4月28日 我々はメーヴァラヌ村(Mevarano)に到着。そこでラヴァイユ(Lavail)大尉とリロン(Liron)の小隊を待つ。一日の休息が、我々には必要。私自身は、横糸がすっかり緩んだ蚊帳の下での美しい星空の長い夜を過ごすはめになった。私は、家畜同然を余儀なくされ、虫の群に貪り喰われる。
4月30日 我々は、午前中水の張った水田のぬかるみの中を、歩く。我々がミアダナ村(Miadana)を目指している時、砲台と遭遇。しかし短時間の交戦の後、フヴァ軍は、銃器や弾薬を置いた村の家々に火を放って逃走した。
炎と共にぱちぱちと弾薬が爆発したが、アルジェリア人歩兵たちはミアダナ村(4)に殺到し、焼き払いはじめた。村長が、捕虜となった。
5月1日 我々は、蚊とワニがうようよするアンドゥラヌラーヴァ川(Andranolava)を、二艘のカヌーを並べた橋の上を通って渡河。砲身、砲架、砲弾、薬莢は、ザンジバル兵に背負われて、運搬される。我々のラバは、水の中に入り、対岸の斜面にさしたる苦労もなく到達する。
その夜、フヴァ軍が小銃を撃ちかけてきて、テントの上を弾丸がヒューヒューとうなりをあげ飛んで行く。歩哨が警報を発し、レントゥーヌ司令官が見回るためにランプを手に出てくる姿が望見された。一時間以上経った時、また警報。今度は、我々の仮橋が潮によって流されようとしていた。オージー=デュフレース中尉の隊が駐屯する村との間の交通が、遮断されてしまった。幸いにも、インド人の帆船が不足していたパンを運んできた上、我々の最後の隊を輸送してきた。
全ての部隊が展開を終えた時は、もう夜であった。
午前7時から、戦争のあらゆる事柄が繰り広げられる。一斉射撃、大砲の発射準備、ひどい道を抜けての駆け足、炎天下での幸せな疲労。
10時、我が砲兵隊は丘の上に陣取り、フヴァ軍の堡塁を砲撃、フヴァ軍が進むマルヴアイ平野の一連の広大な水田を制圧。
海軍の小艦隊も、マルヴアイ川を遡った。海軍砲兵隊は、65mm砲と多銃身機関砲を装備している。ビアンエメ指揮官は、海兵隊とアルジェリア人歩兵隊の先頭に立って上陸。砲撃の音が聞こえた後、ルーヴァの旗が引き下ろされるのが見えた。
フヴァ軍は、自分たちの前に牛群を押し立てながら、水田の中を退却。我が砲兵隊は機関銃を発射、このフヴァ軍の退却を敗走に変える。我々は、一人のヨーロッパ人が逃げて行くのを目撃する。理由がないわけではなく、共謀を疑われていたイギリス人の副領事に違いないと我々はにらんでいる。
ラマスンバザハ(5)が、防衛をも自ら指揮するブエニ地方(Boeni)(6)の長官である。彼は、自分の衣服や武器や書類を遺棄して逃亡した。メヴァタナナ村(Mevatanana)近くで見つかった一通の書簡は、我が砲兵隊の射撃について次ぎのように報告している「播種する際の籾米のように砲弾が降り注いだ」。
このブエニ地方の一角は、マルヴアイ周辺が急峻なこともあり、間違いなくヨーロッパ人によって適切に配置された堅固な陣地によって、防御されていた。それゆえ、我々は、この攻撃の短期間での成功に驚いている。
遠くにベツィブカ川を望む素晴らしい展望が、フヴァ軍が一世紀前の砲架の無い旧式の巨大な大砲を据え付けた砲台の周囲に広がっている。水田とマニオク畑が、様々な植物の生えた丘の麓まで続いている。草むらではなく灌木が、生い茂っている。バナナ、ラフィア、ラタニアが、村の家々の近くに生えている。ところどころの村の下では、池の水が睡蓮の紫の花の下を流れ、白く輝く鷺の群が水田の上を舞っていた。
マルヴアイの町は、異なる二つの区画に分かれている。急な丘の上には、ルーヴァと現地人の家屋がある。我々は、そこに宿営した。下には、狭い通りと大地と同じ赤土でできた家屋のインド人の町がある。壁は厚く、奇妙な彫刻が施され幾つかに仕切られた扉を持つ入り口は、鉄によって覆われている。なぜなら住民は、泥棒の侵入を恐れているからである。
イギリス臣民であり、店の入り口に気むずかしい顔で座っているインド人たちは、金製品を商っている。インド人の店は一日中開いており、交易品で溢れている。綿布、麻布の服、絹織物、あらゆる小物などである。
丘の上には、水がない。当番兵が、キャンバス布のバケツや樽を持って、川の水を汲むために降りて行く。川の水はいささか濁ってはいるものの、飲むことができる。
マルヴアイの川は、インド人町の下から流れ出している。ワニの数は本当に多く、マダガスカル語でこの川とこの町は、<ワニがたくさんいる所>と名付けられている。
蚊も多い。蚊帳があるにもかかわらず幾晩もの間蚊はぶんぶんしているし、おまけにアリが襲撃のために這い上がってくる。と言うわけで、リリパット国のガリバーの愉快なお話を思い起こさせる。喰われないためには、水を張った缶の中にベッドの脚を入れておかなければならない。このような予防にもかかわらず、全ての侵入を防ぐというわけにはゆかない。しばしば、びっくりする長さのムカデが家の天井から落ちてきて、あなたたちの服の上を這い回る。
ヘビも周りにたくさんいるが、マダガスカルには有毒種が一種もいないことは、よく知られている。
我々に物資を補給する帆船やカヌーは、すぐにはやって来ない。そこで、植民地兵たちは、通りすがる至る所で物をくすねた。
滑稽な出来事は、ラマス・トン・バザールと名付けられたブエニ地方長官の衣裳を発見したことであった。
サトウキビを伐りに行くとの口実の許、砲兵隊のザンジバル人たちは、消防士のヘルメットやらイギリス兵の赤い軍服(7)やらペチコートにボンネット帽にキャミソールなどのがらくたを手に遠征から戻ってきた。死ぬほど笑えた。
[家禽や豚を略奪する植民地兵たちの挿し絵、H.Gally , La Guerre a Madagascar,1896 , p.881 , 行軍するハウサ人大隊の兵士たちの挿し絵、ibid. p.785]
家禽は、きちっと支払いのなされるのが原則だったが、略奪を免れなかった。そのため、食事の準備は楽しかった。
私は、料理長になった。私は調理を指示し、料理にとりかかる。ゼブ牛の片身やアヒルのローストから少しでも違うものをと工夫を凝らした。私と一緒に食事をする人たちは、決して不満をもらすようなことはなかったし、私は満足の笑みが一度ならず会食者たちの満たされた唇の上に浮かぶのを見てとった。
それ以上に楽しかったのは、我々の仲間の植民地兵たちと共に、ある日の朝、我々がアラビア風に羊一頭をまるまる焼き、王侯の食事もかくやと思わせる串焼きを指でつまんで食べたことである。その一方工兵隊中尉のジロ(Girod)は、我々にホワイトソースと棕櫚椰子の柔らかい先端でサラダを作ることを命令した。最も美味しいアーティチョークの花托でさえ、このようなご馳走の後では、味のない野菜でしかない。デザートにとってもかぐわしくまた風味のあるバナナが出されたため、我々はまたしても食べてしまった。それに、軍糧食経理部の赤ワイン、貴重なことで知られる三ツ星のトゥマゾウ・ラム酒・・・控え目に。
最初の数日間、我々は夕方になるたびに、何処かの村が焼けるのを目撃した。我々は、一人の放火犯を壁に立たせ銃殺した。しかし、もしフヴァ軍がこのように我々の前の全ての物を焼き払うことを続けるならば、この国の生活は困難なものとなるだろう。
(Andriamena , 1904:pp.43-47)