アラブ系の人びとの来島とその衝撃
 マダガスカルの文化と社会の中にも、8世紀以降インド洋に積極的に進出してきたアラブ系の人びとの影響と足跡を、北西海岸から北東海岸に残されたスワヒリの家や町の建築様式に類似し時にはモスクをももつかつての交易拠点の遺跡をはじめ、明瞭に認めることができる。そもそもマダガスカル人とおぼしき人びとが歴史上に登場するのは、10世紀にワクワクと呼ばれる人びとが東アフリカ沿岸を襲撃したとのアラビア語文書の記録を、嚆矢とするとも言われる。また、マダガスカルでは、自らの言葉であるマダガスカル語を書き記す固有の文字は、生みだされなかった。そのため、現在の公用マダガスカル語のアルファベットによる正書法は、19世紀初頭にイメリナ王国の王とお雇い外国人と宣教師団が協議のうえ定めたものであり、それ以前マダガスカル語はアラビア文字を用いて書き記されていたのである。このアラビア文字によって書き記されたマダガスカル語文書を、スラベと呼び、東南部のアンタイムルやアンタバフアカなどの民族の間において、幾世代にも渡って受け継がれてきており、その最も古いものは12世紀頃から14世紀にまで遡る王家の系譜を記載している。このスラベを保持してきた民族の間では、王族や貴族や様ざまな職能者集団がアラビア半島もしくはメッカからやって来たとの口頭伝承が、広く流布されている。もちろん、この口頭伝承をそっくりそのまま歴史的事実として肯定することはできないにせよ、アラブの慣習や恐らくはイスラム教をも身につけた人びとが、実体はアラブ人よりもペルシャ系やアフリカ系やインド系やインドネシア系の出身者もしくはそれらの混交集団であった事が多いとしても、10世紀頃から島の東南部や北西部の沿岸地帯を中心に居住していたことは間違いがない。
  そして、これらの人びとが、それまでのインドネシア系を中心とした移住者達の間に、文字に代表される様ざまな新しい技術や習慣そして観念を島にもたらしたのである。現在マダガスカルのお土産品を代表する「アンタイムル紙」の製紙技術は、当初はコーランを後にスラベ等を書き記す為にアラビア文字と共に伝わり、東南部の民族の間で受け継がれてきたものを、20世紀に入ってから入植フランス人が生花を一緒に漉き込むことを考案し装飾品として広めた「新しい伝統」にほかならない。また、現代の公用マダガスカル語で用いられる曜日の名称は、ほぼアラビア語の名称そのままであり、それと言うのも、マダガスカル人側が最も積極的に受け入れたアラブからもたらされた技術と習慣が、占いとりわけ暦法および占星術の体系を基にした「土占い」のやり方であったためである。このアラビア式の占いの暦法は、シキーデイと呼ばれる「土占い」とともに、現在ではマダガスカルのほとんどの地域と民族の間で行われている。先のイメリナ王国では18世紀に王が、東南部のアンタイムルの人びとの中から占い師やスラベを書き記すことのできる書記の人びとを召し抱えその技術の自国への導入を図ったことが知られており、ここ200年ほどの間にマダガスカル人の「好み」と適合して急速に「流行」した結果のようである。さらに、マダガスカル各地に存在する豚と豚肉に対する禁忌、アフリカから東南アジアまで広く行われている盤上ゲームのマンカラ(マダガスカル名カチャ)などもこの「アラブ」の影響を表しているが、何よりも現代マダガスカルの殆どの民族の間で行われている男子割礼は、これらアラブ系の人びとから広まった習慣と考えられている。その証拠に、東南部の民族の一つで祖先がメッカから来たとの起源伝承をもつアンタバフアカの人びとの間で現在でも七年に一回行われている割礼祭サンバチャは、かつてイメリナ王国においても同様な祭りが行われていたものの、イメリナ王国のそれは16世紀から17世紀頃に王国の外から導入されたことが伝承されているのである。また、研究者の中には、16世紀から17世紀頃にかけマダガスカル各地において東部のアンタイムル、中央高地のイメリナ、西部のサカラヴァをはじめとする王国や首長国の形成が活発化した事実から、「王国」と言う観念そのものが、これらアラブ系の人びとによってマダガスカルにもたらされたと主張する研究者もいる。
 しかしながら、習慣や技術として現代に至るまでの大きな影響を与えたアラブ系の人びとの来島も、結局その当時携えていたであろうイスラム教そのものは全くと言ってよいほどマダガスカル人社会そのものの中に定着することはなかった。その点では、インド洋交易によって得た富を基に意図的にイスラム教化を押し進めた、マダガスカルとよく似た人びとの歴史的形成過程を辿ってきた同じインド洋中のコモロ諸島とは対照的である。逆にマダガスカルではアラブ系の人びと自身が定住してゆく中で次第にイスラム教本来の姿を失って「マダガスカル人化」してゆき、習慣の断片としてのみイスラム教を伝える結果になったことは、そのようなアラブ系の外来者たちを宗教的技能者や政治的支配者として受け入れつつもイスラム教総体を拒否した当時のマダガスカル人の側のインドネシア系「基層文化」の確立とその厚さを、そこに見ることができるかもしれない。
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