I I 章 1895年戦記の史料と著者

  私が入手することのできた1895年の第二次フランス−イメリナ戦争に直接従軍した人間が書き記した史料は下記の通りであり、それぞれの著者の作戦時における派遣軍内部の立場および史料としての特徴について解説する。なお、イメリナ王国軍側従軍者が書き記した公刊史料は少なく、Rajestera , 1895.La Conquête de Madagascar.(ラジェステーラ『1895年マダガスカルの征服戦争』) , 1928. M士oires de l'Académie Malgache , Tananarive:Imprimerie de l'Imerina 一冊が有名であるが、入手することができなかった。したがって本論文における史料提示は、専らフランス軍側からこの戦争を凝視あるいは回顧した書籍等に基づいて行われることになるが、それは利用可能な史料と言う制約に起因するものである。また、序論において述べた通り本論の目的は、1895年第二次フランス−イメリナ戦争について書かれた戦記を基に「戦記という旅の表象」の特質について考察することであり、この戦争の歴史的再構成あるいは再解釈を行うものではない点からも、上記の史料的制約は立論の展開を妨げるものではない。
1.)Andriamena(偽名) , 1904 (派遣軍アルジェリア人連隊 士官?)
                総頁147ページ
"Souvenirs d'un soldat d'avant-garde (1895)" , Revue de Madagascar , no.1 et 2
「一前線兵士回顧録」 『マダガスカル雑誌』1904年出版
 アンドゥリアメーナとは<赤い貴族>を意味するマダガスカル語であるが、筆者がメッツィンゼール将軍指揮下の派遣軍第一陣、レントゥーヌ少佐を指揮官とするアルジェリア人連隊第2大隊に属するフランス軍人であることは疑いない。このような偽名を用いたことについて筆者自身による説明は、本文中に見られない。アンドゥリアメーナの本には、フランス軍首脳部の作戦遂行に関して批判的な箇所、あるいはマダガスカル人に対して共感的な記述が散見され、そのことが偽名を選択させた理由とも推測される。恐らく従軍中につけていた日誌ないしノートの資料を基に書き起こされ、戦争からさほど隔たっていない1904年に出版された本である。偽名を用いるだけあり著者の所属部隊や階級を明らかにする記述を慎重に残していないが、それゆえ派遣軍前線兵士の戦闘はもちろんのこと、戦闘以外の具体的な行動や心情を記録した歴史的史料としての価値は高い。
2.)A.d'Anthouardt et A.Ranchot , 1930 (在マダガスカル弁理公使)
総頁258ページ
L'Expédition de Madagascar en 1895:opérations préliminaires,D'aprés le jouranal de M.D'Anthouard résident à Madagascar , La Prise de Tananarive , La Soumission du Gouvernement Malgache D'aprés le journal de M.Ranchot , Paris:Société d'Éditions Géographiques,Maritimes et Coloniales
「一前線兵士回顧録」 『マダガスカル雑誌』1904年出版
『1895年 マダガスカル派遣軍記:前哨的作戦・マダガスカル弁理公使ダントゥアール氏の日記から、タナナリヴの占領とマダガスカル政府の降伏・ランショ氏の日記から』
1930年出版
 A.ランショ(A.Ranchot)は、9年間のマダガスカル滞在経験を持ち、フランス外務省によって最後の在マダガスカル・フランス総弁理公使代理に任命され、併せて1894年10月26日最後通牒提出後のアンタナナリヴからマジュンガまでのフランス人の退去避難行動を差配した人物である。1895年3月28日付けでランショは、マダガスカルについての豊富な知見をかわれ、フランス外務省からいわば顧問ないし参与として派遣軍総司令官ドゥシェーヌに対し様々な助言を与えるために再度派遣された。したがってランショは、派遣軍部隊と行動を共にしたものの、軍人ではなく民間人である。しかしながら、リヨンからアンタナナリヴ占領までを派遣軍と共に歩んだランショの残した従軍日記は、軍人の著した記録に劣らず詳細かつ具体的である。1897年にランショが急逝したため、ここに出版された日記は、1930年の出版ではあるものの、後からの加筆や修正や編集が加えられていない原文もしくは原文に極めて近いものであるとの推測もあながち誤りではない。逆に出版が遅れたことは、公開を前提としていなかったランショの従軍日記が、派遣軍上層部個々人に対する厳しい評価や批評に満ちていることと無関係ではないであろう。
3.)Eugéne David-Bernard , 1943 (派遣軍アルジェリア人歩兵連隊 下士官?)
                      総頁218ページ La Conqué e de Madagascar , Paris:Bibliothéque de L'Institut Maritime et Colonial
『マダガスカル征服記』 1943年出版
 この本は戦争から48年後に出版されており、第二次フランス−イメリナ王国戦争に直接当事者として係わった人間が執筆し出版した本としては、最も遅いものである。この本の出版が1943年になったことをも含め執筆動機および目的について、著者ベルナールが前書きの中で饒舌に述べている;「<我々の帝国>と呼び続けている全ての領土が、さまざまな外国の軍隊によって占領されている現在の1943年に、この年代記の執筆にとりかかることは、時機を得ないことのように思われるかもしれない。また読者は、著者はもっと早く同様な研究に着手するべきだったと当然考えるだろう。我々はこのような疑問に対し次のように答える。我々の子供たちに対して(しばしばそのことを亡失してしまった子供たちの父親に対しても同様に)、自分たちの国が、世界を発見しそれと同時にその場に理想と正義と自由と進歩を導き入れる仕事を分かち合った人々の中で文明化の先駆者達の最も豊かな苗床の一つであったことを教えるのに、遅すぎたわけではないと。さらに、占有の優先権やぬぐい消すことのできない跡を印したあらゆる種類の犠牲について我々に異議を差し挟むことなどはできないにもかかわらず、我々を羨むこれらの領土に対する我々の権利の存在を今一度明らかにする必要があるならば、フランスが被った厳しい試練から抜けだし勇気と自己犠牲の精神の高みと言うフランスの伝統を受け継ぎさらに遠くまで歩むよう若い世代の人びとに対し、彼らの先輩諸兄が辿った道を示すことも、やはり必要なことである。また、我兵士たちはあらゆる法律を無視して平和をかき乱し財産を破壊したとか、我々の植民地の拡張を、まったく無垢で平和的な人びとの犠牲の上に凶暴な軍事力によってなされた一種の強奪だとか説明する諸々の伝説を、反駁することも不可欠である。我々の植民地時代の輝かしい幾つものエピソードの中からとりわけ素晴らしいものからこの年代記を始めるに際し、本書の目的は、遠い昔のこの土地の発見から征服と平定の時期を経て島の開発までの、インド洋の大島における我々の行動の過程の全てを、明らかにすることである。単なる脇役や利害関係のない見物人としてではなく派遣軍部隊前衛に位置したアフリカ人歩兵部隊兵士として、1895年の重大な作戦に我々も参加したがゆえに、我々の証言が高い価値をもつのは、そのことに伴う我々の軍事的成功および犠牲との関連においてである」(.David-Bernard , 1943 , pp.17-18.)。ドイツ占領下のフランスにおいて増幅された筆者の植民地帝国意識が、前書きにおいて強烈に前面に押し出されている。また筆者の述べる通り、全216ページの内、1895年戦争の記述は77ページから179ページまでのおよそ100ページ、すなわち半分にすぎない。しかしながら、1895年の戦争において常に前衛ないし激戦箇所に配置投入されたアフリカ人連隊、すなわちアルジェリア人歩兵部隊に、恐らく下級士官ないし下士官として従軍していたフランス人筆者による個別の戦闘や出来事の記述は、それまでに出版された二次資料を多く用いながらも、その時々の前線兵士の視点や感情を尚よく保ちまた伝えている。
4.)H.Galli , 1896 総頁960ページ
La Guerre à Madagascar , Histoire Anecdotique des Expéàdition Francises ,
Paris:Garnier
『マダガスカルにおける戦い:フランス軍派遣についての証言に基づく歴史』
1896年出版
 この本の目的について著者自身は、次ぎのように前書きで述べている;「それゆえ我々はここで、植民地政治についての功罪を論ずるつもりはない。我々は、この困難な遠征の行程を記録し、また戦争の原因を語らなければならないのである。我々は、フランス軍がその旗を打ち立てた遠い国のことについて、その地理について、その習慣について、相手の軍事力について、知らしめなければならないのである。我々は、派遣軍の組織について説明しなければならないし、派遣軍を指揮した将軍たちや主要な士官たちの経歴について手短に述べなければならないし、最後にあらゆる勇敢な行為やあらゆる個人の勇気ある行動に注意を向けながらごく些細なエピソードの中に戦争の各作戦行動について語らなければならないのである。今や、小さな英雄たちの武勲にもはや誰も決して目を向けない。過去の数々の大きな戦争における一般兵士や下士官たちの偉業や名前に言及した本がここ数年だけで何冊出版されただろうか。無名の兵士たちは、仮に獲たとしても、ごくささやかな報酬を獲るにすぎないのである。それゆえこの本は、マダガスカル遠征についての詳細で、資料に裏付けられた、証言に基づく(anecdotique)歴史となるであろう」(H.Galli , 1856 , p.2.)。ガリの本には、幾つかの特徴がある。第一に1896年出版のこの本は、戦争終了後最も早い時点で公刊された本である。第二に960ページと言う本の分量は、8)のポワリエの本の二倍以上もあり、他の記録や戦記と比べ群を抜いている。第三に、この本には、地図と共に110葉近い大量の彩色の挿画が掲載されている。ガリの本の挿画は、写真を基に精密なエッチング画として書き起こされた5)のオカールの著作の挿画とは異なり、一部は写真を基にしているものの多くは情景を思い浮かべながら作画されている。しかしながら、フランス軍のみならずイメリナ王国軍の軍装や装備品、両軍兵士の戦闘行動や従軍生活についての細部は正確に描かれており、その面における記録的価値も高い。第四に、ガリ自身も述べるように、この本は、手紙や布告を含む文字資料がふんだんに盛り込まれているだけではなく、従軍した士官から一般兵士までの証言がこの本の構成の機軸となっている。間違いなくこのガリの本は、1895年の第二次フランス−イメリナ王国戦争についての第一級史料である。しかしながら、8)のポワリエの著書の派遣軍各部隊の士官名の中にガリの名前は見あたらず、ガリ自身が派遣軍の中に身を置いていたのか否かは定かではない。
5.)Dr.Édouard Hocquard , 1897 (派遣軍司令部 軍医正)
復刻総頁45ページ 原著総頁156ページ
L'Expéition de Madagascar . Jouranal de Campagne , Paris:Hachette
『マダガスカル遠征記:野戦日記』 1897年出版
 筆者オカールは、衛生班所属ではなくドゥシェーヌ派遣軍指揮官の司令部付き衛生活動課一等軍医正である。日付順に記載がなされているが、その記述は叙景描写や心情描写も入り交じりあまり体系的ではない。しかしそうであるがゆえに、『野戦日記』の副題が示す通り、筆者が従軍中つけていた日記を戦争からさほど日の経っていない時期にそのまま公刊した可能性が高く、事後的解釈や修正が少ない点で貴重な史料である。また、記事には写真を基に書き起こされた精密なエッチング画が豊富に挿入されており、その記録的価値も注目に値する。入手したのは原本ではなく、1990年代にマダガスカル・フィアナランツアの Centre de Foramation Pédagogique で発行された『マダガスカル歴史史料叢書』(Documents Historiques de Madagascar)の39−40巻として再版されたものである。ただし、再版収録されたのは原著の全巻ではなく、12章の9月14日以降全体の三分の一の記述についてのみである。
6.)Reibell , 1935(派遣軍司令部 士官)総頁205ページ
Le Calvaire de Madagscar:Notes et Souvenirs de 1895 , Paris:Éditions Berger-Levrault
『マダガスカルのカルヴァリオ:1895年のノートと回顧』 1935年出版
 筆者は、派遣軍司令部第3課所属の士官である。その当時のノートを基に執筆されているものの、1935年と言う出版年が示すように、戦争から40年近く経ってから執筆されているため、既に公刊された他の戦記や戦史を参照したと思われる箇所が多く、一次資料と二次資料それぞれの部分の判別や区分けの困難な史料である。7)のミレポワ同様、当時の日記ないしノートの資料に士官の立場からの事後的な軍事的分析や評価を加えた記述スタイルをとる。筆者はマジュンガにおける逗留が長く、西北部地方の記述が他の史料よりも幾分か詳細である点に他の史料と異なる特徴がある。
7.)Mirepoix , 1898 (派遣軍第6歩兵大隊 少佐)総頁173ページ
Étude sur L'Expédition de Madagascar en 1895, Paris:Imprimerie et Librairie
Centrales de Chemins de Fer
『1895年のマダガスカル遠征についての考察』 1898年出版
 著者のミレポワは、8)のポワリエの本によれば、派遣軍歩兵第1旅団副官陸軍大学校卒の大尉である(J.Poirier , s.d. , p.105)。173頁、地図1葉のどちらかと言えば第二次フランス−イメリナ戦争について書かれた本の中では小冊子にあたるこの本の性格は、その章立てと章の題名に端的に示されている。下記が、その章と題名である。
 
第一部
準備
  1. 戦争の原因−予備的考察−予算の可決
  2. 派遣軍−司令部と各部隊−    各課
  3. 糧秣係と衛生課
  4. 補助運搬者と補助労働者−その徴募−その組織−
  5. 進路の選択−海港基地−マジュンガの埠頭
  6. 陸上輸送
  7. 河川輸送
第二部
実戦
  1. 作戦計画
  2. 作戦行動についての概略報告
  3. 戦術上の諸注意−衛生状態−損害
 すなわちこの本は、派遣軍の将官自らが、第二次フランス−イメリナ戦争が終了後すぐに作戦全般の軍事的解説と評価や分析をとりわけ補給や兵站部門を中心に行ったものである。著者が、陸軍大学校卒であったことおよび司令部要員であったことが、この本のこのような分析的記述内容を決定している。作戦概要報告書、戦記、従軍日誌、従軍レポートなどとは、記述の目的と対象、したがって記述のスタイルも異なる本である。
8.)Jules Poirier , 出版年不詳 総頁435ページ
Conquête de Madagascar(1895-1896), Paris:Henri Charles-Lavauzelle
『1895年から1896年 マダガスカル征服記』出版年不詳
 このポワリエの著書は、総頁435ページに及ぶ大著でありなおかつその317ページまでが第二次フランス−イメリナ王国戦争の記述に充てられているにもかかわらず、ライニライアリヴニの兵制改革以降のイメリナ王国軍の実態から1895年の第二次フランス−イメリナ王国戦争からマダガスカル各地におけるフランス軍による<平定作戦>、そして第一次世界大戦におけるマダガスカル人部隊の形成から足跡までを軍事史的に詳細に追ったC.ヴァレンスキーの著書『隠蔽された兵士:フランス軍の中のマダガスカル人1884−1920』1995年の参考文献の中に、ポワリエの名前およびこの著書は見あたらない(C.Vlensky , 1995 , pp.422-433)。ポワリエは、献辞において「私はこれからの頁を、征服者たるドゥシェーヌ将軍、ヴォイロン将軍、メッツィンゼール将軍に、平定者たるガリエニ将軍に、マダガスカル派遣軍の勇敢な士官と兵士たちに捧ぐ。この本の全ての読者の心の中に、祖国への愛を高め、マダガスカル征服によってフランスの栄光の冠にさらに花を添えたこの軍隊への敬意を不動なものとすることができるよう」(J.Poirier , 出版年不詳 , p.5)と書いているが、著者自身が1895年派遣軍もしくは1896年からの平定軍の中に身を置いていたのか否かについて、確証することのできる記述はない。また45ページにドゥシェーヌ将軍の手による『マダガスカルへの派遣軍報告書』を始め13点の参照文献が挙げられている(ibid. , p.45)ことおよび軍出版社(Éditeur militaire)から刊行されている点を考え合わせると、派遣軍や平定軍に従事した経験を持たないフランス軍関係者が、資料を基に二次的にまとめたしかしながら公式的な性格を持つ外部向けの作戦報告書ないし戦記や戦史である可能性も否定できない。そのため仮に二次資料であったとしても、フランス派遣軍の作戦行動の概要を最も包括的かつ具体的また簡潔に記述している本であり、参照文献としての有用性は極めて高い。
9.) Capitaine TAM , 出版年不詳 (派遣軍第200内地連隊 大尉)
           総頁223ページ
A Madagascar:Carnet de campagne d'un Officier.
Paris:Société Francise d'Édition d'Art.
タム大尉『マダガスカルにて:一士官の野戦帖』出版年不詳
 第200内地連隊に所属する大尉が、フランスに在住する友人に宛て従軍中に書き送った書簡をまとめた上、第二次フランス−イメリナ戦争に至る歴史的経緯およびマダガスカルの自然・人文社会的背景を書き加えた本である。書簡集と言うこの本のスタイルがもたらす情報の性質は5)のウーコーの『マダガスカル遠征記:野戦日記』と近似する点が多く、その時々の現場の兵士の感情や視線を追う上では1)のアンドゥリアメーナの著作ないし2)のA.ランショの著作と共に、最も厚い情報を与えてくれる史料である。ただし、8)のポワリエの本の派遣部隊名とその指揮官名を列挙した箇所、とりわけ第200内地連隊指揮官関係者にタム大尉の名前は見あたらない(J.Poirier , s.d. , .pp.105-107.)。タムと言うフランス人の人名として存在の疑わしい名前そのものに照らしても、著者名は偽名の可能性が高い。
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