I 章 マダガスカル1642年〜1895年:第二次フランス−イメリナ戦争前史

   1.<典型的>戦争
  フランス側から見た時、この戦争はその性格において二重に<典型的>であった。先ず第一に、戦争とは何かである。クラウゼヴィッツの『戦争論』中の著名な戦争の定義「戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない」(クラウゼヴィッツ,1968,p.14)、「戦争は一種の強力行為であり、その旨とするところは相手に我が方の意志を強要するにある」(op.cit.,p.29)に対し、この戦争は模範解答そのものであった。なぜならこの戦争は、直接的には1883年から1885年にかけての第一次フランス−イメリナ戦争集結直後に締結された条約案文に基づく「マダガスカルはフランスの保護領」であるか否かとの解釈をめぐる10年間の外交交渉の末に、フランス側が保護領化実現の意志をマダガスカル側すなわちイメリナ王国に強要するものに他ならなかったからである(M.エスアベルマンドルウス,1988,pp.328-331)。第二に、帝国主義ないし植民地帝国とは何かである。レーニンの『帝国主義』中のこれも著名な定義「もし帝国主義のできるだけ簡単な定義をあたえることが必要だとすれば、帝国主義とは資本主義の独占的段階であるというべきであろう。この定義はもっとも主要なものをふくんでいるであろう。なぜなら・・・中略・・・他方において、世界の分割とは、まだどの資本主義的強国によっても占領されていない領域のうえになんらの障害もなく拡張せられる植民政策から、徹底的に分割されつくした地球上の領土の独占的領有という植民政策への移行だからである」(レーニン,1986,p.145)に対し、この戦争はここでも模範解答そのものであった。なぜなら、フランスがマダガスカル領有化の国家意志を初めて示したのが17世紀であり(X.ヤコノ,1998,p.16,p.23,p.29)、19世紀に入りイギリスとのインド洋と東部アフリカにおける分割競争の中で再度その意志を継承し完遂させた、いわばこの戦争はマダガスカルの土地をめぐるフランスの200年間に渡る独占的領有意志の総仕上げであったからである(op.cit.,1998,p.59,p.64)。クラウゼヴィッツの戦争の定義やレーニンの帝国主義の定義が現在なお有効でありうるかどうかは、さし当たり問題ではない。1830年頃今見る原稿が完成されたとされる『戦争論』、1916年に書かれたとされる『帝国主義』、その間で戦われた第二次フランス−イメリナ戦争は、これら同時代性を共有する書物が切り取った戦争や帝国主義の特徴に対しおあつらえ向きの凡例を与えていたことこそが、重要なのである。それゆえフランス側から見た時、第二次フランス−イメリナ戦争の原因・目的・結果に、曖昧な箇所は微塵もなかった。
   2.フランスとイギリスのマダガスカル進出の歴史
  フランスのマダガスカル領有化と戦争に至る歴史的経緯は、次ぎの通りである。
 マダガスカルに対するフランスの領土的進出と権益の主張は、1642年に島の南東部にリシュリュー枢機卿(Richelieu)の勅許を得たリゴー艦長(Rigault)が<東インド会社>(Compagnie des Indes orientales)を設立、さらに翌年同地にフォー・ドーファン(Fort-Dauphin)と名付けた基地を建設したことに遡る。この企ては、基地のフランス人とマダガスカル人社会との軋轢や抗争、フランス本国における政治状況の推移などにより、1674年に駐在員と駐屯部隊が完全撤収したことによって終了した。しかしながら、1686年に国務院がマダガスカルの併合を一方的に宣言したことに見られるように、この失敗に終わった17世紀の国家的事業による進出が、これ以降フランスのマダガスカルに対する領土的野心と権益主張の基盤を形成することとなった(H.Deschamps,1972,pp.67-76.,X.ヤコノ,1998,pp.16-29)。フランスが沿岸交易の枠を超え、再びマダガスカルに領土的に進出するのは、19世紀である。それまでフランスは、17世紀後半以降1638年のブルボン島(Ile de Bourbon 後のレユニオン)続いて1715年のフランス島(Ile de France 後のモーリシャス)の二島を領有化し、1674年のインドにおけるポンディッシェリ(Pondichéry)基地の建設と1688年の正式領有化と併せて、インド洋における交易や植民等の活動拠点を徐々に築きあげていった(A. Toussaint,1972,pp.29-52)。ところがフランスは、マダガスカルにおける拠点造りに失敗した後、ナポレオン戦争に敗北した結果、1814年のパリ条約に基づくイギリスへの割譲によってさらにフランス島をも失った(ibid.,pp.144-154)。
 これに対し同じパリ条約によってモーリシャス島(フランス島)を新たに手にいれたイギリスは、すぐさま総督を派遣し、モーリシャス総督R.ファーカー(Sir Robert Farquhar)を通じて、当時マダガスカル全島の三分の二を軍事的また一部は政治的支配下におさめつつあったイメリナ王国王ラダマI世(Radama)との間で、安定的な国交を樹立するための外交交渉を開始した。1817年イギリスとイメリナ王国との間で友好−通商条約が締結され、その条文の中では島外との奴隷交易を禁止する見返りとして王は金貨や銀貨および銃・銃弾・弾薬・軍服など軍備をも毎年供与されること、さらにラダマI世を<マダガスカル王>と認めることが、明記された(M.Brown,1978,pp.134-143)。イギリスとイメリナ王国との間に正式な国交が開かれその改訂がなされた1820年から、モーリシャス総督とイメリナ国王双方の後援を受けたロンドン宣教協会(L.M.S.)が、王都アンタナナリヴを中心に自らが制定したマダガスカル語のアルファベット表記化を活用し布教・教育活動を展開すると共に、建築家・鍛冶師・なめし革師・織工・活字工・煉瓦職人・メッキ工などの技術者を派遣し、技術面と文化面の双方において大きな革新と移転を王国にもたらした(ibid.,pp.152-163)。しかしながら1828年のラダマI世の死後、その地位を継承した妻のラナヴァルナI世女王(Ranavalona)は、急速な西欧化やキリスト教化によって生じた社会や伝統の変化に反発する為政者内部における守旧派の台頭と共に、洗礼・改宗や宗教教育の禁止あるいはマダガスカル人信者の迫害などの反キリスト教的政策を次第に強めていった。退去命令こそ発令されなかったものの布教活動ができなくなったため、1836年に外国人宣教師たちは国外退去した。イメリナ王国とイギリスを始めとする外国との関係も、タマタヴなど王国側が指定した幾つかの沿岸地域における交易に限定される状態に後戻りした。外国との関係を断絶する意図をイメリナ王国の支配者層が持っていたわけではなかったにせよ、このような半鎖国状態は、ラナヴァルナI世が亡くなり、その息子がラダマII世として即位した1861年まで続いた。ラダマII世が各港における関税の支払いに基づく自由な交易を再開し、宗教の自由を認めると共に、一度本国やモーリシャスに撤退していたロンドン宣教協会はイメリナ王国への布教を再開し、同時にフランス側もイエズス会宣教団を送り込みカトリックの布教を始めた。ラダマII世の性急にすぎた外国に対する門戸開放といささか思慮分別に欠けた西欧化や西欧びいきの行動は、ラナヴァルナI世時代から王制を支えてきた平民出身の宰相一族の反発と不安を招き、1863年にラダマII世は彼らによって暗殺された(H.Deschamps ,1972,pp.162-171., M.Brown,1978,pp.167-188)。けれどもこのような事件といえども、イギリスをはじめとする諸外国との外交・貿易関係、国内ではキリスト教化と西欧技術や文化の導入、およびそれによって生じる社会や生活の変化を、もはや押しとどめることはできなかった。
   3.19世紀フランスの領土的権益をめぐる主張と行動
  マダガスカル島内で支配的な地位を占めるに至ったイメリナ王国との関係において友好−通商条約を締結したイギリスに対し出遅れたフランスは、イメリナ王国の宗主権外にあったマダガスカル周辺の島々を足がかりに王国の支配権に対し事ある毎に異議を唱え時には否認し、一貫して自国のマダガスカルにおける勢力と領土的権益の拡大を図った。1807年、フランス島(後のモーリシャス)の長官によって、フランス人のシルヴァン・ルー(Sylvain Roux)が貿易代理人の肩書きで南西部のサン・オーギュスティン(Saint-Augustin)と並ぶ当時のマダガスカルの交易拠点であった東海岸の港町タマタヴ(Tamatave)の長に任命された。ルーは、1750年に土地の <女王>から譲渡されフランス・インド会社が一旦は占有したものの、現地住民の反乱やフランス革命の混乱によって占有と放棄を繰り返していた東海岸にあるサン・マリー島(Sainte-Marie)を、1821年に再び占拠し、フランスの領有を確定した。このサン・マリー島の長官は、ブルボン島(後のレユニオン)総督の権限の下に置かれた(R.Decary,1937,pp.5-45)。一方西海岸では、ラナヴァルナの派遣したイメリナ王国軍の追撃を受けた西海岸一帯に広がっていたサカラヴァ王国群の王たちの一部は、北西海岸にあるヌシ・ベ(Nosy Be)、ヌシ・ミツィウ(Nosy Mitsio)、ヌシ・ファーリ(Nosy Faly)などの島々に逃げ込み、そこから自分たちの領土をフランスの保護下に置いてもらいたい旨の手紙を、レユニオン島のフランス当局に宛て送った。これを受け1841年、レユニオン島の総督は、サカラヴァ王国の王たちとの間で条約を交わし、これらの島をその要求通り保護下に置いた(R.Decary,1960,pp.13-26)。
 フランスとイメリナ王国との最初の抗争は、ラダマI世死去直後の1829年に生じた。この時フランスは、時の政権が威信を高揚させるために、<親英派>のラダマI世の死とそれに伴うイギリスとの友好−通商条約の破棄の間隙を狙って東海岸における領土的権益を拡大するために、サン・マリー島の対岸のマダガスカル本島にあるティティング湾(Tintingue)とタマタヴの町を艦艇から砲撃し、これを占拠した。この侵攻は、イメリナ王国側の防戦およびフランスで生じた七月革命によって、領土的権益の拡大と言う当初の目的を達成することができず失敗に終わった(M.Brown,op.cit.,pp.170-171 , P.M.Mutibwa and F.V.Esoavelomandroso,1989,pp.423-424)。さらに、1845年には、同年に布告された外国人に対してもマダガスカル人と同じようにイメリナ国内法が適用されるとの条文を問題視したタマタヴ在住の外国人商人たちからの訴えを取りあげたレユニオンとモーリシャスの当局が、本国政府からの指示なしに、フランス−イギリス連合艦隊を派遣し、タマタヴを砲撃した上占領を企てた。この時も、イメリナ王国守備隊の反撃を受け、フランス−イギリス連合軍は20余りの屍体を遺棄し撤退した(M.Brown,op.cit.,p181., P.M.Mtibwa and F.V.Eosavelomandroso, op.cit.,pp.426-427)。
 1855年、フランス国籍を持ちモーリシャスの貿易商兼農園主であったランベール(Lambert)が、南東部のフォー・ドーファンで現地住民の反乱に遭い窮地に陥っていたイメリナ王国の守備隊に対し糧食を提供した功を認められ、アンタナナリヴに上り、ラナヴァルナI世女王に拝謁した。ランベールは、後にラダマII世として即位することになる当時のラクトゥ・ラダマ(Rakoto Radama)皇太子と知己を得、皇太子を通してマダガスカルにおける鉱物資源および農産物資源開発利権の特許状を入手した。この時、皇太子はマダガスカル本島のフランス保護領化をも求めたと言われるが、クリミア戦争に忙殺されていたナポレオンIII世と政府は、フランスとイギリスとの同盟に反することにしかならないこの政策を却下した。1857年、ランベールはラナヴァルナI世を退位させその後に親西欧的な皇太子のラクトゥ・ラダマを王位につける宮廷内クーデターを計画したものの事は事前に露見し、ランベールはマダガスカルから追放された。このクーデター計画は、マダガスカル国内のみならず、ヨーロッパにおいてもフランスによるマダガスカル侵略の意図として受け取められた(ibid.,pp.429-430)。
 1861年、ラダマII世として即位したラクトゥ・ラダマは、先のクーデター計画に連座して島外追放されたランベールを呼び戻し、ランベールをイギリスとフランスへ外交使節として派遣して、自分を<マダガスカル王>として承認するかどうかの意向を打診させた。イギリスもフランスも、ラダマII世を<マダガスカル王>として承認することに同意を与えた上、親善使節および領事を派遣した。フランスはナポレオンIII世からラダマII世に宛てた手紙を送り、その中でマダガスカルにおける古くからの自国の様々な利権について漠然と言及したものの、ラダマII世の宗主権を認めることを明らかにした。さらにフランスは、アンタナナナリヴ駐在領事を通じて、島を占領する意図のないことおよび特定の利権を巡りイギリスと競争する意志の無いことを表明した(ibid.,pp.430-431)。
 その一方、1862年、ラダマII世は、1855年にランベールに与えられた鉱物資源と農産資源開発利権の特許状を裁可し、さらにモーリシャス出身でイギリス国籍のコールドウェル(Caldwell)に対しても、島北東部にあるヴヘマール地方(Vohemar)についての譲渡状を発行した。また同年、フランス国の代理人コモドール・デュプレ(Commodore Dupré)は、ラダマII世に、マダガスカル島内の幾つかの地方に対するフランスの権利を承認する旨の秘密協定に署名させた。この秘密協定署名が発覚するや、フランス政府は関知せずとの態度を表明したものの、王の閣僚達は無差別に外国や外国人との書類に署名しているかに思われた王に対する不信感を募らせた(ibid.,pp.431-432)。
 1863年のラダマII世暗殺の後、その妻がイメリナ国女王ラスヘリナ(Rasoherina)として即位した。しかしながら王国の実権はもはや女王にではなく、平民出身の宰相一族の掌中にあった。とりわけ、1864年からイメリナ王国政府宰相と軍最高司令官の地位に就いたライニライアリヴニ(Rainilaiarivony)は、時々の女王と結婚を繰り返し、1895年の戦争までイメリナ王国とマダガスカルの運命を支配する政策上の頂点に立ち続けることになった。ラスヘリナ女王政府は、まず国家の独立を危険にさらす恐れのあるランベールとコールドウェルに対し発行された特許状を、破棄した。新政府は、レユニオンのフランス当局とモーリシャスのイギリス当局に対して書簡を送り、王の暗殺から新政府樹立までの一連の経緯および新政府の政策の骨子の説明を行った。さらに、1863年新政策を明らかにし1862年にラダマII世との間で結ばれた条約の改訂を図るために、政府はイギリスとフランス本国に使節団を派遣した。イギリス政府側の対応は概ね好意的であり、コールドウェルに与えられた特許状の破棄をも受け入れた新条約が、1865年にアンタナナリヴで調印された(ibid.,pp.433-434)。
 一方フランス政府側は、ラダマII世の暗殺そのものを、ロンドン宣教協会の差し金によって引き起こされたものではないかと疑っていた。そのためフランス政府は、条約およびランベールに対して与えられた特許状双方の破棄の承認を頑なに拒むこととなった。さらに、ランベール特許状は、ナポレオンIII世皇帝自身の援助のもとに現実に動き始め、租借地開発を目的とした<マダガスカル会社>が既に1863年に設立されていた。それゆえ1862年条約と特許状の破棄は大きな経済的損失を被ることを意味し、1863年、フランス政府はそれよりもイメリナ王国との外交関係を断絶する道を選択した。パリでは、ランベール特許状の履行のためにマダガスカルに軍事侵攻すべしとの声が強まった。しかし1859年からベトナムなどインドシナの侵略を開始し、さらには1862年から外債を停止したメキシコに対しイギリス・スペインと共に軍事干渉を行っていたフランス政府は軍事侵攻論を抑え、イメリナ王国政府に対して120万フランの賠償金の支払いを条件に、条約の改訂と特許状の破棄を提案した。1866年、イメリナ王国政府はこの賠償金を支払い、フランスとの間での新条約締結に向けての交渉を開始した。その交渉の過程でフランス側は、フランス国籍所有者にはマダガスカルにおける土地所有を認めるとの案文を強引に条約に盛り込もうとしたものの、既に新条約を締結していたイギリスの同意を得ることはできなかった。紆余曲折のやり取りの末、新イギリス−マダガスカル条約とほぼ同じように外国人がマダガスカルで土地を買ったり所有したりする権利は最恵国待遇条項およびイメリナ王国の土地法によって保証されると明記された新フランス−マダガスカル条約が、1868年アンタナナリヴで署名された。この条約改定に至る一連のフランス政府の対応は、イメリナ王国政府関係者に対しイギリスが友好的かつ控え目であるのに比べ、フランスは非友好的なばかりか敵対的であり、マダガスカルを侵略する意図を持っているのではないかとの強い印象を植え付けることとなった(ibid., pp.434-436., M.Brown,1978,pp.202-204.)。
 1869年、時のイメリナ女王ラナヴァルナII世とその夫であり宰相のライニライアリヴニ、イメリナ王国の最高権力者の二人が、プロテスタントに改宗した。その改宗の背景には、イメリナ王国支配者層内部におけるロンドン宣教協会派改宗者たちの勢力とロンドン宣教協会の後見力の拡大を抑止しようとする宰相の政治的意図があったが、それでもこの改宗は、キリスト教のイメリナ王国への浸透、なかんずくプロテスタントの支配者層への浸透の大きさを物語っていた。しかしながら、新フランス−マダガスカル条約締結直後に生じたこの改宗は、フランス側には、イメリナ王国支配者層のイギリスへの肩入れおよびフランス文化とフランスの影響に対する拒絶の示威行動として解釈された(ibid.,pp.436-437)。
   4.マダガスカル領有化への道程
  1871年、プロシアとの戦争に敗北したフランスは、それからのおよそ10年間、国力を蓄えながら内観の時を過ごしたものの、「1870年から1900年。これはフランス帝国主義がもっとも昂揚した時期である。この間に、植民地の拡張を支持する潮流が反対勢力を決定的に凌駕し、30年におよぶ激動の歴史を経て、全体で1100万平方キロメートルの領土と、4000万の人口を抱えるまでになった」(X.ヤコノ,1998,p.97)と指摘される時期、マダガスカルは再び、広大な消費市場、未知の富の地、イギリスが渇望してやまない島として喧伝され、フランスの帝国主義的野望の関心を集めることとなった。マダガスカルに対するフランスの新たな領土的野心は、レユニオン島選出のフランス人国会議員たちによって計画的に唱和され、右派カトリック・グループによって推進され、フランス本国の植民地主義者たちによって支持されることによって、胚胎し増幅した。レユニオン島選出国会議員の院外団は、レユニオン島内のクレオールの過剰人口をマダガスカルへ移住させ、またイギリスが開発を狙っていると思われた鉱産資源や農産資源をわがものとすることができるよう、マダガスカル島全体の完全征服を要求した。一方、イメリナ王国における布教においてロンドン宣教協会の活動に対して大きく出遅れたカトリックの宣教師たちは、フランス政府による政治の後押しを要請した。また、進出著しいイギリスやアメリカの商人たちを出し抜き、マダガスカル市場の制覇をもくろむフランスの一部実業家たちによっても、院外団や宣教師たちの要求は支持された(M.エスアベルマンドルウス,1988,pp.325-326)。
 カトリックの議員団と植民地主義を進める院外団の支援を受けたレユニオン島選出の国会議員たちは、1882年、フランス政府をマダガスカルに対する軍事行動へと踏み切らせるために次の三つの口実を用意した。
 1878年、ラナヴァルナI世に召し抱えられ大砲・銃器・弾薬・煉瓦・石鹸などをマダガスカルの工場で生産すると共に貿易商も兼ねてイメリナ王国の政治にも深くかかわることとなり、ラダマII世の即位時にはフランス領事をも勤めた、フランス人のジャン・ラボルドゥ(Jean Laborde)が、不動産を残してアンタナナリヴで死去した。そのため、パリに在住していたラボルドゥの甥たちが、1868年の新条約に基づいてその遺産の相続を請求したものの、イメリナ王国政府側は、「全ての土地は女王に帰属する」と言う土地に関する国内法を根拠にこれを拒絶した。すなわち、外国人による土地の用益権はその生存中に限り認めるが、当該人の死後その用益した土地は女王に返還されると言うのが、イメリナ王国側の条約案文および国内法に照らした解釈であった。しかしながら遺産相続が認められるか否かは、その当時マダガスカルに多数居住していた外国人農園主や商人たちにとっては、自分たちの生活基盤にかかわる切実な問題であった。1881年、この問題をめぐりフランスから代理人が派遣され、その代理人がマダガスカルに到着する直前に、イメリナ王国において『305条法典』が布告された。その法典の第85条においては、マダガスカルの土地を外国人に売却することはできないことが記載されていた。フランス側はこのことを条約の違反と捉え、代理人に対し宰相による25万フランの対価の提供を拒絶させ、45万フランの倍賞の請求を指示した(ibid.,p.327., M.Brown,op.cit., pp.222-223)。
 第二は、1881年に起きたトゥアレ(Toalé)号事件である。既に当時フランスが領有していたコモロ諸島からやって来たダウ船トゥアレ号のアラブ人でフランス臣民の身分を持つ船主およびイスラム教徒の船員たちが、イメリナ王国の宗主権の及ばない島の北西部のマランビツィ(Marambitsy)湾で、サカラバ王国の兵士達によって殺害された事である。銃器の密輸に携わっていたこれらの人びとは、サカラヴァ王国の兵士の臨検を受け船荷の引き渡しを命令されたものの、兵士達に発砲し、逆に4名が射殺されたのである。この時フランス側は、1868年の新条約においてイメリナ王国女王をマダガスカル全島の宗主権者として認めた条項を根拠に、イメリナ王国側に6000フランの賠償金を請求した。イメリナ王国政府は、トゥアレ号の乗組員たちが非合法なサカラヴァ地域への銃器の密輸に携わっていたことおよび先に発砲したことを挙げ、この賠償金請求を拒絶した(M.エスアベルマンドルウス,1988,p.327-327., M.Brown,1978,p223., P.Boiteau,1982,pp.177-179)。
 第三は、イメリナ王国旗の掲揚問題である。1881年、北西部のサンビラヌ地方 (Sambirano)へと宰相ライニライアリヴニによって派遣されたロンドン宣教協会関係者2名が、同地方のサラカラヴァ王国の首長たちに対し、イメリナ王国旗を掲揚するよう求めた。これに対しフランス側は、1840年と1841年にサカラヴァ王国の王たちとの間で締結した保護条約を理由に、イメリナ王国政府に抗議を行った。同地方におけるイメリナ王女王の宗主権の確立と確認を意図していた宰相のライニライアリヴニは、1868年に<マダガスカル女王>とナポレオンIII世との間で結ばれた条約を持ち出し、この抗議をはねつけた(M.エスアベルマンドルウス , op.cit., p.328 , M.Brown , op.cit., pp.224-225)。
 フランス側が、これらの三つの出来事に共通する「イメリナ王国の宗主権」について本気で論議する意図はなく、あくまでもマダガスカル全体の保護領化と言う最終目的に向けた格好の口実を捜しているにすぎないことは、ライニライアリヴニを始めとするイメリナ王国の権力者たちの誰の目にも明らかであった。この<油断のならないフランス>に対抗してイメリナ王国政府は、海外からの銃器・大砲や弾薬の購入調達を強化したが、このことは王国民に対し重い負担を課すこととなった(M.エスアベルマンドルウス , op.cit.,p.328., M.Browin,op.cit. , pp223-225)。
   5.第一次フランス−イメリナ戦争
  1882年3月21日、在アンタナナリヴ・フランス領事は突如外交関係を断絶し、王都を退去した。同年6月、フランスの軍艦が、イメリナ王国の宗主権について係争中の北西部のアンパシンダヴァ湾(Ampasindava)において、特に抵抗も受けずにイメリナ王国旗を引きずり降ろした。このような事態に直面し、宰相ライニライアリヴニはフランスとの戦争を回避するために、1882年10月から1883年8月にかけ、自分の甥である外務大臣を団長とする外交使節団を、ヨーロッパおよびアメリカ合衆国に派遣した。使節団は、係争中のアンパシンダヴァ湾からイメリナ王国旗をおろした上守備隊を引き揚げることに同意し、また外国人に対する長期借地権を受け入れたにもかかわらず、エジプトにおける自由裁量権との引き替えを望むイギリスの後押しを受けたフランスは、一切の合意を拒否した。この間のヨーロッパにおける外交交渉は、マダガスカル外交使節団に、フランスのみならずそれまで友好的と思われたイギリスさえも、小国を犠牲にして自分たちの利益を手にいれることだけに関心があることを知らしめることとなった。
 1883年5月、マダガスカルの外交使節団がまだヨーロッパに留まっている間に、フランス海軍は北西部の港町マジュンガを砲撃し、ここに第一次フランス−イメリナ戦争が勃発した。<戦争>とは言ってもこの第一次フランス−イメリナ戦争は、フランス海軍の小艦隊が島の北西部や東部のイメリナ王国支配下の港湾を砲撃し、最大の港町タマタヴを占領して主要な港湾を封鎖しただけであり、軍事的側面よりも<外交戦>の様相の強いものであった。当初フランスは、南緯16度以北の土地の割譲(1)および島内に居住するフランス人の土地所有権の承認を、ライニライアリヴニに対して求めた。けれどもこの<外交戦>が長引くにつれ、フランスの要求は、マダガスカル全島の保護領化の強制へと変化していった。フランス側が領土要求を突きつけ、イメリナ王国側がそれに抵抗する<外交戦>が果てしなく繰り返され、両国間に厭戦気分が広がり始めた。イメリナ王国側では、港湾封鎖と戦費調達によって経済的危機が生みだされ、それが政治的な不安を増大させていた。一方フランス側でも、1883年からベトナムのトンキン湾へと派兵を行っていたため、マダガスカルに大軍を追加投入してこれを軍事的に制圧し占領すると言う二正面作戦を展開することはほぼ不可能であった。
 1885年12月17日、いずれが勝者か敗者かの決着がつかないまま両国間で条約が締結され、第一次フランス−イメリナ戦争が終結した(M.エスアヴェルマンドルス,op.cit. , pp.328-330)。
 しかしながら、この条約が締結されたまさにその瞬間に、1895年の第二次フランス−イメリナ戦争への道が開かれていた。
   6.<保護領>論争
  停戦条約において明文化された重要な合意事項は、下記の通りである。
  1. フランスは、マダガスカルの外交関係の全てを代行する。
  2. フランスは、ラナヴァルナ女王がマダガスカル全島の君主であり、唯一の土地所有者であることを認める。
  3. マダガスカルは、フランスに1000万フランの賠償金を支払う。
  4. フランス海軍は、ディエゴスアレスを占有する。
  5. フランスは、アンタナナリヴに武装警護兵と共に公使を駐在させる。
  6. フランス国籍を有する人間は、99年間の長期借地権を取得することができる。
 dとeについては付帯条項があり、占有することのできる範域、駐在させることのできる警護兵の人数を定めていたが、締結後の交渉においてフランス側はこれを顧慮することなくふるまい、一方イメリナ王国側はこの条項を根拠にフランス側の領土要求に対して抵抗を試みた。また、多額の賠償金の支払いは、各港における関税収入を担保とした国立パリ割引銀行(CNEP)からの借款として行われたため、イメリナ王国政府は主要な国家財源を奪われてしまった。その財政的歳入不足を埋めるため、イメリナ王国政府は鉱山資源や森林資源の開発権を外国人に与えたものの、それは政府にさしたる収入をもたらさなかった。そのためさらにイメリナ王国政府は王国民に対し、課税および昔から存在した公共労役を強化した。これら一連の措置は、王国民に重い負担を押しつけることとなり、それらから逃亡・逃散した農民達が山賊や強盗団を結成して王国内の治安に深刻な影響を与えるようになった(2)(M.エスアベルマンドルウス,op.cit. , pp.330-332)。
 このような条約を巡る様々な齟齬や軋轢の中でもとりわけ大きな争点を成したのが、aとbの条項それぞれから引き出される、フランス側とイメリナ王国側との解釈の違いであった。当然のことながらイメリナ王国側は、bの条文を王国の独立および主権の確認と解釈した。一方フランス側は、aとbの条項双方を以てマダガスカル全島が条文中にその語は一切存在しない<保護領>であると解釈した。そのからくりは、森山のまとめによれば「メリナ(フヴァ)の君主のマダガスカル全土にたいする主権を承認する。そのうえで、その王国を保護下におく。それはとりもなおさず、マダガスカル全土を保護下におくことではないか。それまでの「フヴァ」という名指しへの執着をすてて、相手の「マダガスカル」という名乗りを承認することで、一転してフランスは全島を手中におさめること」(森山工,2002,p.29)から成っていた。宰相ライニライアリヴニは、ディエゴスアレスの占有範域を含めたこのようなフランスによる<保護領化>を目的としたあらゆる領土要求に抵抗を続けた。しかしながら賠償金の支払いと軍備増強によって王国は経済的に疲弊し、王国政府内では宰相の地位を狙ったクーデター未遂事件が発生し、逃亡農民たちが結成した山賊たちによって治安は悪化、脱走の相次ぐ軍隊は弱体化して、1883年の第一次フランス−イメリナ戦争勃発当時よりも、イメリナ王国は確実にその力を弱めていた(ibid. , pp.332-335)。
 1890年、フランスがイギリスのザンジバルに対する保護領化を認める代わりに、イギリスはフランスによるマダガスカルの保護領化を認める英−仏協定、いわゆる<ザンジバル協定>が締結された。将来的な領土分割の合意がフランスとイギリスの間で成立した時、もはや条文解釈としての<保護領>が問題ではなかった。マダガスカル全島の主権者たる女王を擁するイメリナ王国政府が、現実の保護領化を受諾するか否かであった。1894年1月、フランス議会は政府に対し、フランス国籍の者を保護し、秩序を回復し、またマダガスカルにおけるフランスの<諸権利>を維持するためいかなる手段をも取ることについて完全な承認を与えた。1883年当時とは異なり、今回は世論も議会も、マダガスカルの保護領化を実現する軍事行動を支援していた。同年10月、マダガスカル駐在公使を勤めたこともあるル・ミール・ドゥ・ヴィレェ(Le Myre de Vilers)が、フランス側特使としてマダガスカルに派遣された。ヴィレーは、外交だけではなく内政についての掌握、すなわち実質的植民地化を指し示した新しい草案を宰相ライニライアリヴニたちに提示し、その受け入れを期限を定めて迫った。その最後通牒の返答期限の10月26日、宰相からなんの実質的回答も得られなかったため、翌27日特使ヴィレーは公使公邸のフランス国旗をおろしフランス国籍を持つ者は自分に続くよう命令を発して首都を去り、東海岸に向かった。宣戦布告に等しい行為であった。1894年11月30日、フランス議会は投票の結果、372票対135票(もしくは377票対143票)の大差で、マダガスカルへの派兵とそれにかかわる6500万フランの戦費支出を裁決した(M.エスアベルマンドルウス,pp.331-335., M.Brown,op.cit.,pp.242-243., H.Deschamps,1985,pp.527-528)。
   7.イメリナ王国軍とフランス軍
  18世紀までのイメリナ王国には、マダガスカルの他の王国や住民と同様、常備軍は存在しなかった。戦争の際には、王の命令の下、自由民の農民達が鋤を槍や銃に持ち替えて参集した。そのため稲作の農繁期であると共に道の悪い12月から3月の雨季を避け、戦争はもっぱら乾季に行われた。戦争の性格も奴隷としての人や牛の獲得が目的であり、長期間にわたる占領を含む軍事作戦はその軍隊の組織、戦争の目的から見ても不可能または不必要であった。それでも18世紀イメリナ王国内では、灌漑稲作農業・鍛冶・牧畜・織布などの産業が発展し、その一方王国の統一をめぐる覇権争いの戦闘が激化し、獲得した奴隷数が増えたため、イギリス・フランス・アメリカなどの奴隷商人たちがイメリナ王国を頻繁に訪れ交易を行った結果、かなり大量の欧米製燧石銃が国内に普及し蓄積されていた(Raombana , 1980 , p.129 , p.147 , p.149 , p.187 , p.245. M.Brown , op.cit. , p.129)。
 1817年のイギリス−イメリナ友好・通商条約の締結により、奴隷交易を禁ずる見返りとしてイメリナ国王ラダマI世は、イギリスから毎年、1000個の燧石付き100丁の前装単発燧石銃であるイギリス製マスケット銃、100樽の弾薬、400着の兵卒用軍服、12振りの士官用刀などの提供を受けることになった(M.Brown,op.cit. , p.143)。ラダマI世は、これらの武器およびモーリシャス総督ファーカーから贈られた2門の青銅砲などを活用して、フルアリンダヒ(foloalindahy)すなわち<10万人の男>と名付けられた常備軍を創設した。フルアリンダヒ軍は、富裕な貴族階層の子弟とその従者を中心に構成され、数名のイギリス軍下士官によって西欧的軍事教練を施され、また階級制も導入された結果、その装備と共にマダガスカルの軍事史上初めての近代的軍隊が登場した。ラダマI世は、この職業軍人集団とも言うべきフルアリンダヒ軍を中核とする一般兵士を含めた数万人を率いて、1820年・1821年・1822年の南西部地方、1823年東部地方、1824年の北西部地方、1825年のフォー・ドーファン地方への遠征を矢継ぎ早に行った。個々の戦闘において動員兵員数と装備火器において圧倒的にすぐるフルアリンダヒ軍を中核とするイメリナ王国軍は島内最強であったが、食糧補給や占領地統治政策の点で問題を抱えていたため、感染病や食糧不足による遠征軍の人的損失はしばしば大きくまた被占領地における反乱が頻発した。そうではあったとしても1828年のラダマI世の死までのわずか10年間で、イメリナ王国が1895年当時とほぼ同じ全島の三分の二の地域をその影響下に置くことに成功したことは、近代的武器を大量装備した組織だった常備軍を創設したことの賜物に他ならなかった(P.M.Mutibwa and F.V.Esoavelomandroso , 1989, pp.418-422. , M.Brown , op.cit. , 146-148 ., R.Decary , 1966 , pp.8-27.)。
 1879年、宰相ライニライアリヴニによる一般王国民への徴兵制の導入は、ラダマI世以来のフルアリンダヒ軍の性格と組織を、大きく変えることとなった。これによってイメリナ王国を構成する6つの地方(toko トゥク)一つあたり5000人が徴兵され、王国全体で合計3万人の専従兵士から成る常備軍ができあがった。それまでにもライニライアリヴニは、1877年無制限に設けられていた<副官>に厳格な人数の制限を設けるなどの改革を行い、ラダマI世の建軍以来フルアリンダヒ軍内部で中心を成していた貴族層の勢力を減少させようと図っていた。すなわちこれら一連のライニライアリヴニによる兵制改革の主旨とは、特権的職業軍人を基礎とする近代的常備軍から国民皆兵制を基礎とする近代的国民軍への脱却であった。19世紀後半時点におけるこのライニライアリヴニの兵制改革の主旨そのものは、軍事史の一般的観点からは決して誤りではなかった。しかしながら18歳以上の男性を5年間の兵役に就かせることは、既に貢納や夫役が重い負担となっていた一般王国民に対し(3)さらに過重な労役を強いることであり、兵営で5年間を過ごすわけではなかったにせよ一度遠征や遠隔地の駐屯地に派遣された場合生きて帰ることのできる保証があったわけではないため、徴兵制に対する忌避感が王国民の間で強かったことは当然と言ってよかった。また徴兵制の導入は、それまでフルアリンダヒ軍の中核を占め特権を持っていた貴族層の間で不満を生みだした。1881年に8つの省の中の一つとして5つの部局を持つ陸軍省が設置され、それと共に陸軍大臣も任命された。これにより近代的国民軍を創出する組織体制が見かけ上できあがったものの、1895年の第二次フランス−イメリナ戦争までの14年ないし16年間は、これらの諸問題を解決し、女王と宰相「に忠誠を誓い、国家の財産を尊重し、祖国の独立を守る気概を持っ人々によって正しく指揮されるような訓練の行きとどいた」(M.エスアベルマンドルウス,op.cit.,p.326)内実を備えた近代的国民軍を完成させるためには、十分な時間ではなかった(R.Decary,op.cit.,pp.63-72)。
 1895年の開戦時イメリナ王国軍の総兵員数は、6万名(H.Descahmps,1972,p.228)、45000名(P.Boiteau,op.cit.,p.204)、3万名(A.Clayton,1987,p.79)と資料によってばらつきがあるものの、後述する派遣フランス軍直接戦闘員数の少なくとも2倍、多く見積もれば4倍を擁していた。その火力も、ホッチキス社とクルップ社製の最新野砲36門、アームストロング社とガードナー社とフッドフード社製のやや旧式野砲50門および前装式青銅砲を合わせたおよそ216門から290門の火砲、12000丁のスナイドル社製とレミントン社製の最新連発ライフル銃、6500丁の後装単発ライフルのスナイドル銃、3000丁の前装単発燧石銃、少数の後装単発ライフル銃のシャウスポー銃、さらには当時既に旧式化してはいたものの多銃身のガードナー式機関銃をも少数配備し、かなり強力なものであった(R.Decary,op.cit.,p.85)(4)。しかしながら、このフランス派遣軍に対し兵員数と装備の数字上はさほど遜色のない軍隊には、近代的国民軍として致命的な欠陥が、複数存在した。
  1. 情報を収集して分析し作戦や戦術を立案する情報部局を含めた参謀本部の欠如。そのため1895年の戦争においてイメリナ王国側は、フランス軍の行動に対する対応が遅れ、常に場当たり的な用兵を行うこととなった。
  2. 士官、下士官、兵卒にわたる体系的軍事訓練の欠如。イギリス軍人を招き、砲兵隊についてはある程度の訓練がなされたものの、それ以外の兵は士官も含めて専門的軍事訓練を受けたことがなかった。そのため、近代戦に必要な戦闘や用兵の基本に即した軍事行動をとることができなかった。
  3. 最高軍司令官から末端に至る、指揮命令系統の未確立。そのことは、系統的な情報収集・分析と状況に即応した用兵と行動を行う上で致命的であり、また補給や援軍派遣の障害となった。
  4. 火砲や銃など兵装の統一の欠如。さまざまな時にさまざまな国や会社から購入した火器を装備したため、支給された弾薬の口径が現場のライフル銃の口径に合致しないなどの問題が生じた。さらに、最新のライフル銃でさえ手入れの状態が悪く、マダガスカルの工廠で作られた実包の質の悪さと共に、戦闘現場における作動不良は深刻な問題であった。
  5. イメリナ王国軍フルアリンダヒの大半は女王や宰相自身が属するメリナ族出身者であり、他の民族の人間を信用しなかったため、イメリナ王国軍はマダガスカル国民軍へと転換することができなかった。そのため1895年の戦争は、宰相ライニライアリヴニなどが「マダガスカルの危機」を訴えても、マダガスカルの三分の二の地域を支配するイメリナ王国、より正確にはアンタナナリヴを中心に居住するメリナ族とフランスとの間の戦いと言う性格を乗り越えることができなかった。このことは、保護領としていた島の北西部のサカラヴァ王国の人びとをも、<マダガスカル人部隊>として自国の正規軍の中に編入し動員していたフランス側とは対照的であった。
 そして何よりも、徴兵制によって駆り集められ、昇進や徴兵について不正がはびこり、この期に及んでもなお覇権をめぐり内部抗争を繰り返すイメリナ王国の指導者層を眼前にして何の目的のために戦うのか共通の認識を持たない軍隊が、現実の戦いの中で「夜中に召使いの女性が取り落とした金属製のバケツの音に、兵士達が四方八方へと逃亡してしまった」(M.Brown,op.cit.,p.246)り、「至る所で追いちらされ、フランス軍に向けられた先遣隊は砦を構築したものの、砲撃や包囲攻撃を受けるとたちまち敗走してしまった」(M.エスアベルマンドルウス , op.cit. , p.336)り、あげくは「タナナリヴから3500名の部隊が派遣されサブツィ(Sabotsy アンタナナリヴ北方約10kmにある町の名前)でフランス軍の軽装部隊と会戦した際には、1人の士官の証言によればその場に残っていたのは1000名にすぎなかった」(R.Decary , op.cit , p.87)としても、不思議はなかった。拘束した脱走兵を生きたまま焼き殺すと言う宰相ライニライアリヴニの厳罰さえも、一度このように瓦解を始めた軍隊を押しとどめることはできなかった。
 

砦内のイメリナ王国軍の兵士の挿し絵 H.Gally , La Guerre a Madagascar,1896 , p.185 , 非常呼集のかかった砦内のイメリナ王国軍の兵士の挿し絵 , ibid. p.489 , 塹壕に籠もるイメリナ王国軍の兵士の挿し絵 ,ibid.p.569イメリナ王国軍の砲兵陣地,ibid.,p.929
 
 これに対しフランス側は、マダガスカルについてイメリナ王国軍にかかわる情報はもちろんのこと地理や天候や政情や住民生活まであらゆる事柄をマダガスカルに在住したり派遣した官吏・軍人・探検家・キリスト教関係者などを通して詳細に調べ上げ、軍隊の派遣について周到な準備を持って臨み、それは「パリの関係部局は、もう少しのところで作戦を中止するほどの注意深さをもって遠征計画の準備を進めた」(H.Deschamps , 1972 , p.227)と表現されるほどであった。マジュンガに上陸しアンタナナリヴ攻略作戦を担ったフランス派遣軍の主力部隊の編成は、下記の通りである;
陸軍
アフリカ人連隊  : アルジェリア人歩兵連隊12個中隊
第200内地歩兵連隊:             12個中隊
第40 猟歩兵大隊 :             4個中隊
 
海軍
第13海軍歩兵連隊 :            12個中隊
植民地連隊    :   マダガスカル人大隊 4個中隊
             ハウサ人大隊    4個中隊
             レユニオン志願兵大隊4個中隊
 
砲兵隊
陸軍山岳砲兵中隊
陸軍騎馬砲兵中隊
海軍山岳砲兵中隊

 総兵力15000名(H.Deschamps , 1972 , p.227. , E.Ralaimihoatra , 1976 , p.200)ないし18000名(A.Clayton,1987 , pp.79-80)であり、これにアルジェリア人とソマリア人などの輜重軍夫7000名ないし9000名、騾馬6600頭、5000台のルフェーブル型二輪荷馬車が加わった(J.Razafindranaly , 2000 , pp.81-83)。
 

フランス軍派遣軍各構成部隊を模式的に描いた挿し絵、 ibid.p.129,ルフェーブル型荷馬車の挿し絵、ibid.p.553 , アルジェリア人歩兵連隊兵士の挿し絵 ,Capitaine TAM , A Madagascar, 出版年不詳, p.101
 
 フランス側のこの作戦に臨む態度を最もよく表している事柄が、植民地ないし海外における軍事行動は通常海軍ないし海軍省に帰属するにもかかわらず、陸軍省が陸軍部隊の追加を強く要求した結果行われた、アルジェリアとベトナムにおける作戦従事経験を持つ陸軍のドゥシェーヌ大将の派遣軍総司令官への任命および、フランス本国に駐屯する12の連隊から選抜され編成された12個中隊から成る即製第200内地連隊の存在である(H.Deschamps,1972 , pp.227-229)。すなわち1895年の作戦とは、陸軍と海軍とが共同して行うべき17世紀以来懸案の国家的事業の完成であった。しかし海外作戦とりわけ熱帯地域における作戦行動に不慣れな上寄せ集めの内地連隊は、この後人員の半数をマラリアなどの感染症による戦病死で失い、作戦部隊中最も高い代償を支払うこととなった。
 さらに1895年の第二次フランス−イメリナ戦争を軍事的観点からとらえた時、見落とされてはならない事柄が四つある。第一に、宰相ライニライアリヴニのさまざまな<近代化>への努力にもかかわらずイメリナ王国が立憲君主制にも至らない<文明化の使命>の対象たる<専制的な野蛮国家>であったとしても(M.エスアベルマンドルウス , 1988 , p.326.)、この戦争がフランスとイメリナ王国二国間における1885年の停戦条約の解釈をめぐる外交交渉の延長線上に位置する国家を単位とした正規戦であり、イメリナ王国軍が近代的国民軍の内実を備えていなかったとは言え、それでも両国の正規軍同士による正面戦争であった点である。第二に、ナポレオン戦争からクリミア戦争・南北戦争・フランス−プロシア戦争を経て完成されつつあった近代的軍備と火力から見て、イメリナ王国軍の装備にばらつきが多くまた実際の戦場においては一度も実現しなかったものの、フランス軍とイメリナ王国軍が対峙した時、砲兵部隊と歩兵部隊の攻撃を組み合わせた19世紀末の時点における<近代戦>がそこに展開される可能性が常にあったことである。第三に、総合力において開戦時フランス軍の優位は揺るぎなかったものの、感染症によって派遣軍兵員の三分の一を失ったフランス軍のその後の経緯を鑑みれば、臨機応変な作戦の作成と兵の運用、さらに現場の兵士の士気次第ではイメリナ王国軍にも十分勝機が存在した、すなわちフランス側にとっては<野蛮人相手の約束された勝利>などではなく作戦立案時に予測された<地の利を得た手強い敵軍>に対する危うい勝利であったことも、この戦争の性格と特徴を考える上で忘れてはならない点である。第四に、マジュンガからアンタナナリヴに至る道は人口の希薄な地域がほとんどであり、そのため道筋の特定の町やイメリナ王国軍の駐屯地や砦の奪取を巡っての攻防戦が主たる戦闘として展開され、またイメリナ王国軍も待ち伏せ攻撃や少人数の部隊による遊撃戦を活発には展開しなかったため、地理的あるいは視覚的にも<正規軍同士の正面戦>の様相が顕著であったことである。そのことを端的に表しているのが、近代国民軍に不可欠な軍服と言う統一と識別である。すなわち徴兵で駆り集められたイメリナ王国軍の兵士の多くには正式な軍服の支給が間に合わなかったため、大半の兵士たちが農民と同じ衣裳をまとっていたにもかかわらず、イメリナ王国軍はもとよりフランス軍にとっても、敵と身方そして兵士と民間人が明瞭に識別されていた(5)。なぜならフランス軍がその進軍途中マダガスカル人と出会う時、そのマダガスカル人とは服装に関係なく兵士であり、またそこは戦場と言う場でしかありえなかった空間が、マジュンガからアンタナナリヴまでの600km間の恐らく9割り以上に渡って広がっていたからである。以上よりフランス側から見た時、1895年の戦争はマダガスカルの土地に覇権を持つ主体としてのイメリナ王国を対象とした<征服戦争>(conquête)や<遠征>(expédition)あるいは単に<戦争>(guerre)であったのに対し、1895年10月以降にマダガスカル島各地で行われた軍事行動はフランスが既に覇権を確立した土地の上における国家に非ざる民族や人びとを対象とした<平定戦>(pacification)であり、両者ははっきりと異なる性格の戦闘行為であった。
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