海賊・宣教師・植民地支配者
  マダガスカルとヨーロッパとの関係は、1500年のポルトガル人航海者による「発見」から始まる。16世紀末から17世紀にかけオランダが北東部のアントンジール湾に、イギリスが東部のサン・マリー島や南西部のサン・オーギュステイン湾に、フランスが南東部のフォー・ドーファンに、それぞれ交易拠点や砦を建設し、マダガスカルにおける定住や植民を図ったものの、それぞれの本国の情勢やマダガスカル人社会との軋轢によって17世紀末までにはことごとく撤退を余儀なくされている。ヨーロッパの国家的事業としてのマダガスカル進出が失敗した後の間隙を埋めるようにやって来た人びとが、インド洋交易や巡礼のヨーロッパ船やアラビア船を襲撃するための拠点をサン・マリー島からアントンジール湾およびデイエゴ・スワレス湾にかけて設けたヨーロッパ系の海賊たちである。彼等がマダガスカルで活動した期間は17世紀後半から18世紀前半の40年から50年ほどにすぎないものの、その機動力と武力をたてにチャールズ・ジョンソン(ダニエル・デフォー?)によって描かれたような「海賊共和国」を樹立したり、コモロ群島の権力闘争に介入したりしたうえ、マダガスカル人女性との間に混血児をもうけ、そのような混血児ザナ・マラータの一人ラツィミラフ(別名ラマルマヌンプ)は、18世紀前半東部海岸一帯に長大なベツィミサラカ王国を樹立するに至っている。ちなみに、江戸時代中期に日本沿岸にもやって来たハンガリー人の「冒険家」・「革命家」・「山師」ベニョフスキーは、マダガスカルに再びフランスの拠点を確立することを旗印にしながらアントンジール湾を中心とする「自分の王国」を造ろうとしたあげく、最後はそのフランスに対しマダガスカル人を蜂起させようと試みて失敗しフランスの分遣隊との交戦の最中、1786年に戦死してその波瀾万丈の生涯を終えている。彼こそは、この海賊の系譜に連なる最後のヨーロッパ人かもしれない。この時期のマダガスカル人とヨーロッパ人との接触は、海岸部の一部に限られてはいたものの、マダガスカル人側は、米や牛や奴隷と交換に、ヨーロッパ人やアメリカ人たちから銃器や火薬またラム酒・布、それにアフリカ大陸からの奴隷を手に入れている。とりわけ、マダガスカル島内で鉄砲が大量に流通を始めるのは、17世紀から18世紀にかけてこの欧米人との交易を通してであり、獲得された鉄砲は、西部のサカラヴァ王国、東部のベツミサラカ王国、そして18世紀後半から急速にその勢力の拡大を始めた中央高地のイメリナ王国といった長大な王国の形成や拡張に大きな役割を果たしている。また、マニオクやトウモロコシそれにサツマイモといった現在のマダガスカル人の副食ないし乾燥地帯の主食として大きな位置を占めている栽培植物が、この頃欧米人との沿岸交易を通して新大陸からもたらされていることも忘れてはならない。
  既に述べてきたように、中央高地のアンタナナリヴ平野に17世紀頃成立した小さなイメリナ王国は、稲作の導入、鉄の精錬・鍛造技術の導入、公共土木工事による水田の開発、王を中心とした新年祭(ファンジュルアナ)や割礼祭といった王国儀礼の創設など、一連の改革や革新に成功し、欧米との交易によって鉄砲を獲得した結果、18世紀末から急速にその範域を武力的に拡大し、19世紀前半には全島のほぼ三分の二を勢力下に納めることとなった。このことは、群小の勢力が割拠しマダガスカルとの間で安定した経済的また外交的関係あるいは植民や布教の機会を模索しながらも得ることのできなかった欧米諸国に、マダガスカルにおける絶好の地歩を与えることとなった。マダガスカルにおける自国の権益の確保にとりわけ熱心であった国が、既にモーリシャスとレユニオンにそれぞれインド洋における活動拠点を築いていたイギリスとフランスにほかならない。とりわけ19世紀時点では、イギリスが、宣教団の布教活動を中心にイメリナ王国との政治的また経済的な繋がりを深め、一方イメリナ王国との関係でイギリスに遅れをとったフランスは、サン・マリー島やヌシ・ベ島といった周辺の島じまを拠点にマダガスカルへの進出の機会を窺っていた。イギリスのプロテスタントの宣教団は、イメリナ国王の求めに従って、牧師だけではなく様ざまな職人を派遣した結果、キリスト教の布教やキリスト教教育のみならず、建築・煉瓦造り・印刷・革なめし・園芸などの技術の移転の面でも著しい成果を挙げることとなった。現代アンタナナリヴ近郊に広がるヨーロッパの農村の町並みにも似た佇まいは、この時代の技術移転の成果を物語るものである。このようなヨーロッパ人とキリスト教の進出によって生じた文化的また社会的な混乱を背景にマダガスカル人改宗者の弾圧と宣教師をはじめとするヨーロッパ人たちの退去処分を行った19世紀半ばのラナヴァルナ一世女王でさえ、お雇い外国人に命じて銃砲や火薬、それにガラスや石鹸などを作らせ続けたうえ、ヨーロッパ諸国との港における交易そのものは禁止せずに、自らの奢侈品などを入手する道は確保しておいたのである。もちろん、既に述べたマダガスカル語のアルファベット文字による表記法の制定と印刷技術の導入などを背景にキリスト教宣教団が進めた学校教育は、イメリナ王国の許で既に義務教育制度として結実し、その後のサハラ以南のアフリカ諸国の中では高い就学率と識字率をマダガスカル全体にもたらすことに繋がったこと、アフリカ諸国の中では分離独立教会傾向の低い正統キリスト教諸派の浸透度の高い特徴をもつこと、妻子を伴って居住した宣教師や職人たちが「ヨーロッパ風の家族生活」をはじめてマダガスカル人の眼に焼き付けたことなどに示されるマダガスカル人の内面と社会への影響を見過ごすわけにはゆかない。とは言え、十九世紀マダガスカルは、物質や技術の面において、宣教団やお雇い外国人の手によって著しくかつ急速に変わったことは、否定し難いであろう。
  レユニオン島の植民者たちの声に押されるかたちで始まったフランスのマダガスカル領有への歩みは、1895年の、二万人の兵士と軍夫を北西部海岸の港町マジュンガに揚陸してのイメリナ王国の軍事征服、その後1896年のフランス議会におけるマダガスカル植民地化の議決、そして1897年イメリナ王国最後の女王の島外追放となって完結し、マダガスカルが再びマダガスカル人の手に戻るには1960年を待たなければならない。このフランスによる60有余年にわたる支配と統治は、衣食住といった物質の面でも、文化の面でも、社会の面でも、すなわちあらゆる面においてマダガスカルのあらゆる地域のあらゆる人びとの間に、おそらく限られた時間の中では最も大きな変化をマダガスカルとマダガスカル人の双方にもたらしたと言っても過言ではない。そのひとつひとつをここで挙げてゆくことは不可能であるが、フランスの統治がマダガスカル人に及ぼした最大の革新は、もしかしたら「マダガスカル人」および「マダガスカル国民」という覚醒の意識そのものであるやもしれない。確かに、その広大な面積にも関わらず全島において相互に通話可能なマダガスカル語が流通し、19世紀にはイメリナ王国が全島の三分の二を支配下に置いた歴史的事実があるものの、そのこと自体は民族や王国などの違いを超えた地平に成立する「マダガスカル人」という我われ意識およびそのマダガスカル人自身が統治の主体たる「マダガスカル国民によるマダガスカル国家」の観念を生みだしたわけではなかった。その証拠に、1895年のフランスによる軍事侵攻は、イメリナ王国の一部の権力者たちにとっては「マダガスカルの危機」ではありえても、とりわけイメリナ王国に征服された地域の人びとや民族にとっては、自分たちとは直接関わりのないフランスとイメリナ王国との間の戦争でしかありえなかったのである。
  そして、「マダガスカル人」という政治的主体を覚醒した時、フランス人すなわち「白人」(ヴァザハ)による植民地統治の不当性と「マダガスカル国民によるマダガスカル国民のためのマダガスカル国家」の正当性の論拠として、インドネシアを祖先の起源地とする我われマダガスカル人の言語や文化の共通性あるいはこの地に先住する我われの「土地の主」としての優位性と「祖先が切り開き祖先が埋葬されているマダガスカルという土地に居住する正統な権利を持つ我われマダガスカル人」というマダガスカルの土地そのものの聖化の言説がはじめてマダガスカルの歴史に登場したのである。
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