戦記という旅の表象
−1895年マダガスカル・マジュンガからアンタナナリヴへの道−
高知尾 仁 編 『表象としての旅』東洋書林 2004年
pp.147-248 を基に一部改稿
序 章 <著者>の不在と<作者>の間に:アンタナナリヴ陥落の一日
  1. 章 マダガスカル1642年〜1895年:第二次フランス−イメリナ戦争前史
  2. 章 1895年戦争の史料と著者
  3. 章 マジュンガ上陸
  4. 章 マルヴアイ攻防戦
  5. 章 ツァラサウトゥラ遭遇戦
  6. 章 アンタナナリヴへの道
終 章 1895年の前と後に:<著者>の生成と<作者>の終焉
序 章<著者>の不在と<作者>の間に:アンタナナリヴ陥落の一日

  1937年の自死の後マダガスカルあるいはアフリカを代表するフランス語圏作家との評価を与えられることになるJ.ラベアリヴェル(Jean-Joseph Rabearivelo)が、詩作を始める前の1928年頃に書いた実験的歴史小説『干渉』(Interférence)において、未刊であったことに示されるように創作表現としてはおそらく失敗であった、フランス軍の王都アンタナナリヴ(Antananarivo)進駐の一日を次ぎのように描いている。
  一人のフランス軍兵士が、タナナリヴ(Tananarive フランス統治時代の旧アンタナナリヴ Antananarivoの呼び名)の町に入ってきた。その両手は血に汚れ、その大きな耳の片方を負傷していた。兵士は、いかめしかったものの人が良さそうであり、疲れ果てていたもののまだ唄いながら行軍していた。彼の前には、西方に正面を向け血のような太陽をいっぱいに浴びた赤土でできた小さな家々があった。腐るほど豊富な熱帯の自然が、花崗岩の上に細々と育っていた。濡れたサボテン、空に揺れる燃えるようなドラセナ、自分の声のようにあるいは猛々しい角笛のように音楽のような名前やあるいは荒々しい名前をもった植物や木々、その多くは花を咲かすと言うたった一つの願いを持っていた。
 彼の前には、また彼の周りには、昨日の敵が、すなわち自らの祖先を裏切った子孫たる人びとが、涙もなく、叫びもなく、諦め佇んでいた。人びとは、穏やかに、微笑んでさえいた。運命は、決したのである。
 この青い丘(アンタナナリヴの町の古称)の後ろに、遠くに、遥か彼方に、昨日が、過去が、想い出が、ある。そこに、草の間に、二つの岩の間に、茂みのはずれに、深い森の奥に、川の底に・・・。
 フランス軍の兵士は、もはや唄ってはいなかった。兵士は、休むことなく行軍していた。心臓をせわしく打ち鳴らしながら、その顔には、一筋の震える皺が刻まれていた。兵士は行軍を遅らせ、眼を閉じた。兵士には、その場に休んで置き去りにされる自分の姿が束の間浮かんだ。  兵士は休まず行軍を続け、目を開けた。心臓が痛み、その血まで鳴るのがわかった。彼は、熱病に罹っていた。またしても!
 文字通り彼は、戦いたかった。戦うと呼ぶに値するように!彼は、全ての自分の血を流し、英雄として死にたかった。彼は、百回そう思った!砂漠の退屈、森の中の恐ろしい孤独、子供の驚きのはかなさ、そして熱病、そう熱病しか彼は、知らなかった。
 お洒落な育ちの兵士は、歩きながら、ポケットに小さな鏡をまさぐった。幸いに熱は下がり、焼けるような発汗でびしょびしょになったタオルに包まれた鏡を見つけた。彼は覗いた・・・。やつれた顔に一瞬驚いたが、すぐさま怒りが湧いてきた。
 昨日までの敵はそこにいる。が、穏やかで、死に神などではない。フランス軍兵士は、倒れた。
 「休め!」
 彼は、ほどなくして快復した。彼の生来の気質で、自らの権利を再び行使したが、15000名の兵士のために6500万フランを議決した下院にはもはや投票することはなかった。
 彼は、思う。
 「大金なんか使わなくたって、おれたちゃ一人の美しい女性をものにすることができるんだ。買わなくたって、征服しなくたって」
 彼は、歩き続ける。
                      
(J.-J.Rabearivelo , 1988 , pp135-136 原文フランス語)

フランス軍のアンタナナリヴ進駐のエッチング画 Capitaine TAM , A Madagascar, 出版年不詳, p.193
  1895年9月30日。この日派遣フランス軍は、早朝からの戦闘の末、女王の宮殿に白旗が翻り宮廷から派遣された停戦交渉団を受け入れた後、同日夕刻から翌朝にかけてアンタナナリヴの町の中に整然と進駐し、これを占領した。同年1月14日のマダガスカル北西部の港町マジュンガ(Majunga)への上陸から数えて、259日めであった。途中、マラリアと赤痢によって15000名の派遣軍兵員の三分の一を失い、3日間に渡る王都占領の戦闘を遂行し、8kmの行軍と戦闘に一日を費やしながらも、市街地突入部隊は一刻の休息さえ与えられずに同日夕方から、主力部隊も翌朝、標高差100m以上の丘の上に広がったアンタナナリヴの町に進軍し展開した。それゆえ、フランス軍兵士一人一人の容貌は、いささか修辞に彩られながらもこの小説に描かれた一兵卒とさしてかけ離れていなかったにちがいない。行軍と戦闘の疲労、負傷、マラリアの発作、そして望郷と異化。
 しかし、ラベアリヴェルその人は、フランス軍のアンタナナリヴ進駐の一日を幼い記憶の中にすら留めてはいなかった。なぜなら彼は、1895年から6年を過ぎた1901年生まれだからである。したがって、この小説に描写されたフランス軍兵士とそれを取り巻くアンタナナリヴの町の人びとの姿は、母親や祖父母から聞かされたかもしれない物語の断片と事後的資料読解に基づく再構成以外ではありえない。がしかし、この瞬間に、マダガスカル語の<タンターラ>(tantara)すなわち「物語り」のくびきの中から、マダガスカルの表現行為の歴史において、「ひとは、計画と決定の総体によって導かれてはじめて、作者たらんと欲する者が作者なのだ、という唯一のパロールの中でおのれを完成する」(R.バルト 1972 p.201 一部改訳)とバルトが主張する<作者>が立ち上がったことを、私は見てとる。自分が表現したいものは自分の経験を超えて自分の文体において記述することができると言うラベアリヴェルが意図的に引き寄せ担ったこの<作者性>は、同じ1日をアンタナナリヴの宮殿と町の中で立ち会うことになったラベアリヴェルと同じマダガスカル人の「日記」と対比させる時、紛れもない。
  1895年9月30日月曜日、ついにイラフィ(Ilafy アンタナナリヴの北方8km に位置する丘と町の名前)を出発したフランス軍は南進し、ほどなくして、アンブヒデンプナ(Ambohidempona 女王の宮殿から東方2kmに位置する丘の名前 当時、イエズス会が造った天文台があった)に達した。そして、砲弾で宮殿内部に攻撃を加えた。
 午後1時頃、わたしたちはお互いを見かけることがなかった。アンドゥリアマトゥア(Andriamatoa)が、あっちこっちを走りまわっていたためである。わたしは、宮殿の北側で(砲撃のために)亡くなった大勢の人を見に行った。もう一度アンドゥリアマトゥアを探しに行ったが、そこで彼はマスアンドゥル(Masoandro)に向けて大砲を曳いていた。わたしたちは、どうして良いかわからなかった。大砲の音と砲弾の音、そして人びとが逃げ去り宮殿の中が静かになったため、わたしの耳は聞こえなくなっていた。そこで、わたしたちは、休息をとるためにアンブヒミツィンビナ(Ambohimitsimbina)へ行くことにした。わたしが、アンカディタパカ(Ankaditapaka 宮殿のすぐ南にある地区名)に着くと、ラマッカ(Ramaka)とラマルサウナ(Ramarosaona)たちもその南に来ていた。わたしたちは同道し、その南で今度はロベールの弟のラクトゥマンガ(Rakotomanga)とランバトゥサウナ(Rambatosaona)とラバリザウナ(Rabarijaona)それにフェリックス・ラクトゥベ(F四ix Rkotobe)たちと一緒になり、アンブヒミツィンビナにある家へと向かった。そこに着いた時、留まるのか行くのかをめぐりわたしたちは、口論となった。私とラクトゥベは行くことに反対したが、ラクトゥマンガとラマッカはすぐにでも出発したがり、結局わたしたちも彼らと一緒に出かけた。レニクトゥ(Renikoto)が育てていたわたしたちの子供のライヴァウ(Laivao)とラバリザウナを育てていたランバヒ(Rambahy)の夫のランドゥリアンベル(Randriambelo)がわたしたちと同道したが、わたしたちの男性奴隷や副官(1)の姿は見えなかった。
 イタンズンバトゥ(Itanjombato 宮殿の南2kmに位置する町の名前)の南にある湖にわたしたちが着いた時、ラスアマナヌル(Rasoamnanoro)の姉妹のランゼリナ(Ranjelina)が、先に来てそこに留まっていた。とうとう、宮殿内に白旗が遠望され、アンブヒデンプナ辺りの(フランス軍の)大砲が鳴り止んだ。またもやわたしたちは、アンブヒザナカ(Ambohijanaka イタンズンバトゥの町からさらに南に6kmほど離れた町の名前)に行くのかそれとも戻るのかをめぐり口論となった。もう出発してしまったのだからそこまで行くしかないとラバリザウナが、主張した。その結果、わたしたちは出発したが、既に夕方の上誰も道を知らなかったため、わたしたちはヴァラヒナ川(Varahina)に沿って歩いた。しかしながら、夜明け近くなりたいへんに寒かったため、少し眠るためにわたしたちは、イスアムニナ(Isoamonina)東方のマルンビ(Maromby)に立ち寄った。ラマッカは、ファリーヒ(Farihy)のラミアランダライスア(Ramiarandraisoa)の許に立ち寄った。その夜、戦いから戻った兵士たちが、銃を撃ち鳴らしていた。
 火曜日の朝、わたしたちは歩み始め、アンブヒザナカの東の下にあるアンタネティベ(Antanetibe アンブヒザナカの東方約8kmに位置する)の町に到着した。(午前)8時頃であった。わたしたち親子は、皆無事であったことを互いに喜びあった。そして、アンブヒマラーザ(Ambohimalaza アンタナナリヴの町の東方約12kmにある村の名前)に居たランドゥリアンベルを呼びにやった。
 3日後の木曜日、わたしたち一家は、再びアンタナナリヴに戻った。すなわち、わたしが、アンドゥリアマトゥアと一緒に戻ることにしたのである。(A.Cohen-Bessy,1993, ,pp.61-62 原文マダガスカル語)
  この夥しい人名と地名から成る固有名詞の羅列、そして時折挿入される時刻と曜日の固有性。「極私的」とでも名付けることができようか。これが、この日記を書き残したラビサウナ(Rabisaona)個人にとって、1895年9月30日から数日間の掛け替えのない体験と記憶の表現であることは疑いがない。そしてまた、その体験と記憶が、ラビサウナの子供たちや孫たち、すなわち家族や親族の内部において伝えられてゆくものである限り、これらの固有性が有意であることも疑いがない。これこそが、マダガスカル語の<タンターラ>(tantara)すなわち「物語」の世界であろう。まさにバルトが、「著者を定義するものは、彼の意志伝達の計画が素直であることである。彼は自分のメッセージがおのれを振りかえって自分自身の上で閉じることを認めない、そこに自分の言わんとしたこと以外のことを区分して読みとられることを認めない」(op.cit., p.202 一部改訳)と規定する<著者>の意志伝達の表現世界に他ならない。が、最も私的でそれゆえ最も固有でありうる<著者>ラビサウナの感情を指示する単語が、その夜の寒さと一家の無事の喜び、二点にのみ限定されていることは、タナナリヴと言う進駐フランス軍の誰もがマジュンガに降り立った時点で既に知っていたにちがいない町の名と花崗岩・サボテン・ドラセナと言う自然分類名称だけが書き記される一方、フランス軍一兵卒の勝利の喜びのかけらもない疲労感の描写に終始するラベアリヴェルの小説と好対照を成すことに注意を向けよう。意図的に<作者>たらんとしたラベアリヴェルの記述とたまたまその「日記」が現代に遺されたことによって<著者>たらねばならなかったラビサウナの記述とでは、表現方法に懸隔のあることは当然である。問題は、ラビサウナの「日記」が、1895年9月30日の歴史記録として断片的かつ局所的であり、また歴史叙述としても稚拙であり、何よりも歴史記述の主体としての覚醒に欠けると断じることではない。それとは全く逆に、<作者>にあらざるラビサウナの記述が、これらの固有名詞の世界と同じ時間を共有しない人びとに対しても、アンタナナリヴの多くの人びとがその日その場で経験した混乱と狼狽と恐怖、そしてほどなくして訪れた平和と日常をよく伝えていることの問題に他ならない。なぜ、人は自分が<その場にいたこと(being there)>(cf. C.Geertz, 1988, pp.1-24)を、感情と言う極めて個人的な事柄への言及ではなく、このような極私的な固有名詞の世界への言及によって成立させまた成立させることが可能なのか。その問題を追い、同じ一日を、異なる<著者>の記述の中に見てみよう。
  メツィンゼール(Metzinger)(指揮下)の(第一)方面軍による三波の稜線登坂は、たいへんに厳しいものだった。敵が防備を固めたアンカツの丘(Ankatso 女王の宮殿から東方約3kmに位置する地域と町の名前 イエズス会の天文台のあったアンブヒデンプナの丘の東隣にあたる)への進撃は、(午前)8時半に開始された。15分ほどして、第16砲兵中隊の2門の砲が、アルジェリア人連隊第3大隊の援護を受けたマダガスカル人大隊の徒歩前進攻撃が敢行された地点への砲撃を開始した。9時半、その地点を制圧し、アンバトゥマル(Ambatomaro アンカツから北東に1kmの地区の名称)の後方にアルジェリア人大隊が進出した。マダガスカル人大隊に、士官1名および歩兵卒1名の負傷者が出た。
 同時刻、ヴォイロン(Voyron)(指揮下)の第2方面軍の第8砲兵中隊は、1311高地および1330高地の砲撃を行った。砲兵中隊は、フヴァ軍(2)砲兵隊の攻撃をようやくのことで一掃した。
 11時45分、アルジェリア人連隊第3大隊およびマダガスカル人大隊を除く、メッツィンゼール(指揮下)の方面軍所属の全部隊が、アンカツの丘に集結した。第16砲兵中隊と第9砲兵中隊の2門の砲が、最初に天文台に向けて、次ぎにアンドゥライナリヴ(Andarainarivo アンカツから西北約2kmに位置する地区の名称)に向けて、斉射を加えた。1時間後、当初は激しい反撃を行ったフヴァ軍歩兵が、抵抗を止めた。12時45分、マダガスカル人大隊は2名の負傷者を出しながらも、天文台を占拠した。
 この大隊は、照尺が撤去された砲2門を(その場で)捕獲した。ガネヴァル(Ganeval)指揮官は木で照尺を作らせ、防衛側だけではなく攻撃側をも驚嘆させたが、ただちにそれらの砲を王都へと向けた。歩兵の中から俄に選抜された砲手達から成るこの砲兵隊が町に向けて放った数発の砲弾は、アルジェリア人連隊第3大隊が陥っていた苦境を目論見通りに救った。
 
−タナナリヴの地図および布陣図2葉省略−
 この大隊は、攻撃の間、左翼縦陣の中軸を担うように配置されていた。アンドゥライスル(Andraisoro アンカツの北北東約1.5kmに位置する村と地区の名称)を奪取した2個中隊は、アンドゥライナリヴへと前進するにあたり、砲兵隊による攻撃の準備を待ってはいなかった。二つの中隊は強力な敵軍と遭遇し、敵軍は、下士官2名・歩兵4名を殺害し、士官2名・歩兵17名を負傷させて中隊を後退させた。天文台の2門と第8砲兵中隊による側面からの砲撃支援を受けた、大隊の他の2個中隊による一斉射撃の介入によって、2個中隊は救われ、敵軍を敗走させた。
 1311高地と1330高地に布陣したフヴァの砲兵隊の砲撃が止むやいなや、待機していた海軍歩兵部隊の6個中隊が、それらの地域を占拠した。これらの6個中隊の内の一中隊は、アルジェリア人連隊の3個大隊や第200連隊の第3大隊と協同して、アンドゥライナリヴの制圧に加わった。
 午後1時半、ドゥシェーヌ(Duchesne)将軍の作戦計画の第一部は、完全に遂行された。すなわち、王都の外郭防衛線を形成していた稜線部を、われわれは支配したのである。
 攻撃の第二局面を開始する時が、やってきた。すなわち、砲撃である。
 第9と第16砲兵中隊は天文台の丘に、第8砲兵中隊は1330高地に、2時40分までに布陣するよう命令を受け取った。(フランス)駐在公使の警護兵を務めた者(3)の中から選ばれた数名の案内人に先導された、それぞれ2個の中隊の中から6隊の攻撃隊が、編成された。攻撃隊は、一時間の砲撃の後、6つの異なる道から王都に迫り、最後に女王の宮殿および宰相の館にて合流すべしとの作戦任務を負っていた。
 

フランス軍砲兵隊による砲撃の挿し絵 , Capitaine TAM , A Madagascar, 出版年不詳, p.149
 
 2時55分ちょうど、砲撃開始の合図がなされた。5発のピクリン酸炸裂砲弾が、第9砲兵中隊と第16砲兵中隊による砲撃に終止符を打った。
           − 中  略 −
 3時30分、宰相の第二秘書官であるマルク・ラビビスア(Marc Rabibisoa)が、停戦交渉委員としてやってきた。彼は、砲撃の無条件停止を求める任務を負っていた。ドゥシェーヌ将軍は、仔細な問題といえども交渉するためのいかなる権限を彼に認めなかった。将軍は、王都の降伏を討議する他の交渉委員と共に戻るための45分を与えて、彼を女王の宮殿に帰しただけであった。
 時間切れの僅か前に、正規の権限を与えられた宰相の息子の一人と外務大臣が、将軍に面会にやって来て、敵対行為の中止とタナナリヴの降伏を伝えた。議会による布告を法的に確認しながら派遣軍司令官は、ただちに町を占領すること、それに際し民衆が反乱行動を起こした場合にはタナナリヴを焼き払うことを、彼らに承認させた。
 メッツィンゼール少将に、タナナリヴ軍司令官の職務が与えられた。少将は引き続き、4個歩兵大隊・1個砲兵中隊・2個工兵中隊を率いることとなった。ドゥシェーヌ将軍は、自らの進駐を翌日、10月1日の午前8時と定めた。それまでの間、フヴァの民衆による報復の僅かな企てをも抑止できる東部の稜線上のヴォイロンの部隊と共に、将軍は留まった。
(J.Poirier , 出版年不詳, pp.291-296.)
  ここでも、地名・人名・部隊名・死傷者数あるいはタナナリヴ攻防戦の雌雄をを決した大砲の数と所属、そして何よりも時刻の固有性が、克明に反復されている。このことは、その時間その場所に居た人間としてこの文章を書き記した<著者>の存在を裏付けているようにも見える。けれども、ラビサウナの「日記」と比べる時、これらの固有名詞と固有性が、<著者>その人に属したりあるいはその人自身から発せられたものではないことは、明白である。すなわち、ここで書き込まれた固有名詞や固有性は、報告や記録や証言集などの一次資料を入手すれば、誰にでも言及することのできる<著者性>の弱い性質のものなのである。それゆえこの記述の中には、個人名はあっても、個人はいない。もしかすると<著者>さえもここでは不在であり、その不在によってはじめて成立する種類の表現と描写であるのかもしれない。この記述が読者の眼前に提示するものとは、個人の視点から切り取られ固有性をまとう不可逆的で代替を拒む何ものかとしての経験と記憶の塊ではなく、誰もがそこに行けば見ることのできる鳥瞰的な平面図である。仮にタナナリヴの地理に精通している人間が、ここに書き込まれた固有名詞を辿ってゆくならば、その平面図は立体的な三次元画像として再構成されもしよう。このようにして個人も<著者>もいない詳細な画像の中で、読者は同じように<その場にいたこと>の地点へと誘われる。なぜなら、この引用文は、1895年の侵攻作戦について、フランス軍自身とりわけ参謀本部によって、あるいは軍の全面的協力を得て作成された、外部向けの公式作戦報告書と言うべき記録文書に他ならないからである。一枚の挿画やスケッチも無い代わりに、ところどころに挿入された地図が、この文書の性格を明瞭に物語っている。文章の理解を助けるために、地図が挿入されているのではない。全ての文章は、これらの地図とそこに記入された部隊名とその位置あるいは地名や数字を説明し理解可能とするために存在する。しかしながら、<著者>さえも遠景への退場を促すことが戦記記述における一方の極であるとしても、ラベアリヴェル一人のみならず戦記は、また時に「計画と決定の総体によって導かれてはじめて、作者たらんと欲する者が作者なのだ」と説かれる<作者>を招喚する。
  30日月曜日は、大事な一日となるはずである。なぜなら、何が何でもタナナリヴを占領しなければならないからだ。
 我々の前面と左方、すなわち東部では、(タナナリヴの)町に平行する二つの丘の稜線に、フヴァ軍が布陣していた。その稜線の一つが、アンカツである。もう一つが、1415mのアンドゥライナリヴの丘と1402mのアンブヒデンプナにあるP.コラン(P.Colin)の天文台の廃墟(3)である。
 その少し右方に、アンバトゥフツィ(Ambatofotsy)とアンドゥライスルの間におよそ1300mの二つの円い丘がある。二つの丘には砲台が設けられ、一帯を援護しているため、敵は頑強な抵抗が可能なはずであった。
 我々の後方に、午前6時頃から、2000名の兵員と2門の大砲を擁するライニアンザラヒ(Rainianjalahy)が再度現れ、イラフィの北方に展開した。ライニアンザラヒ軍は輜重隊を攻撃し、明らかにその前進を遅らせようとした。我々が先を見越し朝食を摂り終わったたその場所で、砲弾がうなりをあげるのを聞いたことを、今想いだす。その戦闘の間、食事をとることなど誰が考えたであろうか。
 総司令官の(ドゥシェーヌ)将軍は、ライニアンザラヒ(の軍)を牽制するため、ハウサ人大隊と海軍砲兵一個中隊をイラフィに向け派遣した。交戦したくてうずうずしていたハウサ人大隊は、サブツィ村(Sabotsy イラフィの村の北方2kmに位置する)で敵に白兵突撃を行った。フヴァ軍は、必死で砲兵隊を守ったが、結局遺棄せざるをえなかった。我々にも、士官1名と兵卒24名の戦線離脱者が出た。
 最後の軍事行動が、二つの連合作戦として始まろうとしていた。
 左翼では、メッツィンゼール将軍が、南東部に自軍を展開する任務を受け持った。彼は、アンカツと天文台とアンドゥライナリヴを奪取しなければならなかった。これら三地点の内アンカツが、最初に砲撃され、午前9時に奪取された。
 右翼では、ヴォイロン将軍が、輜重隊をアンバトゥフツィまで警護しながら送った上、アンドゥライスル(奪取)の前に、1300mの二つの丘を攻撃しなければならなかった。  我々が前進するにつれ、西部の水田地帯へと(フヴァ軍の)多数の逃亡が生じた。戦わないフヴァ軍は、イスティ地区(Isotry 女王宮殿から北西約2kmに位置する地区の名称)やイクパ川(Ikopa アンタナナリヴの町の南から西方を流れる川)の灌漑水路へと逃げ出した。  10時頃、1300頭ほどの騾馬から成る輜重隊が、深い地襞の地に集結した。その地点の上方に、海軍砲兵小隊は、ヴォイロン将軍が目標とする二つの丘の正面に位置しそれを十分な射的距離におさめる格好の射撃地点を見出した。
 最高位かつ総司令官の将軍の到着前に特にするべき事も無かったので、私は丘の一つに登った。私は、双眼鏡でフヴァ軍の大砲の所在地を探った。この時宜をえない好奇心は、標的にされると言う代価を私に支払わせることとなった。弾丸が私のすぐ耳元でうなり、その上ご丁寧にも丘から発射された砲弾の洗礼を受けた。私たちが砲座に戻ったその時、三発めの砲弾がブシェ(Boucher)大尉と私との間の大砲から10歩と離れていないところに跳弾したが、すぐさま反撃が加えられた。
 半時の間、敵のホッチキス社製大砲は我々に砲弾を浴びせかけた。砲弾は、我々が居た窪地の左右に着弾し、あるいは飛び越えた。輜重隊の果てしない列が、避難場所へと急ぐさまは、ちょっとした見物だった。
 幸いにも、その弾着は3・4発を除けば交互に短すぎるか長すぎるかであり、また砲弾は炸裂しなかった。
 ついに、発射の回数が減ってゆき、我が軍の射撃が優勢になり敵の砲撃が止んだ。11時頃、左翼の砲兵隊が天文台を砲撃する音が、聞こえた。ヴォイロ将軍が、作戦行動に携わっていない諸部隊の近くに配置するために、左翼からこの地点の攻撃を敢行したガネヴァル少佐率いるマダガスカル人大隊を派遣したのは、同時刻であった。
 メッツィンゼールの部隊は、現場の急傾斜が連続する地形と村々に潜んだ夥しい小部隊の敵歩兵によって、前進が遅れていた。
 正午、諸部隊の大砲は、女王青年部隊が巧みではないにせよ自分たちの大砲を敢然と守っているアンドゥライナリヴの丘に対する攻撃の準備を整えた。その地点に到達し、デブロー(Debrou)少佐率いるアルジェリア人歩兵連隊第3大隊が攻撃を開始するまでには、30分の間多数の75mm砲弾を発射しなければならなかった。
 この戦闘の局面は、危うく悪化するところだった。
 2個中隊が、アンドゥライスル村に到着してこれを奪取し、アンドゥライナリヴ村の攻撃に向かった時、突然激しい一斉射撃を受け、6名の死者および2名の士官と17名の兵卒の負傷者をその場に遺棄した。
 大隊のその他の部隊が、繰り返し斉射を加えることによってこの反撃を抑えたが、輜重隊の砲兵小隊は、その場から中隊を脱出させるために、機関銃の連射(4)を加えなければならなかった。さらに悪いことに、フヴァ軍たちは2名の負傷者にとどめを加え、3名の遺体の首と手足を切断した。
 午後1時半頃には、王都の外郭防衛線の全てが、我々の手中にあった。タナナリヴの町を占領することだけが、残されていた。
 ほぼ同時刻、天文台ではびっくりする出来事が起きた。ジャック・ドゥ・フィッツ−ジェイムス(Jacques de Fitz-James)、ストゥプ(Staup)、ドゥ・モーグラス(de Maugras)、ボードゥレール(Baudelaire)、ドゥミネ(Dominé)なども加わったマダガスカル人大隊は、敵から照尺が既に外された状態の良い2門の大砲を奪った。照尺が外されていたことは事実だが、それはたいした問題ではなかった。私の戦友たちは、照尺の代わりにデッサン用の2本の20cm物差しを使って照準し、町の上に狙いを定め、砲撃の第一撃を加えた。我々の12門の80mm山砲は、1300mの丘の上と天文台の上に配置され、3時に砲撃が始まった。
 もう3時であり、夜が迫っていた。是が非でも、終えなければならない。
 6個の攻撃支隊の編成が、命令された。それら6隊は、女王の宮殿および宰相の宮殿へと合流するはずであった。迅速に前進できるよう、ハウサ人やマダガスカル人の黒人大隊と同様、外人部隊、アルジェリア人歩兵隊、セネガル人部隊に対して、白紙委任状が前もって与えられた。各部隊とも、この重大局面において白紙委任状が意味するところを承知していた。工兵には爆薬筒が支給され、バリケードや障害となる家を爆破する手筈であった。
 総司令官の将軍は小高い丘の上に陣取り、タナナリヴ(駐在)副弁理公使のランショ(Ranchot)や総参謀長のトゥレ(Torey)と共に、最後の瞬間を待っていた。最初の砲撃を開始すると同時に、フヴァ軍は自軍の砲座の在処を明らかにした。最も強力な2門とかなり威力のある大砲は、女王宮殿の盛り土の上に置かれ、天文台からの射撃に対して応戦した。その他2つの砲座は、丘の方面に数発の砲弾を発射したにすぎなかったが、家々や木々の重なりの間に隠れて見えないようであった。
 ラナヴァルナ(Ranavalona 当時のイメリナ王国の女王)の宮殿が、我々の主要目標となった。
 弾薬を節約するために、最初に機関銃弾を用いて修正射撃を行った結果、我々の射撃は、徐々に効果を現した。隅に一門のアームストロング砲が配置されていた小さな建物の屋根を裂いたそのうちの一発は、フヴァ軍の士官や兵卒のど真ん中で炸裂した。30人あまりの負傷者や死者の犠牲者が、出た。他の一弾は、女王の宮殿の壁にまで到達して正面を壊し、密集していた守備側に殺戮の雨を降らした。第3弾は、宮殿の後ろのテラスに着弾した。機関銃は、安全に守られていると思いこんでいた数名のフヴァ軍の兵士たちを負傷させた。残されたマダガスカル人たちの一部は恐怖に駆られて、数メートル下に飛び降り、骨折した。
 我が方の大砲は、全部で一ダースほどの長形砲弾を発射した。我々は、ピクリン酸炸薬が、恐怖を引き起こす効果だけではなく、多大の損害や被害を与えたものと確信した。
 誰かが、離れた部屋に居た女王に、われわれの大砲が引き起こした被害の程度を報告に行ったのであろう。泣き出したラナヴァルナ(女王)は、白旗を掲げることを命じた。
 3時半であった。
 砲兵隊の勝利であった。ガネヴァルの大隊から編成された攻撃部隊が、宮殿に続く急な坂道を登り始めようとしたその時、輿に乗った宮廷人と共に、一人の現地民が、竿の先の大きな白い布を振りながら、駆け足でやって来た。
 自らの使命の成り行きに不安を覚え、おそらくは時間稼ぎを目論んだこれらのフヴァ人たちは、高位の貴人ではあったが、砲撃の中止以外の事柄を交渉する密使としての十分な公的権限を与えられてはいなかった。不十分であった。すなわち、(アンタナナリヴの)町は、無条件降伏しなければならないのである。
 ドゥシェーヌ将軍は、合意の上であれ力ずくであれ自分は日没までにタナナリヴを占領する意向であることを彼らに言い渡すと共に、フヴァ人たちに十分な権限を持って戻るよう45分の余裕を与えた。
 崩れた壁の傍らに、地平線の上に投影された我々の征服の彼方に、全ての夕陽の光の輝きと輪光の彼方に、アルジェリア人連隊の軍旗が、翻った。
 部隊の前で、総司令官、トゥレ(Torey)中将、フランス全権公使ランショ(Ranchot)の前で、宰相の息子の一人が、指定された時間に、女王とフヴァ政府の名前において、厳粛に町の降伏を宣言した。
 我が部隊は、ただちに平和的(進駐)受け入れの保証を得た。
 同夜、二つの宮殿とアンドゥハル地区(Andohalo 女王と宰相の宮殿の北一帯の地区の名称高位の人びとや裕福な人びとが多く居住していた)は、軍事的に占領された。イメリナ王国の都に最初に進駐する栄誉は、メッツィンゼール将軍に与えられた。
 ドゥシェーヌ将軍とヴォイロン将軍は、郊外の麓に野営し、警報あらば直ちに黒人部隊を突入させる準備を整えていた。
 翌日、10月1日火曜日、(午前)9時、ドゥシェーヌ将軍が、タナナリヴの駐在公使官邸へと入った。
 この日の朝、私は、目を醒ますと同時に、宰相の宮殿に上った。私は、アンドゥハルの野営地が映し出す光景に、驚いた。ハンニバルの兵隊の精鋭とも呼ぶべき人びとが、動物たちの中で平然とし、またかくも大胆不敵な成功にもほとんど感動していなかったからだ。敵のあらゆる財産をも尊重しながら、歩兵隊は、立派な家々に取り囲まれた中で、一団となって野営していた。数ヶ月の長期にわたる中でただの一度、いかなる憂いもなく、彼らはひどい疲労のため休息していた。
 作戦は、終了した。危ないところであった!
 先発攻撃隊の出発から27日め、我々の(大砲の)薬夾と弾頭の備蓄は、あらかた使い尽くされ、食糧もわずかであった。
 到達しえた安堵のため息がどれほどのものか、また先発攻撃隊のこのあらゆる危険によってどれだけ多くのものを獲ることができたか。
   今や、不安も、疲労も、熱病の発作も、忘れ去られ、人は帰国を思い描いていた。フランスは、憧憬と想い出によって、より一層美しくまたより一層豊かである。また、フランスは、人が遠くにあり苦しんでいる時、より一層魅力的である。
 しかしながら、帰国までには、平和がもたらした休暇を享受するまで、我々の多くが、大島(マダガスカルのこと)にしばらくの間留まることになった。征服がいまだに彼らの上にその傷を残している前で、すぐに理解するにはたいそう奇妙なことに思われるが、我々の一人一人は、このフヴァ族との付き合いが深まるにつれ、少しずつ<マダガスカル人> となっていった。
 作戦終了後の我々の感慨は、まだ野生ではあるもののエキゾティックな植物を手にいれたそれに似ていた。突然、一人の腕の良い園芸家がやってきて、自分の思い通りに植物を創り上げる。新しい花々が開き、その花冠は、たくさんの花弁をつける。花々はとってもきれいだが、その素朴さと共に、魅力ある鄙の美しさとほのかな香りを失ってしまった。
(Andriamena , 1904, pp.116-121)


降伏を伝えるイメリナ王国の使者到着のエッチング画 Édouard Hocquard , L'Expédition de Madagascar, 1897, p.139
  ここにも頻出する、個人名・地名・部隊名・砲数・弾数そして時刻などの固有名詞と固有性。しかしながら、鳥瞰的画像、それゆえ<著者>を取り巻く固有性の極度に低い印象を読者に与える先のポワリエの記述に対し、このアンドゥリアメーナ、すなわちマダガスカル語で<赤い貴族>を意味するそれも偽名を名乗る著者は、よく似た鳥瞰的画像のそこかしこに<著者性>を滑り込ませているだけではなく、砲撃を受け泣く女王の描写やイメリナ王国征服を野生の花の獲得にたとえる比喩など、時には唐突とも思える形でしかも無骨に<作者>の貌を纏い読者の前に立ち現れさえする。
 1895年9月30日、この日の午後遅く、アンタナナリヴの町には、夕陽が射していた(6)。王都アンタナナリヴが位置するマダガスカル中央高地は、例年であれば9月はまだ乾季である。したがって、午後5時頃の夕陽が町を囲む丘の上から鋭い光と影を投げかけていたとしても、それ自体は、繰り返される日常の光景の限りとしての真実であった。しかしながら、フランス軍の圧倒的な攻撃を受け生命の危険を感じながらアンタナナリヴの町からの脱出を図ったマダガスカル人にとっては、その夜の寒さだけが語られるべき事柄であり、夕陽がさしていたか星空が見えていたかは、記述の対象となるべくもなかった。イメリナ王国を降伏させ<保護領>と言う条約案文の実行を作戦目的として与えられた軍人にとっては、組織だった攻撃の方法と軌跡それに整然とした占領だけが語られるべき事柄であり、作戦遂行に影響を与えない限りでの天候は記述の対象となるべくもなかった。これに対し、<作者>であることを自覚し小説を自らの表現行為として選び「兵士は、いかめしかったものの人が良さそうであり、疲れ果てていたもののまだ唄いながら行軍していた。彼の前には、西方に正面を向け血のような太陽をいっぱいに浴びた赤土でできた小さな家々があった」ことを幻視したラベアリヴェル、偽名を用いてまであえて戦記を逸脱し「崩れた壁の傍らに、地平線の上に投影された我々の征服の彼方に、全ての夕陽の光の輝きと輪光の彼方に、アルジェリア人連隊の軍旗」を押し立てたアンドゥリアメーナ、被征服者と征服者、戦後生まれと戦争当事者、そしてマダガスカル人とフランス人、それぞれ立場と境遇を異にする二人が、平凡な乾季の日常の一瞬に描かれるべき物語の眼差しを向ける点において交わっていた。
 戦記とは、どのような旅の表象なのか。このことを、1895年作戦について階級・兵種・所属部隊の異なる立場から描かれた複数の史料を紐解きながら、フランス派遣軍259日・600km余の旅の一部を兵士たちと共に歩みながら、考えてみよう。

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