マダガスカル 過去と現在との対話が織りなす世界
初出:「マダガスカル断章 マダガスカル 過去と現在との対話が織りなす世界」
『季刊民族学』1998年 86号 pp.14-33 を基に一部加筆・修正
赤い大地に刻まれた歴史
  高度を下げ始めた飛行機の窓から見渡されるマダガスカルの大地の眺めは、旅人に最初の鮮烈な印象を与える。とりわけ、4月から11月の乾季の大地は、まばらな樹影を見つけることさえ難しく人の定住を厳しく拒絶するかのように所々に浸食の鋭い谷や崖を刻みながら、あるいは赤茶けあるいは白く乾ききっている。12月から3月の雨季に訪れた旅人は、山野を覆う草の緑にまだしもやすらぎをおぼえるやもしれない。が、今度は雨をはやしながら大地を削り流れゆく泥土の奔流の赤さに驚かされる。いまや日本の1・6倍の面積をもつマダガスカルの広大な大地に残された森林はわずか8パーセントにも満たない。空港から首都アンタナナリヴに向かう沿道に展開する風景もまた、新たな印象を旅人に印す。機内から見た大地の様子そのままに真っ赤なラテライトの大地とその土を固めて築かれた赤い土塀の連なり、低地に広がる畦によって整然と区画され手入れの行き届いた水田、ヨーロッパの農村と見まがうようなバルコニーを設え瓦を葺いた煉瓦づくりの二階建ての家々と教会堂を中心とした町並み、東南アジアの街角に立っていても誰も振り返ることもないような人びとの顔立ち、そして活気はあるものの肉やらコーヒーやら揚げ物の油やら飯のお焦げやら塵やらの臭いがない交ぜとなって漂ってくる小さな店や市場。そのひとつひとつは世界の何処かで出会うことができるものの、全体はその何処とも違う風景。
  このアンタナナリヴの町を記録した19世紀の銅版画や写真は、剥きだしの丘に家々だけが並ぶさまを写しだし、そこに樹木の姿はほとんど見あたらない。そのため、19世紀前半に町を見下ろす丘の上にお雇い外国人に命じて王宮を建立させたイメリナ王国の女王は、その高さ39メートルに及ぶ中柱の巨木を、百キロも離れた東部の森林から切り出し2000人もの奴隷を使役して運ばさせたと伝えられる。ところが、アンタナナリヴの町は17世紀頃までアナラマンガ、すなわち「蒼い森」と呼ばれ、19世紀後半にフランス人神父の手によって編纂された口頭歴史伝承集も、その昔メリナの人びとがアンタナナリヴ平野一帯に進出した当時丘は森に覆われ、低地にはイクパ川などが造り出した氾濫原の沼沢が広がっていたことを語っている。それから200年から300年の間に人間は、森を切り開き家を建て焼き畑を作り炭や薪を取り、沼沢を水田に変えていった。このようにマダガスカルの景観や「目に見えるもの」はしばしば人を誤らせ欺く。そこでは「古い」と見えるものが「新しく」、「新しい」と見えるものが「古く」、今そこにあるものの中で、1500有余年の人の営みの歴史の変遷をくぐり抜けてこなかったものはひとつとしてない。ここは、アジアでもなく、アラビアでもなく、アフリカでもなく、ヨーロッパでもなく、しかしそのいずれの過去とも切り離して現在を語ることの出来ないインド洋海域世界が造り出したまぎれもないひとつの世界、マダガスカルなのである。
マダガスカル世界の成立とインド洋海域世界
  方言差を伴いながらも全島の人びとの間で用いられ相互に通話可能なマダガスカル語がオーストロネシア語族の中のインドネシアやフィリピンの島じまの人びとの言葉と同じヘスペロネシア語派に属すること、中央高地においてとりわけ顕著であるものの全島で見出される人の容貌の南方モンゴロイド的な特徴、年間降水量800ミリを下まわる南部地方を除いて島を特徴づける風景をつくりだしているアジア稲を用いた水田と焼き畑の双方における稲作、東部海岸地方で見出される高床式の米倉、吹き矢や双胴のふいご・竹の表皮を剥いでことじをたて弦とした竹琴など東南アジアの島嶼部で用いられているものとそっくりそのままと言ってよい道具の数々、絣や絹・天蚕といった織布の技術、マダガスカルの人びとと東南アジア島嶼部の人びととの眼で見ることの出来る繋がりだけでさえ、マダガスカル人の祖先の集団の一部がインド洋を渡ってやって来たことを雄弁に物語っている。しかしながら、16世紀にヨーロッパ人たちがマダガスカルに進出してきた当時既に8000キロ以上にわたるこの壮大な人の移動は終了していたために、移住の実態と細部については多くの謎が残されている。何時頃マダガスカル人の祖先達は何処の故郷から出発したのか、どのような航海技術を用いてインド洋のどのルートを渡ってきたのか、何人の人が一回の航海で何を携えて海を渡りそのような航海と移住が幾たび繰り返されたのか、そしてなぜ遠く離れた無人島のマダガスカルにまでやって来なければならなかったのか?
  そもそも、現在のマダガスカル人の大多数が農耕民ないし農耕牧畜民であり、海とは無縁の生活を営んでいる。もちろん、南西部の海岸地方でアウトリガーカヌーを操りながら漁労生活を営むヴェズの人びとの中に、かつてのマダガスカル人の祖先達のオーストロネシア人としての勇壮な海洋民の姿を見てとることができるやもしれない。しかしながら、このヴェズの人びとでさえ星などを用いての長距離航海の技術を伝えてはいないばかりか、だいいちそのカヌーはすばらしい速度がでるものの船底には足ひとつ入らないため遠洋航海には全く不向きなのである。とは言え、ヨーロッパ人が進出する以前のインド洋が、沿岸漁労民だけにとっての生活領域であったと想像することはこの世界のもつダイナミズムを不当に軽視することであり、活発な商業や交易の展開される世界であったことは歴史的事実として疑いようがない。紀元1世紀頃にエジプト系の船乗りによってギリシャ語で書かれた『エリュトウラー海案内記』には、紅海からペルシャ湾・アラビア海からベンガル湾にかけ既に金銀・ガラス製品・象牙・香料・真珠・亀甲といった奢侈品から麦・鉄製品・銅・綿布などの生活用品そして奴隷といった多様な産品が海上輸送によって地域間で盛んに流通・交換されているさまが描かれている。その交易網の広がりは、当時既に東は東南アジア、西は東アフリカのザンジバル付近までをも覆っている。マダガスカル語のなかにインドのサンスクリット語に由来する語彙がジャワ語などに比べて少ないことは、マダガスカル人の祖先が、東南アジアへのインドの文化的影響が強まる6世紀から7世紀頃までに故郷のインドネシアを旅だった可能性を示す証拠とされている。また、マダガスカル語諸方言の言語年代学による分析もおよそ1500年から1600年前に全ての方言が一つになることを推定しており、マダガスカル人の祖先の第一波のインドネシアからの旅立ちを、このインド洋交易網の存在と重ね合わせることができよう。
 その後このインド洋交易網は、アラビア人が海に積極的に進出してくる8世紀以降より一層活発化してゆく。ポルトガル等のヨーロッパ人が海上の覇権を握る16世紀以前にいかに整然とした交易や取引の秩序がこの海域世界一帯に広く確立し、定期的な海上航路網が発達していたかについてのありさまは、14世紀のモロッコに生まれ西アフリカから東アフリカ・中央アジアから南アジア・東南アジアそれに中国までを旅したイブン・バットウータによる著名な旅行記に詳しい。さらに、15世紀には明の永楽帝が鄭和を提督とした船団を7回にわたってインド洋に派遣し、その分遣隊は東アフリカ沿岸のモガデイシオからマリンデイに帰港している。16世紀に、ポルトガルの船団に初めて接した東アフリカの人びとは、鄭和のそれと比べ船と贈り物ないし交易品双方の貧弱さに驚いたと伝えられている。
「クレオール語」としてのマダガスカル語
  このように、マダガスカル人の祖先たちが勇壮で冒険的ではあるものの行方定めぬ航海の末にアジアから辿り着いたというよりも、この古代から中世にかけてのインド洋交易網に沿って重層的な移住を行い、その結果現在のマダガスカル人に見ることの出来るような形質的また文化的混交を生みだしたと考えることのほうが適切であろう。したがって、この交易網がインド洋に臨む様ざまな地域の様ざまな人びとによって担われたのであるならば、ひとりインドネシア系の人びとのみならずそれらの多様な地域の人びともまたマダガスカルにやって来たと考えるべきであろう。しかしその一方、現代のマダガスカルの人びとのあいだに多様性や混交性だけではない、共通性や斉一性が存在することもまた否定しえない事実である。このことは、マダガスカル語が、語彙のなかにインドのサンスクリット語やアラビア語・ペルシャ語それにアフリカ沿岸部のスワヒリ語もしくはバンツー系の言語に由来する単語を数多く含んでいるにもかかわらず、文法および語彙の面からみてオーストロネシア語族ヘスペロネシア語派に属する事実に典型的に示されている。これらの点から、無人島であったマダガスカルに最初にやって来た人びとは、インドネシア系の人びとであり、それらの人びとが人口上も占有面積上もマダガスカル人の「基層」を形成し、その「基層」からそれぞれの集団が定住した島内の生態環境ー歴史的状況に応じて「民族」としての個別性を生みだしていったとする学説が、有力視されるのである。そうでなければ、この広大な島でヨーロッパ人たちがやって来た当時、既に各地でマダガスカル語が遍く用いられていた事実を説明することは難しい。
  ところが、ここにもマダガスカル人とマダガスカル世界の形成をめぐる逆説と難問が横たわっている。すなわち、島内の諸民族の中でも最も南方モンゴロイド的な容貌が顕著であり、その移植や灌漑水系制御を伴ったきめ細かい稲作技術とともにマダガスカル人の「アジア的」もしくは「インドネシア的」特徴を最も良く示す民族と紹介されるメリナ系の人びとが、実際にはインドネシアから最初に島にやって来人びとの末裔どころか逆に島内でも一番最近にやって来た集団に属することが研究者によって指摘されているからである。その顕著な「インドネシア的」な特徴は、インドネシアから途中経由や途中滞在の少ないルートを辿って「近年」になってマダガスカルに移住して来た比較的人数規模の大きな集団という事柄に由来し、決して「マダガスカル人」の共通の基盤を与えた「基層」や「古層」に属することに由来するものではないと主張されているのである。現在教育や官報や放送で用いられている公用マダガスカル語は、メリナ系の人びとのメリナ方言を基礎に作られており、そのためメリナ方言が全島に行き渡りあたかもマダガスカル語の「代表」のような印象を与えている。しかしながらこのことは、いつに19世紀のイメリナ王国による島の征服と王国内におけるキリスト教宣教団の支援をえて広まったメリナ方言による識字教育と学校制度の普及およびその後のフランス植民地政府によるイメリナ王国下における教育政策を受け継ぎながら整備された学校教育制度の確立という政治的な出来事に根ざしている。この19世紀以降に展開された政治的な側面を別にした場合、むしろメリナ方言を最大話者人口とする中央高地方言群のほうが、他の方言群と比べ発音・語彙・統辞法などの面で異質性が際だっていると言えよう。とりわけ、統辞法の面において中央高地方言群はヘスペロネシア語派に属する諸語と共通する細かい規則が多く、それに対し東部方言群や南部ー西部方言群では統辞法に関する規則がゆるく、語彙や発音などの違いを超えた「クレオール的」な性格が共通して見出されるのである。このことから、マダガスカル語は、当初島の沿岸部において最初にやって来たインドネシア系の人びとの言語を基に「ピジン語」ないし「クレオール語」としてインド洋の様ざまな地域からやって来た人びとの間で共通に用いられながら普及した後、一説では12世紀から14世紀頃に島の北東部のアントンジール湾内に上陸したメリナ系の人びとが当時はほとんど無人であった中央高地の内陸部に15世紀から16世紀に進出し、自らのインドネシア系の言語を核としつつも既に「クレオール語」として通用していた「原マダガスカル語」を受け入れながらメリナ方言を成立させていったのではないかとの仮説が、近年では有力視されているのである。

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