I I I 章 マジュンガ上陸



マジュンガの町の遠景の挿し絵、H.Gally , La Guerre a Madagascar,1896 , p.225
 
  1894年12月12日、フランス海軍は東海岸の港町タマタヴに艦砲射撃を加え、海兵隊が上陸これを占領した。これが、第二次フランス−イメリナ戦争の始まりである。フランス側から軍事的に見た港町タマタヴ占領の意義は、二点ある。まず第一は、タマタヴがイメリナ王国にとって最も主要な港であり、海外から内陸に位置する王国への武器・弾薬の供給を遮断するには、この町を押さえることが不可欠であった。その第二は、陽動作戦である。マダガスカル島のほぼ中央に位置するイメリナ王国の首都アンタナナリヴに至る海岸からの道は二つ、すなわち東海岸タマタヴからのおよそ340kmの道のりおよび北西海岸マジュンガからのおよそ600kmの道のりである。さらに、それぞれの道とも王都防衛のために、意図的に橋梁の架橋や道路の整備がなされていなかった。実際宰相ライニライアリヴニは、この東海岸一帯に広がる熱帯降雨林帯を<アラ(ala)将軍>すなわち<森将軍>、マダガスカルの低地一帯に猖獗するマラリアを<タズ(tazo)将軍>すなわち<マラリア将軍>と呼び、脱走兵が相次ぎ士気の上がらない王国軍よりも、王都を外国勢力から守護する信頼できる身方と見なしていたのである。第二次フランス−イメリナ戦争の作戦立案においてフランス軍は、道程的には近いものの東部山岳森林帯を抜けなければならないため、途中待ち伏せ攻撃を受ける可能性の高いタマタヴからの道を避け、道程的には遠くなるものの上りがゆるやかで見通しのよい草原状の丘が続くマジュンガからの道を選び、マジュンガにアンタナナリヴ攻略の主力部隊を揚陸する計画であった。しかしイメリナ王国政府は、フランス軍がタマタヴとマジュンガいずれの道を辿って侵攻してくるのか、あるいは場合によってはその双方から挟撃をしかけてくるのか予測と判断をつけかねていた。そのような中でこの陽動作戦としてのタマタヴ占領は功を奏し、イメリナ王国の指導者たちがマジュンガに上陸した部隊こそがアンタナナリヴ攻略のためのフランス軍主力であると認識したのは、先遣隊の上陸から実に4ヶ月近くが経った、4月下旬のマルヴアイ(Marovoay)攻防戦が終わった時点からであった。それまでイメリナ王国側が、タマタヴとマジュンガ双方からの侵攻に備え、主力各部隊をアンタナナリヴの周囲に配置しまた一部を東海岸の防備に充てるなど地の利を活かした主力決戦の場を準備するわけでもなく無駄に時を過ごしたことは、情報を収集し評価しそれに即して作戦を立案し指揮命令を発する参謀本部ないし統合作戦指令部にあたる部署や機能を持たない防衛側の弱点を如実にさらけ出していた(M.エスアベルマンドルウス,1988,pp.335-337., M.Brown,1978,pp.245-246., E.Ralaimihoatra, 1976, pp.200-201)。
 1895年1月14日フランス海軍艦隊がマジュンガの町にあるイメリナ王国の要塞を砲撃、翌15日早朝、ディエゴスワレスに駐屯していた海軍歩兵部隊が上陸、無抵抗のまま町を完全占領、ここに主力部隊揚陸のための橋頭堡を確保した。マジュンガの町は、18世紀にサカラヴァ族の人びとによって造られた北部サカラヴァ王国群の総称であるブイナ王国(Boina)の中で最も大きな都であり、またインド洋交易に開けたマダガスカルの主要港の一つであった。1824年、ラダマI世が北部サカラヴァ王国群に対して行った一連の軍事行動の中でマジュンガの町もイメリナ王国の支配下に入り、イメリナ王国は町に砦を築き駐屯部隊を置くと共に長官を派遣し町と港を掌握した。このフランス軍先遣隊の上陸時、マジュンガ地方の長官だったラマスンバザハ(Ramasombazaha)は、一戦も交えることなくサカラヴァ・ブイナ王国の女王と聖遺物(1)を守護しながら3000名の兵士と共にマジュンガの南80kmに位置するサカラヴァ・ブイナ王国第二の町マルヴアイへと退却していた。水際迎撃戦を全く行わなかったこのラマスンバザハ長官の行動は、その後のフランス軍主力部隊の揚陸を容易にし、ひいては雨季に入る前の9月までにアンタナナリヴ攻略を完了すると言うフランス軍当初の作戦計画を予定通りに実現させることとなった。2月28日から3月7日、メッツィンゼール率いるフランス派遣軍主力の第一陣が上陸、その後5月6日から25日にかけ派遣軍総司令官ドゥシェーヌ将軍と派遣軍主力部隊全軍が上陸を完了した(E.Ralaimihoatra , 1976, p.201. , C.Valensky , 1995 , pp.65-67. , J.Razafindranaly , 2000, pp.101-116.)。
 フランス派遣軍の公式作戦記録書とも見なすことのできるポワリエの著作におけるフランス軍先遣隊のマジュンガ上陸と占領の記述は、それが当然とは言え驚くほど素っ気なく短い。
  西海岸では、派遣軍主力部隊の活動拠点としての利用を目的としたマジュンガ港が、1月16日、ベラン(Belin)大隊長指揮下の海軍歩兵部隊2個中隊および1個砲兵小隊によって占領された。これらの部隊は、ディエゴスワレス駐屯部隊の中から派遣されたものである(2)。14日午前11時から正午までの砲撃の後、海軍分遣隊によって奪取され、15日以来町は、我が方の掌中にあった。  (J.Poirie , p.170)
  マジュンガと言う土地が持つ固有性への言及は、地名そのものを除けばここには一切登場しない。戦記ないし戦史において土地が言及されるべき固有性を獲得するのは、戦闘に代表される軍隊として記されるべき行動や活動を行った場合においてであり、戦記や戦史の公的性格が強いほど、そこに書き込まれた固有名詞や固有性は土地本来とのかかわりを失う。ポワリエの記述においてこの時のマジュンガは、フランス軍が作戦行動をとったマダガスカル上の凡百の地名の中の一つにすぎない。しかしその一方、マルセイユからスエズ運河を抜け一ヶ月近い船旅の末マジュンガに上陸した兵士一人一人の眼において書き記された事柄あるいは書き記されるべき事柄は、戦闘が無かろうとも無数に存在し、それは常に時間と空間双方との固有な係わりを持っている。
  5月4日土曜日 午前8時、マジュンガに到着。ひどい混乱。午後2時か3時前には、誰も上陸できず。多くは、船で寝ることになる。17隻の船が、満載状態で停泊地を行き来する。フランスから持って来られた艀は、ボルトが無いため組み立てることができない。それに艀は、水からの船舷が極端に低いため、大海を行くには、沈む危険なしに、停泊地との往来に用いることができない。商業に用いられる二三艘以外は、曳き船さえもない。積み荷を揚陸するために一ヶ月以上停泊している艦船が、数隻いる。一日の揚陸期間の遅れが、平均して2000から3000フランに値する。  停泊地の全艦船が、2日に行われたマルヴアイ占領を祝い、戦闘旗を掲げている。地上と川からの複合攻撃であった。フヴァ軍は、かなりの抵抗を示した。我が方は、1名戦死、5名負傷。  その間に舵を失うひどい揺れの下船の後、われわれは陸に着いた。私はラペル(Lapeyre)と共に、駐箚官邸に身を落ち着けた。
 5月5日日曜日 朝、マジュンガの町を歩く。印象は、乱雑の一言。桟橋、すなわち揚陸地点は、あらゆる種類の荷物やら物資やらであふれている。小麦やカラス麦の袋、缶詰の箱、レール、トロッコ、ルフェーブル型荷馬車、乱雑に置かれた荷鞍、それらのものを盗むほど容易なことはない。会う士官、会う士官、みんな互いに文句を言っている。海軍はバカだ、陸軍は役立たずの女だ。これらのことは、ミロ将軍(Millot)の師団がトンキン湾に着いた時のことを想い出させる。相も変わらない怠慢。かかる結果を招くためなら、フランスで周到細心にあらゆる準備をするにはおよばない。  もし総司令官があらゆる個人的な競争や野心を断固として抑制する気構えがないならば、向こう三ヶ月間我々は出発する準備はできないであろう。
 良き連隊長であるメッツィンゼール将軍には、司令官としての資質がない。彼には、指導力が欠けているし、優柔不断な人間である。アンドゥリ少佐(Andry)が指図したのだから、彼に現状の混乱の責任の大半がある。どの歩兵部隊も持っていない海軍の舟艇を乗組員共々、彼が準備することができたはずにもかかわらず、彼は海軍とりわけ海軍師団なしで済ませるつもりだった。さらに、海軍司令官のマーケェ海軍大佐(Marquer)も、性格上多くの点で、メッツィンゼール将軍に似ている。彼のお陰で、艀の組立や、先に上陸した部隊への補給や、船舶からの揚陸におけるあらゆる不手際や遅れが生じている。この混乱を引き起こした少数の人間が、海軍師団長によって、彼らと同じ部隊、すなわちヌシ・ベ島やディエゴに駐留する部隊と共に、選ばれたことを覚えておくべきであろう。  その他の点では、事態は概ね良好である。部隊は上陸が終わり次第順次内陸へと向かうため、マジュンガに残っている部隊はわずかである。マルヴアイの占領は、各部隊の配列をより一層容易なものにした。
 
  衛生状態はさほど悪くはなく、道々我々に注意が促されるにもかかわらず、いかなる伝染病も発生していない。しかしながら、道路改修に従事し、現在マエヴァラヌ(Maevarano)の前線に居る工兵部隊と砲兵部隊の間では、伝染病が発生している。
 ルフェーブル型荷馬車は激しい非難の的になっており、私もそれを見るにつけ、スーベルビヴィル村(Suberbiville)とアンドゥリィバ村(Andriba)との間など、一部の道ではこの型の荷馬車を通すことなど思いもよらないと認めざるをえない。
(A.d'Anthouard et A.Ranchot , 1930 , pp.72-74.)
  ランショによるマジュンガ上陸初日と二日めの記述は、修辞を用いない短い文が次から次へと繰り出され、皮肉や寸評や裁断が容赦なくそこかしこに挿入され、それらが一体となってフランス派遣軍の上陸と揚陸に焦点を絞ったコントラストの強い情景を浮かび上がらせる。ポワリエの本には決して記されることのない、その乱雑さ。それゆえランショの記述においてメッツィンゼール将軍は、フランス派遣軍陸軍第一旅団長としてではなく、人柄は良いが優柔不断で整然とした上陸を指揮することもできない司令官不適格の烙印を押された<個人>として描かれている。もちろんこのような記述は、ランショが派遣軍と行動を共にしていたとは言え、軍隊に属さない民間人であるからこそよくなしえたものである。また既にマダガスカルに9年間滞在した経験を持つランショにとってマジュンガ到着において記述されるべき特異性を持つ事柄とは、既に慣れ親しんでいるマジュンガの景観や事物ではなく、同じフランス人であるはずの人間たちの演じる愚行であることは、なんら奇異なことではない。記述する対象を極度に書き手に引き付けた戦記が、ここにある。ランショ自身が、公開を前提とせずにこれらの日記を記述していたゆえに、このような記述スタイルが生まれたことは間違いない。他の戦記の著者には与えられなかった立場を我が物にした幸運が作用したにせよ、この日記のこの箇所において混乱と怒りをよく共有しえた読者は、ランショの提示する世界に巻き込まれ、ランショと共にその先を歩むことになるであろう。
  4月23日 マダガスカルを臨む地点で起床、午前10時、陸から500mのマジュンガ沖に停泊。沖から眺めた海岸の姿は、水の中に横たわる巨大なワニを彷彿とさせる。僕らは、新たな失望が広がるのを禁じえなかった。なぜなら、上陸が、午後3時まで禁止されたからさ。  僕らの今の苛立ちを、君には容易に想像さえもできないだろう。25日間と言うもの、僕らは、到着と言うこと以外心に浮かぶものは何もなかったんだ。僕らはとうとうマダガスカルに着いたんだ、なのに上陸できないとは!僕らは、待機のためそこから動けない。で、何を待機しているんだ?
 あ〜あ、君は、馬車から降りるのと同じくらい艦から下船することが簡単だと、考えちゃあいけないよ。
 先ず第一に、<検疫>があるんだ。一人の医師がやってきて、旅客の健康状態についてお決まりの確認をして、ぼくらに行動の自由を与えるまで、船と陸との間では一切の行き来ができないんだ。が、それはたいしたことじゃない。港湾当局が、上陸のための器材を迅速かつ優先的に僕らによこすべきなんだ。
 と言うのは、港湾当局が僕らに手持ちの船を迅速に提供するようには全く見えなかったためで、そのお陰で僕らの苛立ちの5時間がいかに長く感じられたことか。
 ようやくのことで3時頃、僕は一艘のボートに乗りこみ、すっかり陽に焼かれ手荷物一つ無い状態で45分後に固い大地に着いた。
 僕には、マジュンガは直角をなす二本の通り以外には何もない一村落との印象さ。道の一本は、海と平行に走っている。その道の一端には生活雑貨の店があり、もう一方の端には砲兵隊の駐屯所がある。石造りの家も何軒かあるが、その大半はフランス人のもので、また在外商館の外観をしている。もう一本の道は、そのほぼ半ばで先の道と直角に交わり、その両側には(現地住民の)小屋が建ち並んでいるだけ。士官が食事を摂ることのできる唯一のレストランが、そこにあるんだ。
 この二本の道を除けば、二つの石造りの建築物がある。駐箚官官邸とモスクで、後は小屋が乱雑に建っていて、おそろしく小さな家屋にいろんな民族(races diverses)の黒人たちがひしめいている。  人が(マジュンガと言う)町と呼ぶことにした代物がこれってわけさ。
 後ろの急な台地の上には、前のフヴァ(イメリナ王国ないしメリナ族)の長官や同じ民族(la m仁e nation)の全ての公務員や兵士たちの家屋であるルーヴァ(rova)が建てられている。ルーヴァとは、その中に小屋がたくさんある半ば崩れた長大な方形の壁のことさ。今はそこに病院が、造られている。  砦と同義と思われるマダガスカル語のルーヴァは、防御された囲いを指すんだ。フヴァ人たちは、自分たちが占領したあらゆる地域にルーヴァを造り、奇襲に備えその中に小屋を置く習慣を持っている。ルーヴァは、何時でも町の中で目立ち、普通その町を支配している。
 マジュンガの防御は、ルーヴァから北に800m行ったアヌルンバトゥ岬 (Anorombato)にある塔のような形の古い砦によって完璧さ。そいつは、今はサカラヴァ人歩兵部隊の兵舎として役立っている。  町について書き尽くすには、僕にとってはとっても大事な役割を果たしている<砂の岬>に触れないでいるわけにはゆかないだろう。そいつは、ほとんど島のような砂地の土地で、さっきの生活雑貨の店の前から海に向かって広がり、元あった場所に舟を並べ運び出す注意も気まぐれな動きに委ねられ、浜には海が物体として引き抜いてきた数々の舟がごちゃごちゃに放り出されている。そこには、美しい乱雑さがあるんだ。揚陸たけなわの数日間、それが何だと言うのだろう?太陽は燃え、不幸を埋め合わせるかのように、砂の上の行軍は、股まで埋まり、酷い疲労をもたらすと言うのに。
 町を歩いて僕の印象に最も強く残ることは、住民の多様さだ。町では、夥しい数に細かく編み込んだ髪ですぐそれとわかるサカラヴァのようなほとんど衣服を纏っていない人びとを見かける。その次ぎは、モザンビークから来た黒人や、白いゆったりした上着を纏ったコモロ人や最後が商業を独占しているように思われるぴっしり服を着込んだインド人(Hindous)。インド人とコモロ人は、イスラム教徒だ。僕は、一人のフヴァ人(メリナ族)も見たことがない。
 僕は、いささか驚きの念で、マジュンガの道を、兵士や人夫たちがルフェーブル型馬車を駆りながら雑役を行うさまをじっと見ていた。主にブリキ製のでかい箱から成るこの馬車は、一頭のラバに繋ぐ一本のながえと二つの車輪を備えた低床形式なんだ。ラバは時として、長くて鋭い角をもつゼブ牛に取って代わられることもある。ラバや牛の鼻に通された鉄の輪に結ばれた一本の綱によって、その馬車を導くんだよ。
 でも、夜がやってきた。何らかの住居を確保した友人たちのところに、みんなで折り重なるのさ。僕は運良く身を落ち着けることのできる藁の椅子を見つけだすことができた。なぜなら僕の野営ベッドは、僕の全ての荷物と共に船の上だからさ。一隻の艀だけで上陸した海軍部隊の連中は、それじゃ上陸に時間がかかりすぎることを悟り、行き来の不便な港外停泊地に、夜通しその艀を送りだしたんだ。それがとんでもないことは、君にもわかるよね!
 32度もあるおまけにこんな状態で、良く眠れるわけがないのは、言うも愚かさ。夜明けにうとうとしかけたんだけど、その時隣のモスクのてっぺんから流れるかん高い朗唱で起こされたのさ。「ラ・イラー・イラ・アッラー!」って祈祷者の声だ。アルジェリアを想い起こした。(TAM , s.d. , pp.34-38.)
  筆者としてのランショとタム二人の間にある明白な差異、民間人と軍人、マダガスカル長期滞在経験者とマダガスカル初滞在者、実務人気質と高踏人気質、それらがそれぞれの記述スタイルの違いをもたらしていることは、誰にも否定できない。二人の記述の通底奏音が、人員の上陸と荷物の揚陸の手際の悪さと乱雑さ、そしてそれを引き起こした関係組織や関係人物に対するほとんど生理的に近い怒りにあるだけに、二人の記述スタイルの対比がより一層際だつ。しかしながら、それらの事柄以上に記述スタイルを分け隔てているものは、書き手の向こうに<読者>を想定していない<日記>と書き手の向こうに当初から<読者>を想定している<書簡>、すなわちテクストそれ自体の差異である。先述したようにランショの<日記>も、人物や事物を明確に断定してゆくその強烈な自己言及性に読む者を絡め取る時、<読者>を<あちらに居ること>の世界へと確実に誘う。それに対し、タムの文章は、マダガスカルのこと一切を想像だにできないフランスに居る友人に対し、<今自分がここにあること>の世界を丁寧に説明することから立ち上がっている。そのことは、マジュンガの町の景観とそこに住む人びとの簡潔ではあるものの要を得た描写はもちろんのこと、上陸や揚陸の不手際と混乱が具体的にどのようなものでありそれが実際にどのような不都合を自分や兵士たちに及ぼしているのかの描写に、はっきりと表れている。ランショの<日記>における上陸や揚陸の不手際と混乱に対し文章上に記述される感情が怒りそのものであるのに対し、タムの<書簡>におけるそれはむしろ皮肉と呼びうる性質のものである。しかしながら、不手際と混乱の責任者を名指しし糾弾することのないタムの記述の中に、<読者>はランショと同じ質と量の怒りが流れていることを容易に認めるだろう。もしかすると、誰彼を名指しすることのない高踏的記述スタイルの裏に潜むタムの怒りは、ランショのそれ以上に、冒頭のラベアリヴェルが描くマラリアと行軍と戦闘によって疲労困憊しそれでも歩き続けなければならないフランス人兵士のごとくに<今自分がここにこうしてあること>の理不尽さをもたらした何者かに対し、鋭く向けられてさえいるのかもしれない。
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