稲作の風景と稲作以前 |
水田と稲作ほど現在のマダガスカルを、「アジア色」に染め上げている風景もないであろう。そればかりか、ご飯(ヴァーリ)とおかず(ラウカ、ロー)を対比させた料理品の分類方法、苗(ケツァ)・稲穂(サルーヒ)・糠(ムング)・籾(アクチュ)・焼き米(ラング)・粥(ススア、サベーダ)やおこげ(アンパング)といった単語の存在、小一時間を「ご飯が炊きあがるまでの間」(マハマサバーリ)と表現する慣用語句、また何よりもマダガスカル国民一人当たり赤ん坊から老人まで一年間に籾米200キロを消費している計算になる世界有数の米食民族であることを示す統計数値などは、マダガスカル人の米や稲作との深い結びつきをよく表している。さらにまた、歴史を遡れば、17世紀中央高地に成立したイメリナ王国の歴代の王の語り継がれている勲功のひとつが、アンタナナリヴ平野に広がっていたイクパ川やシサウニ川が造り出した沼沢地に堤防を築き排水路を掘削しながら進めた水田開墾であり、さらに19世紀以前のイメリナ王国の財政は王国民一人ひとりに対して給付された水田に課せられた収穫米の半分の納付という税によって支えられていたのである。ところがここにも、マダガスカル世界形成の複雑さが顔を表す。すなわち、当のイメリナ王国についての19世紀にまとめられた歴史伝承集が、メリナ系の人びとがアンタナナリヴ平野に進出してきた16世紀頃そこではまだ稲も稲作も知られていなかったと語っていることである。
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フランスの稲作研究者の一人は、マダガスカルにおける稲と稲作の伝播と普及について、自らの調査成果に基づきながら次のような段階を推定している。
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1.10世紀から12世紀頃、新しくやって来たインドネシア系集団もしくは「アラブ−イスラム」系集団が島の北西部から北東部にはじめて稲と稲作をもたらした。
2.その人びとの島内での移動に伴い稲作は、ヨーロッパ人たちが島に来た16世紀までに、東部海岸一帯と北西部海岸一帯に普及した。
3.中央高地に居住していたメリナ系の人びとが、東部海岸ないし北西海岸から稲と稲作を受容し、王を頂点とする政治統合を基盤に大規模公共土木工事を行い、16世紀頃から水田稲作を急速に発展させた。
4.18世紀までに稲作は、年間降水量800ミリを下回る島の南西部から南部一帯を除いて、広く行われる様になり、牛や奴隷とともにマダガスカルからの海外との主要な交易品となった。
5.19世紀のイメリナ王国の島内各地の征服に伴う領土の拡張とメリナ系の人びとの入植は、灌漑稲作法を各地に普及させた。
6.20世紀に入り、「植民地の平和」の許で東南海岸部に住み人口の増加圧を生じていたアンタヌシ系やアンタイサカ系の焼き畑耕作民の人びとが、土地を求めて人口の希薄だった西部から西南部一帯に移住をはじめ、それに高地のベツィレウ系の人びとも加わってこの地方での稲作が進み、ほぼマダガスカル全島を稲作の風景が覆うようになった。
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ここでもまた稲と稲作は、マダガスカルに最初にやって来たインドネシア系の人びとの「古層」や「基層」とは結びつかないのである。確かに、栽培されている稲の品種そのものがアジア稲の中でも東南アジア島嶼部と共通するインディカ種およびジャワ種であること、水を張った水田の中で牛群を行き来させることによって田拵えを行う踏耕ないし蹄耕、小型のナイフを用いた穂刈りと穂刈りした稲穂を高床式の米倉に貯蔵しておく技術、掘り棒の先に鉄の刃を付けたと思われる道具(アンガディ)による水田の耕起、そしてまた稲作もしくは稲に関わる儀礼の存在など、マダガスカルの稲と稲作に東南アジアの稲作の系譜を色濃く認めることができる。けれども、その稲作儀礼にしても、東南アジアのように稲そのものに霊的な存在の宿りを認めこれに働きかけるとの観念は、報告されていない。マダガスカルの稲作儀礼の細部は地域や民族ごとに異なっているものの、その土地に棲まう土地の霊もしくはその土地や水田を拓いた祖先を豊穣の働きかけの対象と置くことでは共通しており、「稲作儀礼」と呼ぶよりはむしろ「土地儀礼」と呼ぶことのほうが適切である。このこともまたマダガスカルの農耕において「稲作以前」の期間が存在し、相当期間存続していたことを示すものと考えることができる。
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では、マダガスカルにおける「稲作以前」に栽培されていた、すなわち最初のインドネシア系の移住者たちが携えてやって来たと推測される作物とは、何であろうか。マダガスカルには、数多くの固有の植物が生育しているが、現在食用とされている栽培作物は、全て外来のものであり、固有植物の中から選抜されて食用として栽培されるようになったものは知られていない。稲はアジア原産、マニオク(キャッサバ)・トウモロコシ・サツマイモ・ジャガイモ・インゲン・ライ豆・落花生はアメリカ原産、モロコシ・ササゲ・バンバラ豆・ウリ・スイカはアフリカ原産であり、アンタナナリヴの市場を彩る豊かな野菜や果実もまた様ざまな年代に海外から持ち込まれたものに他ならない。それらの中で、「稲作以前」に属する可能性のある栽培植物を求めるとするならば、ヤム芋(山芋)とタロ芋(里芋)、それにバナナがその有力候補であろう。いずれの植物も東南アジアから南アジアが、原産地もしくは栽培センターである。ヤム芋は、マダガスカル各地で栽培もしくは野生状態での生育が見られるが、現在では19世紀にヨーロッパ人によって持ち込まれたジャガイモの生産量にもおよばないものの、そのウヴィというオーストロネシア諸語で広くヤム芋を指すのと同じ単語が全島で用いられていること、および根茎を食べる種類からむかごを食べる種類まで多様であること、栽培から半野生または野生状態のものまでひとつの地域において見られることなどから考えて、古い時代からの栽培を想定させる。バナナは、全島で栽培されているとともに、生食用種から調理用種、一説では根茎に蓄えられた澱粉を食べるエンセーテ種まで極めて栽培品種が多く、東部地方では現在でも焼き畑もしくはその跡地における栽培植物として重要であることもヤム芋と共通している。唯一の相違点は、バナナには、島内でも様ざまな呼び名があることであり、東部地方の(フ)ンツィはオーストロネシア語族に由来する一方、中央高地のアクンヂュはスワヒリ語に由来すると指摘されその他にも北部のカタカタ・南部のキダなどがあり、マダガスカルにもたらされた年代および導入し栽培した集団の起源が重層的であった可能性を、示唆している。タロ芋は、比較的雨量の豊富な中央高地から東部地方に栽培が集中しているものの、タロ芋も呼び名(スンズ、サホング、タフ、サフンビアなど)および栽培品種が多い点で、バナナと類似している。タロ芋がオーストロネシア語族の人びとの移動に伴って東南アジアから太平洋地域に栽培が広まったことで有名な作物であることを考え合わせれば、稲作以前にインドネシア系の移住者たちがこれを持ち込んだとしても不思議はない。その一方、バナナと同じく名称が多様性に富んでいることから、同じ年代に同じ集団によって持ち込まれたのではなく、栽培化の起源が複数あったことを想定するべきであろう。この他にも、サトウキビ(ファーリ、西部ではフィシキャ)とココヤシ(ヴォアニウ)は、全島で栽培されるとともにほぼ同一の呼び名が用いられ、何れも太平洋地域から東南アジアを原産地とし持ち運びも容易であることから、やはり古い時代にインドネシア系の移住者たちによって持ち込まれたものと推測される。さらに、マダガスカル語で酒を指すトウアカの語が、スマトラやボルネオの島じまではヤシ酒を指すとともに、ココヤシの実を指すヴォアニウがオーストロネシア諸語でヤシの樹を指すニウに由来することは、両者がセットとして、島にもたらされた可能性を示唆していると言えよう。
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