ファマデイハナという伝統と革新
  マダガスカルの諸民族における宗教実践の中核が、祖先をめぐる祝福の儀礼にあり、そのための儀礼の中心に葬制と墓制が位置することはつとに知られている。すなわち、人が死んだ際には、それぞれの民族の習慣に従ってあるいは牛を供犠しあるいは教会でミサを執り行った後、その故人の故郷のしかるべき墓に遺体ないし遺骨を納めることは、その家族や親族にとっての免れることのできない義務である一方、そうやって埋葬された死者は今度は祖先として子孫に祝福を与える存在として儀礼において直接に呼び求められるのである。この点では、ほとんど正統キリスト教徒と呼んでよい現代メリナ系の人びとも例外ではない。とりわけメリナ系の人びとは、墓内に安置した遺骨を包んでいる高価な絹や天蚕の布を取り替えるファマディハナと呼ばれる祭りを盛大に祝うことで知られており、旅行案内書やマダガスカルの習慣を紹介するテレビ番組では殆ど定番と言えるほどに言及や取材がなされている。さらに、マダガスカルの外に対してファマディハナは、インドネシアからフィリピンの島じまの人びとにも見られる「二次葬」ないし「改葬」と呼ばれる死者を一旦埋葬ないし白骨化を待ってから再び遺骨を墓に納める儀礼と通底し、それゆえマダガスカル人のインドネシア起源を示す習慣としての位置づけが、与えられている。
  ところが、この紛うことなき「伝統儀礼」であるはずのファマディハナが、19世紀のメリナの人びとの葬墓制についての記録の中には、見出されないのである。そこにおいて、ファマディハナの名称の許に記されているのは、墓の移転や古い墓から新しい墓に一部の人たちの遺骨を移すに際して行われる祭りという現代では副次的な意味しか与えられなくなった事柄である。では、遺骨を包む絹の布の取り替えという現代ファマディハナの中核を成す祭りは、何時・何処から出現し、何故かくも盛大に行われるようになったのか?
  碩学のフランス人研究者は、この型のファマディハナの起源を、フランス植民地政府による民族統一の温床を取り除くためにイメリナ王国の故王たちの遺骨を1897年アンタナナリヴの女王宮内にまとめて安置したことと配流先のアルジェリアで亡くなったイメリナ王国最後の女王の遺体が1938年アンタナナリヴに戻された際に行われた葬儀に求めている。さらに、その出来事が、現代型ファマディハナとしてメリナの民衆の間で広く受容されるに至った理由とは、1896年のフランスによる植民地化と同時に布告されたマダガスカル全土での奴隷の解放令によって、一夜にしてイメリナ王国においてはなんらの疑いも挟まれることのなかった貴族と平民をあわせた自由民と奴隷との区別が取り払われたばかりか、その区別は公然とは口にだすことさえできなくなった状況に求めることができよう。すなわち、イメリナ王国時代奴隷の人びとは、王国を構成する伝統的な領域内に一族の墓をもつことができなかった事と公的な水田の給付から排除された奴隷の人びとは解放後土地を持たない貧困層の中心を構成した事、この二つの事柄から、イメリナ王国時代に貴族や平民であった人びとの子孫たちは、自分たちは伝統的な領域の内部に墓をもつことおよび盛大な祭りを行うことのできる財産や富を所有していることを定期的に周囲の人びとに顕示することによって、自分たちの自由民の出自を繰り返し証明しているのである。
  植民地化が現出させ突きつけた新たな状況に対応して、祖先を敬うというマダガスカル人にとってのいわば絶対的価値を意図的に利用しながら生みだされた新たなファマディハナが、オーストロネシア諸社会で行われている二次葬と1500年の時間を隔てて再び巡り会ったことは、「マダガスカル人であること」が、過去と現在、この土地に住まう自分たちと海の彼方からやって来たガイジンとの絶えざる対話の上に成立していることを、我われに改めて認識させてくれていると言えよう。
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