序章
  (1)1810年から1828年まで王位にあったラダマI世は、イギリスから購入した武器とイギリス人下士官の指導のもとに、フルアリンダヒ(foloarindahy)と名付けられた新しい常備軍を創設した。この常備軍は、裕福な貴族層(andriana)の若者を中心に編成され、これらの若者は無給であった代わりに副官(dekany)の名で相当数の従者や奴隷を伴っていた。これに対し、宰相のライニライアリヴニ(Rainilaiarivony)は、無制限に増大していた士官の人数に厳格な規定を設けて副官を大幅に削減し、さらに1879年に一般王国民の間に徴兵制を導入する兵制改革を行った。前者の措置は、軍内部での貴族の占める割合を減少させ、後者の措置は軍内部で兵卒の中心を成していた奴隷に代えて自由民を据えることとなった(R.Decary,1966, pp.8-72)。したがって、ラビサウナの「日記」に記された<わたしたちの副官>(dekanay)とは、実際には従者ないし<奴隷>(andevo)を指している。
 (2)フヴァ(hova)とは、民族としてのメリナ(Merina)、王国としてのイメリナ(Imerina)双方に対する別称である。この名称が、メリナ族やイメリナ王国に対する19世紀以前の自称を含めた古称であるのか、それともメリナ族やイメリナ王国において社会階層制上の<平民>を指すフヴァの外国人や外国人宣教師たちによる他称としての誤用であるのかは、はっきりしない。正式な自称詞は、17世紀に王がその王国民たちを指して言ったとされるイメリナ・アンバニアンドゥル(Imerin'Ambaniandro)である。
 (3)第一次フランス−メリナ戦争終了直後に締結された条約によってフランスは、王都アンタナナリヴに駐在公使と共に当初25人の武装警護兵を置くことを認められていた。しかし、警護兵の人数は、その後すぐにフランスによって50人に増員された(M.エスアヴェルマンドルウス,1988,p.330)。
 (4)アンブヒデンプナの丘の上に、1889年フランス・イエズス会のエリー・コラン(Elie Colin)神父が、イメリナ王立天文台を建設した。しかしながら、1895年9月、フランス軍のアンタナナリヴ侵攻12日前に、外国人キリスト教宣教団による利敵行為を疑った宰相の命令によって破壊された(Régis Rajemisa Raolison , 1966, p.27,p.110)。イメリナ王国側は、王都アンタナナリヴ防衛のために最新のホッチキス社製78mm野砲2門を、アンブヒデンプナの丘の上に配備していた(R.Decary, 1966, p.85)。
 (5)エリスによれば、機関銃がその有効性を認められた戦場は、南北戦争でもフランス−プロシア戦争でもなく、イギリスやフランスによる植民地拡大の現場においてであり、1874年のアフリカ・アシャンティ族との戦いにガトリング式機関銃が投入されたことを皮切りに、とりわけ1879年のズールー族との戦いにおいてその有効性が広く認識されるようになったと言う(J.エリス , 1993:pp.128-176.)。1890年代には、無煙火薬薬夾の出現と共に単銃身の軽量化されたマキシム式などの機関銃の使用が植民地を始めとする戦場において、定着していた( D.R.ヘッドリク,1989,pp.118-121)。またマキシム社は、植民地軍に対する同社の機関銃の売り込みを積極的にはかったと言う(岩堂憲人,1995,p.798)。フランス軍側だけではなく、イメリナ王国側もガトリング式と同じクランクを廻す多銃身型のガードナー式機関銃を少数装備し、アンタナナリヴにも配置していたが、実包の質が悪かったため作動不良の問題を抱えていた(R.Decary,1966, p.86)。
 (6)軍医として従軍したE.オカール(Édouard Hocquard)が著した『マダガスカル遠征記』には、著者が撮影した写真から描き起こされた絵が各所に挿入されている。その中の一枚にマルク・ラビビスアが無条件降伏の宮廷側使者としてやって来た場面を描いた、J.ラヴェ(J.Lavée)による絵がある。その絵の中の各人物に長い陰が描かれ、遠景の空には薄雲がたなびいている事からも、当日は概ね晴天であった様子がうかがわれる(É.sHocquard,1897,p139)。
   I章
  (1)マダガスカル島における南緯16度線は、西ではマジュンガ、東ではマスアラ半島(Masoala)を結ぶ線上を通っている。政治的にはフランスが保護領として扱っていたヌシ・ベ島近辺およびイメリナ王国の宗主権をめぐり係争中のアンパシンダヴァ湾(Ampasindava)がこの領域内に含まれ、地政学的には良港として使用可能なディエゴスアレス(Diego-Suarez)湾とアントゥンジール(Antongil)湾が含まれている。
 (2)このようなファハヴァル(fahavalo)ないしジリキャ(jirika)と呼ばれる山賊・強盗団は、1888年にはアンタナナリヴの北18kmに位置するイメリナ王国の歴史上著名なアンブヒマンガ(Ambohimanga)の町を、1890年には王都アンタナナリヴそのものさえも襲撃するに至った(エスアベルマンドルウス,1988 , p.332)。
 (3)イメリナ王国民に対して課せられた義務はおよそ、<兵役>(miaramila ミアラミーラ)、公共の仕事や工事に労力を提供する<夫役>(borizano ブリザーヌ ないし fanompoana ファヌンプアナ)、収穫量の半分の米を納める<貢租>(hetra ヘチャ)の三つであった(L.Molet,1979,vol.2,p.137. , G.Condominas,1960,p.50,pp.75-76)。奴隷身分(andevo アンデヴ)の人間に対して、これらの義務は課せられなかった。
 (4)ほぼ同時期に戦われた日清戦争(1894〜1895)において採用された日本陸軍の正式歩兵小銃13年式村田銃とその改良型である18年式村田銃は共に後装単発であり(岩堂憲人,1995,pp.772-773)、その点からもこれらのイメリナ王国軍の小銃や大砲の装備に遜色のないことがわかる。
 (5)1895年当時のイメリナ王国軍の正式な兵卒の軍服は、「赤い縁取りのある白い上着、白いズボン、鞘の無い銃剣をさす金属製のバックルのついたベルト、R.M.(Ranavalona manjaka すなわち<ラナヴァルナ女王の統治する>を意味する略号)のイニシャルの入った縁無し帽」であった(R.Decary , 1966 , p.87)。ガリ(H.Galli)が執筆し、ボンブレ(J.Bombled)が彩色挿画を描いた、『マダガスカルにおける戦争』1896に描かれたイメリナ王国軍兵士の服装を見ると、上記のデッカリの述べる通りの軍服を着用した兵士の図は185頁の1葉しか見出されない。士官には全員軍服が支給されていたらしく全ての挿画において赤い上着に白いズボンを着用ベルトに帯剣し白い防暑ヘルメットを被り靴を履いた同じ姿で描かれているのに対し、一般兵卒は上記の通りの白地に赤い線の入った縁無し帽を被っているものの、着用している軍服の上着の色は白ではなく紺色ないし青色である。しかしながら大多数の兵士は、幅の広い麦藁帽を被り白い貫頭着風のマラバーリ(malabary)と呼ばれる服を着用しさらにその上に白い布を羽織っている者もおりなおかつ全員裸足であり、これは当時のメリナ族の農民などの日常的な服装に他ならない(cf.H.Galli , 1896)。
   III章
  (1)マダガスカルの西海岸一帯に広がるサカラヴァ王国群において、故王の遺骨はダディ(dady)と呼ばれ、聖遺物として代々の王によって厳重に継承されまた厳粛な祭祀対象として扱われている。なぜならこのダディは、王国に祝福を与え王国を守護する呪物であると共に、このダディを持つことこそが正統なる<王>であることの証しに他ならないからである(J.F.Baré1980,pp.238-249)。また、サカラヴァ王国は単一の王国ではなく、南部をメナベ王国(Menabe)、北部をブイナ王国(Boina)と総称するが、その中はさらに多くの個別の王国に分立し、フランス統治以前にはそれらの王国同士の間で戦争も行われていた。王族層はマルセラナ(Maroserana)と呼ばれる単一の親族の系譜関係に連なっているが、王国内に包摂される人びとは、起源・生業あるいは社会組織や儀礼などの面において多様性を有している(cf.J.Lombard,1988,pp.9-139)。
 (2)ディエゴスワレスのフランス軍駐屯部隊とは、1885年第一次フランス−イメリナ王国戦争の停戦後に締結された条約に記された、「フランス海軍は、ディエゴスワレスを占有する」との条文に基づくものである。しかし、その「占有範囲」に関しては、フランス側とイメリナ王国側における条約案文解釈上の争点の一つを成していた(M.Prou , 1987 , pp.207-208)。
   IV章
 (1)ルーヴァ(rova)とは、「囲い、柵、垣;中庭、王が居住する囲いを巡らした敷地」(J.Richardson , 1885 ,p.531)を意味する。マルヴアイの町の中央の小高い丘の上に、かつてはサカラヴァの首長が居住していた家屋があった。1895年当時そこには、マルヴアイ地方を治めるイメリナ王国の行政官の家屋があった。
 (2)原文ではAntonimoraと表記されているが、Antanimoraの明らかな誤記である。
 (3)原文ではRamazombazahaと表記されているが、Ramasombazahaの明らかな誤記である。
 (4)原文ではMadianaと表記されているが、Miadanaの明らかな誤記である。
 (5)原文ではここでもRamazombazahaと表記されているが、Ramasombazahaの明らかな誤記である。
 (6)現在のブエニ湾(Boeny)の奥にあったアラブ人たちが作った町の名前がブエニであり、そこからマジュンガからマルヴアイ一帯もブエニ地方と呼ばれていたものと推測される(cf.P.Verin , 1986:107-109)。一方19世紀後半から現在に至るまで、現在のマジュンガ地方をサカラヴァ王国の名前に因みブイナ地方(Boina)と呼ぶ名称が広く用いられている。
 (7)赤い軍服はイギリス兵のものではなく、イメリナ王国軍士官の軍服と思われる。
  V章
 (1)原文ではベハナナ(Behanana)と表記されているが、ベアナナ(Beanana)の誤記と推定される。ベアナナの村は、国道4号線沿いに現在でも存在する。
 (2)28日の戦闘はフランス軍守備側10人による1時間半の戦闘であるため、7635発ないし7655発の弾丸の大半は29日の午前5時過ぎから正午までの7時間の戦闘で発射されたものである。ツァラサウトゥラのフランス軍先遣隊の人数は砲兵隊員も含めて200人、午前5時頃から正午までの7時間の戦闘と記述されているので、ほぼ一人当たり38発、一時間当たり5・4発を平均して発射した計算になる。この時から20年後の第一次世界大戦の時点で、訓練された兵士は一分間にボルトアクション式ライフル銃30発を、新兵は10発を標的に命中させることができた(J.エリス , 1993 , p.194.)。
s  (3)原文ではベハナナ(Behanana)と表記されているが、ベアナナ(Beanana)の誤記と推定される。
  VI章
 1)ポワリエの本ではタララ(Talala)と表記されているが、他の文献上ではタラタ(Talata)と表記されており(É.Hocquard , 1897 , p.128)、<火曜日>と言うマダガスカル語の意味に鑑みても、この箇所はタラタの誤記である。
 (2)川の名前ファーランタズ(Farantazo)とは、ファーラ(fara)「終わり」+タズ(tazo)「熱病・マラリア」を意味する。マハリダーザ村近辺は既にマダガスカル島の中央高地に位置し標高1000mを超えるため、当時は実際にマラリアが存在しなかったと考えられる。
 (3)ズッズル(zozoro)について、筆者のランショはroseau<葦>と註を入れているが、当時出版されたマダガスカル語−フランス語辞典ではespèce de souchetすなわち<かやつりぐさの仲間>と説明されている(Abinal et Malzac , 1888, p.876.)。ズッズルを家の建材として用い扉や窓あるいは壁を作ることは知られているが、屋根をズッズルで葺くことは一般的ではない。したがって、ズッズルと言うマダガスカル語が正しくランショのフランス語の選択が適切でなかったか、あるいは逆にランショがフランス語の<葦>の訳語として誤ってマダガスカル語のズッズルを充てたか、そのいずれかである。
 (4)ラニアンザーラ(Ranianzala)と表記されているが、ライニアンザラヒ(Rainianjalahy) の明らかな誤記である。
 (5)ミラミール(Miramiles)と表記さているが、ミアラミーラ(miaramila)の誤記である。
s  (3)原文ではベハナナ(Behanana)と表記されているが、ベアナナ(Beanana)の誤記と推定される。
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