近くて遠いアフリカの逆説 |
マダガスカル島とアフリカ大陸とは、その最も近いところでは、モザンビーク海峡を間に400キロを隔てているにすぎない。さらに、マダガスカルの人びとの容貌や形質には、南方モンゴロイドの特徴を広く認めることができるにせよ、黒人の形質が優勢であることは否定し難い。かつては、マダガスカル人の間に卓越する黒人的形質について、それがメラネシアなどのオセアニア系黒人に由来するとの説が主張されたものの、現在では、アフリカ大陸の黒人に由来する部分が遙かに多いことが定説とされている。ところが、それにも関わらず、インドネシア系やアラブ系の人びとの移住と比べ、その歴史的関係やその間の繋がりを示す記録や事実に乏しいという逆説がここにも存在するのである。アフリカ大陸の人びとがマダガスカルにやって来たことを示す最も確実な証拠は、17世紀から19世紀にかけてあるいはインド洋交易を掌握してきたアラブ系やスワヒリ系の人びとの手によってあるいは16世紀からインド洋にのりだしてきたヨーロッパ人の手によってアフリカ大陸から奴隷として連れて来られた人びとである。とりわけ、水田干拓の大規模公共工事に着手すると共に島内での軍事征服を押し進めたイメリナ王国には、18世紀から多数の奴隷が対岸のモザンビークをはじめアフリカ大陸から導入され、その結果、モザンビークに居住する一民族の名称に過ぎないマクアが、現代マダガスカルでは「黒人」に対する一般名称もしくは肌の色の黒さや頭髪の縮れといった「黒人的な形質」を指す名詞として用いられているのである。このため、マダガスカル人およびマダガスカル世界の成立および形成に関して、アフリカ大陸の人びとの関与や影響を過小評価するような見解も希ではない。そもそもマダガスカル人の知的エリート達の間には、インドネシアを筆頭とするアジアとの歴史的繋がりを誇りまたそれを探求し民衆に伝え教育しようとする文化ナショナリズムが顕著であるのに対し、アフリカやアフリカ人を「遅れたもの」「劣ったもの」としてマダガスカルという国や人が「アフリカに属する」ことを快く思わない傾向が、見られるのである。
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しかしながら、稲と並んでマダガスカルの風景をつくりだし、マダガスカルの全人口よりも多いと言われた牛は、東南アジアの農耕で用いられる水牛ではなく、背にこぶをもち乾燥や虫・寄生虫に強い熱帯牛のゼブ牛であり、その牛を指す全島で用いられているマダガスカル語の名称ウンビないしアオンビは、バンツー語族のンオムベに由来することからも、牛がアフリカ大陸からもたらされたことに疑いの余地はない。さらに、鶏(アクー、アコー)、犬(アンブア)、山羊(ウシ)、羊(ウンドリイ)も、その語源はバンツー語族にあると指摘され、家畜や家禽の多くが同様にアフリカ大陸からもたらされた可能性をもっている。栽培植物では、モロコシ(アンペンバ、アンペンビ)およびウリ(ヴアタング)は、原産地がアフリカである上そのマダガスカル語の名称もバンツー語族起源であることから、アフリカ人の手によってアフリカ大陸から伝えられたことを物語っている。土鍋(ヌング)、水瓶(サズア)、水差し(シーニ)なども語源は、バンツー語族もしくはスワヒリ語に遡ると言われ、土器の製作技術も、その一部はアフリカから伝えられた可能性を見過ごすことはできない。
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アフリカ系の人びとが、マダガスカル人およびその文化・社会に与えた影響として指摘されている習慣が、冗談関係および憑依儀礼である。前者の冗談関係(ジヴァ、ルハテニ)とは、特定の民族間に属する人びとの間において、日常生活や葬式などの際に互いに「冗談」や「悪口」を交わすと共に、儀礼や困窮時には今度は互いに助け合う習慣のことであり、対岸のタンザニアからモザンビークの諸民族の間でも類似の習慣が広く見出されるものである。後者の憑依とは、チュンバと呼ばれる亡くなったサカラヴァ王国の王や王族の霊の憑依を指し、もともとはサカラヴァ王国内部で、故王の霊媒を通した託宣として行われていたものが、20世紀に入って急速にサカラヴァという民族の枠を超えてマダガスカル全土に様ざまな状況に対応した治療儀礼として流行した経緯をもつものである。このチュンバ以外にもジンやシャイチュアンの憑依は、東アフリカから沿岸のスワヒリ文化の憑依儀礼の系譜に連なると指摘されている。
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しかしながら、アフリカ大陸とマダガスカルとの間は400キロに「すぎない」とは言え、モザンビーク海峡の海流は速く、これを渡るには、相応の航海技術が不可欠である。その場合、マダガスカルに最も影響を及ぼしたとされるバンツー系の人びとは、農耕牧畜民が大半で海洋航海技術を伝承していないため、その移住の年代および形態は、インドネシア系およびアラブ系の人びとの移住よりもさらに謎が多く残されている。一部の研究者たちは、バンツー系の人びととの接触および混血は、マダガスカル内部よりもむしろインドネシア系やアラブ系の人びとが移住の途中で滞在したであろうアフリカ大陸側で生じたとの説を主張している。
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