣服と書類を残したまま、我が軍の手を逃れた。我が軍の射撃によって戦場に残された敵軍の損害は、およそ100あまりの死者と負傷者であった;しかしながらこの数字は、沼沢や水田方面に退却している間に打ち倒された人間を加えるならば、4倍にのぼる。
  我が方の損害は、次ぎの通りである;アルジェリア人歩兵1名戦死、マダガスカル人歩兵5名負傷、その内の1名は重傷。(J.Poirier , 出版年不詳 , pp.182-184.)
  この記述箇所には二葉の地図が添えられており、その地図を参照しながら、各部隊の動きや配置を記述に沿って読んでゆくと、この文章はあたかも二次元戦争シュミレーション・ゲームの如き躍動感を読む者に伝える。この土地に生える植物、この土地に住む人びとやその暮らしについて何の言及が無くとも、マルヴアイの町の中心は丘の上にあり、その周囲は水田と湿地が広がり、そのためそこに至る道筋が固定されていることの情報が読み手に与えられているならば、ポワリエの記述が指し示す<ゲーム>に参加することはたやすい。後は時間毎の各部隊の位置と行動が、その地図上にプロットされてゆけば良いだけである。そこにおいて<読者>は、戦闘が行われている地上ではなく、はるか高みから地上を見下ろす形で、<あちら側にいること>の疑似であることを自覚した感覚を味わう。<読者>は、<著者>と共に<あちら側>へ行くのではない。<著者>がはるか遠景に退くことによってはじめて、<読者>は<あちら側>へゆくことができるのである。もし戦記が旅の表象形態として特異性を帯びているならば、それはこの鳥瞰的二次元ゲームの既視感覚のみを梃子に成立しうる点にある。
 しかし、兵士と言う個別の人間が自らの経験を基に<読者>を想定して戦争を記述する時、遠景に退かされていた<著者>が再度召還されることは当然である。そこにおいては単なる緻密さとしてではなく、言及されるべき細部が何であるかの選択が、<あちら側にいること>をよく<読者>に伝えうるかどうかの要となる。
  4月28日 我々はメーヴァラヌ村(Mevarano)に到着。そこでラヴァイユ(Lavail)大尉とリロン(Liron)の小隊を待つ。一日の休息が、我々には必要。私自身は、横糸がすっかり緩んだ蚊帳の下での美しい星空の長い夜を過ごすはめになった。私は、家畜同然を余儀なくされ、虫の群に貪り喰われる。
 4月30日 我々は、午前中水の張った水田のぬかるみの中を、歩く。我々がミアダナ村(Miadana)を目指している時、砲台と遭遇。しかし短時間の交戦の後、フヴァ軍は、銃器や弾薬を置いた村の家々に火を放って逃走した。
炎と共にぱちぱちと弾薬が爆発したが、アルジェリア人歩兵たちはミアダナ村(4)に殺到し、焼き払いはじめた。村長が、捕虜となった。
 5月1日 我々は、蚊とワニがうようよするアンドゥラヌラーヴァ川(Andranolava)を、二艘のカヌーを並べた橋の上を通って渡河。砲身、砲架、砲弾、薬莢は、ザンジバル兵に背負われて、運搬される。我々のラバは、水の中に入り、対岸の斜面にさしたる苦労もなく到達する。
 その夜、フヴァ軍が小銃を撃ちかけてきて、テントの上を弾丸がヒューヒューとうなりをあげ飛んで行く。歩哨が警報を発し、レントゥーヌ司令官が見回るためにランプを手に出てくる姿が望見された。一時間以上経った時、また警報。今度は、我々の仮橋が潮によって流されようとしていた。オージー=デュフレース中尉の隊が駐屯する村との間の交通が、遮断されてしまった。幸いにも、インド人の帆船が不足していたパンを運んできた上、我々の最後の隊を輸送してきた。
 全ての部隊が展開を終えた時は、もう夜であった。
 午前7時から、戦争のあらゆる事柄が繰り広げられる。一斉射撃、大砲の発射準備、ひどい道を抜けての駆け足、炎天下での幸せな疲労。
 10時、我が砲兵隊は丘の上に陣取り、フヴァ軍の堡塁を砲撃、フヴァ軍が進むマルヴアイ平野の一連の広大な水田を制圧。
 海軍の小艦隊も、マルヴアイ川を遡った。海軍砲兵隊は、65mm砲と多銃身機関砲を装備している。ビアンエメ指揮官は、海兵隊とアルジェリア人歩兵隊の先頭に立って上陸。砲撃の音が聞こえた後、ルーヴァの旗が引き下ろされるのが見えた。
 フヴァ軍は、自分たちの前に牛群を押し立てながら、水田の中を退却。我が砲兵隊は機関銃を発射、このフヴァ軍の退却を敗走に変える。我々は、一人のヨーロッパ人が逃げて行くのを目撃する。理由がないわけではなく、共謀を疑われていたイギリス人の副領事に違いないと我々はにらんでいる。
 ラマスンバザハ(5)が、防衛をも自ら指揮するブエニ地方(Boeni)(6)の長官である。彼は、自分の衣服や武器や書類を遺棄して逃亡した。メヴァタナナ村(Mevatanana)近くで見つかった一通の書簡は、我が砲兵隊の射撃について次ぎのように報告している「播種する際の籾米のように砲弾が降り注いだ」。
 このブエニ地方の一角は、マルヴアイ周辺が急峻なこともあり、間違いなくヨーロッパ人によって適切に配置された堅固な陣地によって、防御されていた。それゆえ、我々は、この攻撃の短期間での成功に驚いている。
 遠くにベツィブカ川を望む素晴らしい展望が、フヴァ軍が一世紀前の砲架の無い旧式の巨大な大砲を据え付けた砲台の周囲に広がっている。水田とマニオク畑が、様々な植物の生えた丘の麓まで続いている。草むらではなく灌木が、生い茂っている。バナナ、ラフィア、ラタニアが、村の家々の近くに生えている。ところどころの村の下では、池の水が睡蓮の紫の花の下を流れ、白く輝く鷺の群が水田の上を舞っていた。
 マルヴアイの町は、異なる二つの区画に分かれている。急な丘の上には、ルーヴァと現地人の家屋がある。我々は、そこに宿営した。下には、狭い通りと大地と同じ赤土でできた家屋のインド人の町がある。壁は厚く、奇妙な彫刻が施され幾つかに仕切られた扉を持つ入り口は、鉄によって覆われている。なぜなら住民は、泥棒の侵入を恐れているからである。
 イギリス臣民であり、店の入り口に気むずかしい顔で座っているインド人たちは、金製品を商っている。インド人の店は一日中開いており、交易品で溢れている。綿布、麻布の服、絹織物、あらゆる小物などである。
 丘の上には、水がない。当番兵が、キャンバス布のバケツや樽を持って、川の水を汲むために降りて行く。川の水はいささか濁ってはいるものの、飲むことができる。
 マルヴアイの川は、インド人町の下から流れ出している。ワニの数は本当に多く、マダガスカル語でこの川とこの町は、<ワニがたくさんいる所>と名付けられている。
 蚊も多い。蚊帳があるにもかかわらず幾晩もの間蚊はぶんぶんしているし、おまけにアリが襲撃のために這い上がってくる。と言うわけで、リリパット国のガリバーの愉快なお話を思い起こさせる。喰われないためには、水を張った缶の中にベッドの脚を入れておかなければならない。このような予防にもかかわらず、全ての侵入を防ぐというわけにはゆかない。しばしば、びっくりする長さのムカデが家の天井から落ちてきて、あなたたちの服の上を這い回る。
 ヘビも周りにたくさんいるが、マダガスカルには有毒種が一種もいないことは、よく知られている。
 我々に物資を補給する帆船やカヌーは、すぐにはやって来ない。そこで、植民地兵たちは、通りすがる至る所で物をくすねた。
 滑稽な出来事は、ラマス・トン・バザールと名付けられたブエニ地方長官の衣裳を発見したことであった。
 サトウキビを伐りに行くとの口実の許、砲兵隊のザンジバル人たちは、消防士のヘルメットやらイギリス兵の赤い軍服(7)やらペチコートにボンネット帽にキャミソールなどのがらくたを手に遠征から戻ってきた。死ぬほど笑えた。
 [家禽や豚を略奪する植民地兵たちの挿し絵、H.Gally , La Guerre a Madagascar,1896 , p.881 , 行軍するハウサ人大隊の兵士たちの挿し絵、ibid. p.785]
 家禽は、きちっと支払いのなされるのが原則だったが、略奪を免れなかった。そのため、食事の準備は楽しかった。
 私は、料理長になった。私は調理を指示し、料理にとりかかる。ゼブ牛の片身やアヒルのローストから少しでも違うものをと工夫を凝らした。私と一緒に食事をする人たちは、決して不満をもらすようなことはなかったし、私は満足の笑みが一度ならず会食者たちの満たされた唇の上に浮かぶのを見てとった。
 それ以上に楽しかったのは、我々の仲間の植民地兵たちと共に、ある日の朝、我々がアラビア風に羊一頭をまるまる焼き、王侯の食事もかくやと思わせる串焼きを指でつまんで食べたことである。その一方工兵隊中尉のジロ(Girod)は、我々にホワイトソースと棕櫚椰子の柔らかい先端でサラダを作ることを命令した。最も美味しいアーティチョークの花托でさえ、このようなご馳走の後では、味のない野菜でしかない。デザートにとってもかぐわしくまた風味のあるバナナが出されたため、我々はまたしても食べてしまった。それに、軍糧食経理部の赤ワイン、貴重なことで知られる三ツ星のトゥマゾウ・ラム酒・・・控え目に。
 最初の数日間、我々は夕方になるたびに、何処かの村が焼けるのを目撃した。我々は、一人の放火犯を壁に立たせ銃殺した。しかし、もしフヴァ軍がこのように我々の前の全ての物を焼き払うことを続けるならば、この国の生活は困難なものとなるだろう。
(Andriamena , 1904:pp.43-47)
  おそらく著者のアンドゥリアメーナ自身が考えるほどに、彼の用いる様々な修辞の仕掛けは、<読者>に何ものかを伝える文体としての効果を、ここでは発揮していない。それでもこのアンドゥリアメーナの記述が、<読者>に<あちら側にいること>の本当らしさを伝えるのに成功しているとするならば、それは文体ではなく、言及される細部の選択にあると言えよう。戦闘経過の通時的記述として見るならば、アンドゥリアメーナの本はポワリエの本に及びもつかない。アンドゥリアメーナの記述の真骨頂は、ポワリエの本の行間、すなわち「戦場の兵士たちといえども、戦闘だけを行っているわけではない」と言うごく平凡なそれゆえポワリエには描かれない部分を、いささか泥臭く埋めてゆく点にある。星空がよく見えるような蚊帳を使ったせいで蚊に襲撃される夜、ベッドの脚を水を張った缶の中に入れて置いてもまだ襲撃してくるアリ、天井から落ちてくるムカデ、毎日繰り返される単調な水汲みの仕事、ザンジバル人兵士たちの滑稽な略奪品、池に咲く睡蓮の花と水田上を飛ぶ鷺の群、丘の上からのすばらしい眺望、略奪した家禽や家畜で造る料理の味。銃弾や飛び交い砲弾が炸裂し屍体が散らばる戦場と同じ土地の上で展開されるマルヴアイ住民とフランス軍兵士それぞれの生活、その静と動、死と生、非日常と日常。この対比が内包する落差とそれらが表裏一体に存在する生活の奇妙さの感覚は、彼のいかなる修辞よりも<読者>を<あちら側>へとつかまえてゆく。兵士たちにも日常生活があること自体は、従軍経験の無い者にさえ想像できる凡庸さしか持ち合わせていないが、どのような生活も抽象用語によってではなく具体的細部によってのみ語りうることが、アンドゥリアメーナを<著者>として戦記の遠景から召還することのゆえんである。
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