5月4日土曜日 午前8時、マジュンガに到着。ひどい混乱。午後2時か3時前には、誰も上陸できず。多くは、船で寝ることになる。17隻の船が、満載状態で停泊地を行き来する。フランスから持って来られた艀は、ボルトが無いため組み立てることができない。それに艀は、水からの船舷が極端に低いため、大海を行くには、沈む危険なしに、停泊地との往来に用いることができない。商業に用いられる二三艘以外は、曳き船さえもない。積み荷を揚陸するために一ヶ月以上停泊している艦船が、数隻いる。一日の揚陸期間の遅れが、平均して2000から3000フランに値する。
停泊地の全艦船が、2日に行われたマルヴアイ占領を祝い、戦闘旗を掲げている。地上と川からの複合攻撃であった。フヴァ軍は、かなりの抵抗を示した。我が方は、1名戦死、5名負傷。
その間に舵を失うひどい揺れの下船の後、われわれは陸に着いた。私はラペル(Lapeyre)と共に、駐箚官邸に身を落ち着けた。
5月5日日曜日 朝、マジュンガの町を歩く。印象は、乱雑の一言。桟橋、すなわち揚陸地点は、あらゆる種類の荷物やら物資やらであふれている。小麦やカラス麦の袋、缶詰の箱、レール、トロッコ、ルフェーブル型荷馬車、乱雑に置かれた荷鞍、それらのものを盗むほど容易なことはない。会う士官、会う士官、みんな互いに文句を言っている。海軍はバカだ、陸軍は役立たずの女だ。これらのことは、ミロ将軍(Millot)の師団がトンキン湾に着いた時のことを想い出させる。相も変わらない怠慢。かかる結果を招くためなら、フランスで周到細心にあらゆる準備をするにはおよばない。
もし総司令官があらゆる個人的な競争や野心を断固として抑制する気構えがないならば、向こう三ヶ月間我々は出発する準備はできないであろう。
良き連隊長であるメッツィンゼール将軍には、司令官としての資質がない。彼には、指導力が欠けているし、優柔不断な人間である。アンドゥリ少佐(Andry)が指図したのだから、彼に現状の混乱の責任の大半がある。どの歩兵部隊も持っていない海軍の舟艇を乗組員共々、彼が準備することができたはずにもかかわらず、彼は海軍とりわけ海軍師団なしで済ませるつもりだった。さらに、海軍司令官のマーケェ海軍大佐(Marquer)も、性格上多くの点で、メッツィンゼール将軍に似ている。彼のお陰で、艀の組立や、先に上陸した部隊への補給や、船舶からの揚陸におけるあらゆる不手際や遅れが生じている。この混乱を引き起こした少数の人間が、海軍師団長によって、彼らと同じ部隊、すなわちヌシ・ベ島やディエゴに駐留する部隊と共に、選ばれたことを覚えておくべきであろう。
その他の点では、事態は概ね良好である。部隊は上陸が終わり次第順次内陸へと向かうため、マジュンガに残っている部隊はわずかである。マルヴアイの占領は、各部隊の配列をより一層容易なものにした。
衛生状態はさほど悪くはなく、道々我々に注意が促されるにもかかわらず、いかなる伝染病も発生していない。しかしながら、道路改修に従事し、現在マエヴァラヌ(Maevarano)の前線に居る工兵部隊と砲兵部隊の間では、伝染病が発生している。
ルフェーブル型荷馬車は激しい非難の的になっており、私もそれを見るにつけ、スーベルビヴィル村(Suberbiville)とアンドゥリィバ村(Andriba)との間など、一部の道ではこの型の荷馬車を通すことなど思いもよらないと認めざるをえない。
(A.d'Anthouard et A.Ranchot , 1930 , pp.72-74.)