II.ラルフ・リントンのマダガスカル調査と文化領域の設定

  1. Ralph Linton(1893―1953)のマダガスカル調査
     「リントンはフィールドワーカーであり、かつまたパーソナリティ理論を中心とする理論人類学者であった。時期的にいえばフィールドワークは前半の段階に集中しており、後期は理論的な研究が主体であった。リントンが人類学的調査を実施したのは、すでにのべたようにアメリカ・インディアン、ポリネシア・マルケサス諸島、アフリカ・マダガスカル島の三地域に集中している。アメリカ・インディアンの調査が断続的に数回行われたほかは、マルケサス諸島もマダガスカル島も一回だけの調査であった。第一のアメリカ・インディアンの調査は考古学的な調査であり、また第二のマルケサス諸島の調査も焦点は物質文化に集中している。ところが第三のマダガスカル島調査は、物質文化のみならず、社会組織・宗教など広い人類学的関心を示す調査となっている。この意味においてマダガスカル島の調査は前二者の調査とはいちじるしく異なった性質をもち、またこのことはのちのリントンの幅広い文化人類学的な視点に連なるものとして重要な意義をもつと考えられる。マダガスカル島の調査は1925年10月シカゴを出発し、1927年秋に帰国するまで約二年間にわたって行われ、その結果は民族誌『タナラ族−マダガスカル高地部族−』(1933年)として刊行されている。この二年間にわたってリントンはマダガスカル島のほぼ全域を踏破し、タナラ族のみならず、ベツィレオ族、シハナカ族、サカラヴァ族、アンタイモロナ族(アンタイムル)、バラ族など十一の部族の調査を行っている。このうちタナラ族の調査は、最後の二ヶ月を要して行われている。マダガスカル島をフィールドとして選定した理由としてリントンは、第一に多くの点にわたって古代の習俗が残存し、かつヨーロッパ文化との接触が極めてわずかであること、第二にマダガスカル島はマラヤ族(オーストロネシア語族ないしマロヨ・ポリネシア語族)が最も西に居住する地域であり、古代のマラヤ族の文化を明かにしうること、第三にマラヤ文化とアフリカ文化の接触を明らかにしうる可能性がある、の三点をあげている。このタナラ族調査報告は文化人類学の極めて広い分野を網羅している。十五章にわかれた全篇は、序説、概況、タナラ原住民、今日の部族の構成と起源、経済生活(食物資源、料理、アルコールと麻酔薬、手工業、住居、衣、通商、財産と相続)、社会組織(家族、リネージ、村落、氏族、社会階梯、婚姻、親族名称)、政治組織、宗教(信仰、死と埋葬、祖先崇拝、邪術)、武器と戦争、遊戯、芸術、通過儀礼、諺、伝説、戦争など幅広い内容をもつ民族誌となっている。記述はあくまでも事実の提示に力点がおかれており、説明は簡潔であって、特に全体的な結論も示されていない。またこの民族誌は幅広い内容を含みながらもパーソナリティの分野については全く記述がない。しかしこの点については、1939年にカーディナーの編集した『個人とその社会』におさめられた「マダガスカルのタナラ族」と題する論文で分析されているから、パーソナリティについても関心をもちつつ調査をすすめたことは明かである(なお同じ論文集にリントンはマルケサス島民のパーソナリティの分析も行っている)」(上野和男「リントンの理論」蒲生正男編著『現代文化人類学のエッセンス 文化人類学理論の歴史と展開』ぺりかん社 pp.209-210(  )内の説明文等は、引用者のもの)。

     1895年フランス軍、イメリナ王国の都アンタナナリヴを占領、イメリナ王国を保護領とする。
     1896年フランス共和国議会による、マダガスカル領有化の議決。
     1897年イメリナ王国廃止宣言とラナヴァルナ女王の島外追放。
     1901年原住民司法制度施行。<マダガスカル人>は、フランス共和国市民ではなく、臣民(sujet)として法的に身分規定される。
     1914年−1918年第一次世界大戦 マダガスカルからは41000人がマダガスカル人連隊として参戦、4000名の戦死者をだす。
     1915年マダガスカル人民族主義的フリーメーソン団V.V.S.の摘発。
     1915年−1917年牛頭税の引き上げに反対する南部農民によるサディアヴァヘの反乱。
     1921年アンタナナリヴとタマタヴでペスト流行。差別的防疫措置の実施。
     1922年フランス軍退役軍人ラライムングによるフランス市民権獲得運動の開始。
     1925年10月リントン、シカゴを出発。フランス短期滞在、マルセイユを経由。
     パリの植民地省において、前のフランス全権公使Gabriel Ferrand(下記説明を参照)と会い、マダガスカルについての民族学的また現地情報を得る。

     Gabriel Ferrand(1864−1935):「1864年1月22日Paul Gabriel Joseph Ferrandはマルセイユに出生、その後パリで学び、東洋語学校でマレー語の学士号を修得した。外務省領事部所属中に、最初タマタヴ(1887年3月16日)、次ぎにマジュンガ(1888年5月25日)、最後にマナンザーリ(1890年4月8日)に勤務。1891年、彼の最初の著作『マダガスカルとコモロにおけるイスラム教徒』を出版。彼は、アラビア文字−マダガスカル語手稿を解読した。以上の他にも、彼は副領事としてマジュンガに(1895年7月)、次ぎに代理公使としてタマタヴに(1896年1月)滞在した。このマダガスカルにおける10年間の滞在は、彼にマダガスカル語の修士号を与えた上、マレー語との比較を可能となした。・・・パリに5年滞在する間に、彼は学士論文『マレー語とマダガスカル語方言の比較音韻論的考察』で文学士号を取得、出版した。・・・1918年4月1日外務省本省に配属となり、1920年公職を引退した。1935年2月3日、逝去」(Hommes et destins (Dictonnaire biographique d'Outre-Mer) MADAGASCAR Tome III, 1979, Paris:Publications de L'Academie des Sciences d'Outre-Mer, pp.199-200)。

     ⇒リントンのマダガスカルにおける行程や調査地の選択には、パリで会ったこのフェランによる情報提供が大きな影響を与えたものと思われる。『タナラ族』の前書きの最後においても、最初にフェランに対し謝辞が献呈されている。

     1926年1月リントン、マダガスカルに着く。
     同   年  SMOTIG「公共工事のための労役」制定。1927年からSMOTIGによるフィアナランツアとマナカラ間163kmの鉄道敷設が始まる。

     リントンのマダガスカルにおける足跡:1926年1月Tamatave港到着→総督府の所在地Tananarive(2ヶ月滞在)→Ambositra(Betsileo族)→Alaotra湖(Sihanaka族)→7・8月Antongil湾からAmpanihyまで踏破(Betsimisaraka族,Tsimihety族,北Sakalava族)→AmpanihyからMajungaまで航海→Tananarive→Kandreho(中央Sakalava族)→11月TamataveからFarafanganaまで(Pangalana水路を)船で移動→2ヶ月間Antaifasina族とAntaimorona族の調査→1ヶ月Fort-Dauphin滞在→Fort DauphinからTulearまで踏破4月Tulear到着 1ヶ月間Vezo族とSakalava族の調査→Betroka(Bara族)→Ambalavao(Betsileo族)→2ヶ月間南Ambohimanga滞在(Tanala族調査)→Tananarive→1927年Tamatave 港から帰国。

     1927年秋リントン、マダガスカルを離れる
     1929年フランス市民権の獲得と原住民司法制度廃止を求めるマダガスカル人の街頭行動がタナナリヴにおいて発生。

     「タナラ族は、その文化が多くの点において原始的(archaic)であり、かつまた現在なおヨーロッパ人との接触による影響をほとんど受けていないために、シリーズの最初の一冊として出版されることとなった。そのほかの部族についての民族学的著作は、順次発表される予定である。マダガスカルは、マレー民族学に対する自然史博物館の以前からの関心の一環として調査地に選ばれた。この島はマレー民族の最西端の到達地であり、そこにおける調査は、初期マレー文化をより明かにするものと期待された。その他にマダガスカルには、マレー人の定住やマダガスカルとアフリカ双方におけるマレー文化とアフリカ文化との実際に起きたであろう相互影響にかかわる、多くの解けない問題が残されている。これら諸問題の最終解決にはより多くの比較研究を待つしかないが、マダガスカル島へのマレー人の定住の方が古く、その結果マレー文化がこの島にあるアフリカ型の新しい諸文化に先行することの兆候は数多く存在する」(Ralph Linton, The Tanala a hill tribe of Madagascar, 1933, Chicago:Field Museum of Natural History, p.15)。
     「タナラ・メナベの文化は、ほとんどの細目において依然として一貫性を保っており、比較的最近になって高地からこの地方に移住してきたザフィマニリ族が、唯一の例外である。他のマダガスカル諸文化と比べた時、タナラの文化は割合単純であり、かつまた原始的(archaic)であると私は思う。多くの点において、タナラ族の文化は、その伝統に示されるように、より進歩した部族の古い文化と極めてよく一致する」(Ralph Linton, ibid., p.19)。

     ⇒リントンは、マダガスカル調査の最後の2ヶ月で行ったタナラ族調査の結果を、なぜ最初の民族誌として刊行したのか?(当初予告されていたタナラ族以外の民族についての報告や民族誌は、これ以降公刊されることはなかった)。

     ※ 多様な起源の小集団が山岳森林地帯にまとまって混住するタナラ族とその文化には、フランス植民地化以前のマダガスカル文化全体が凝縮されている、あるいはタナラ族の文化は古いマダガスカル文化の原型であると、リントンが考えていたことがうかがえる。

  2. リントンのマダガスカル関連著作一覧
       1)1927 “Report on work of field museum expedition in Madagascar from January to September 9, 1926”, American Anthropologist Vol.29 No.3 pp.292-307.
     2)1927 “Rice, a malagasy tradition”, American Anthropologist Vol.29 No.4 pp.654-660.
     3)1927 “Witches of Andilamena”, Atlantic Monthly No.139 pp.191-196.
     4)1928 “Culture areas in Madagascar”, American Anthropologist Vol.30 No.3 pp.363-390.
     5)1928 “Market day in Madagascar”, Asia Vol.28 No.5 pp.386-389.
     6)1930 “Use of tobacco in Madagascar”, in Tobacco and its Use in Africa, Field Museum Leaflet no.29 pp.38-43.
     7)1933 The Tanala a hill tribe of Madagascar, 1933, Chicago:Field Museum of Natural History
     8)1939 “The Tanala of Madagascar”, The Individual and His Society, by Abram Kardiner, New York:Columbia University Press, pp.251-290.
     9)1939 “Culture sequences in Madagascar”, Transactions of the New York Academy of Sciences No.7 pp.116-117.
    10)1943 “Culture sequences in Madagascar”, Studies in the Anthropology of Oceania and Asia in memory of Roland Barrage Dixon, Cambridge: Peabody Museum, pp.72-80.

  3. 『タナラ族 マダガスカルの山地民』1933年 総計334頁 の目次抄
    I.序論
     II.地域の自然
     III.タナラの原住民
     IV.現在の部族の構成と起源
     V.経済生活
      食料資源
      食事の準備
      アルコールと麻薬
      生産品
      住居
      衣服
      運搬
      交易
      森林産物
      財産と相続
     VI.社会組織
      家族
      リニージ
      村落
      氏族
      社会階層
      婚姻規制
      レヴィレート
      持参財の重要性
      階層間婚姻とランクの継承
      関係名称
     VII.統治組織
      メナベ地方
      イクング地方
      メナベ地方の法体系
     VIII.宗教
      信仰
      死と埋葬
      祖先崇拝
      ウンビアシ
      邪術
      ファディ
     IX.武器と戦争
      武器
      戦争
     X.娯楽
      玩具とゲーム
      楽器
     XI.芸術
     XII.個人の一生
      受胎
      妊娠中の禁忌
      出産
      胎盤の始末
      子供の運命
      命名
      子供の世話
      割礼
      私生児の地位
      孤児
      養子
      絶縁
      親の権威
      幼少期
      思春期
      子供の家
      貞操
      インセスト
      女装者
      結婚
      婚約と結婚の儀式
      複婚
      離婚
      再婚
      血盟キョウダイ
      老年
      自殺
      死に対する態度
     XIII.諺
     XIV.伝説
     XV.タナラ・イクング地方の戦争
      タナラ−フヴァ戦争
      タナラ−フランス戦争

        ⇒ボアズとその弟子たちが、アメリカ先住民の調査を遂行してゆく中で、洗練していった質問票ないし調査項目表が、リントンのマダガスカル調査においても活用されたことをうかがわせる。

  4. リントンのマダガスカル文化領域区分
     1928年 “Culture areas in Madagascar”, American Anthropologist Vol.30 No.3 pp.363-390.

     「事実上、マダガスカルについて論じている全ての人間は、この固有の文化は島じゅうで同質である(uniform)ことを何の根拠もなく(a priori)前提としている。実際には、単一の部族ないし単一のクランが行ったり信仰しているだけにもかかわらず、<マダガスカル人>はかくかくしかじかの事をしたり信仰したりしているとの言い方を、しばしば耳にする。この種の誤りは、おそらく島の大きさおよびごく少数のヨーロッパ人だけが島全体を知悉していることに起因するものである。私自身も、島における最初の一年間の滞在を単一の文化領域の内部だけでほぼ費やした結果に影響され、島の文化は驚くほど同質であると述べる過ちを犯してしまった。・・・
     混合文化に属する幾つかの少数部族を含むにせよ、マダガスカルではかなりはっきりと複数の文化領域を区分できるように思われる(10ページ 図1参照)。島の主な地理的区分および気候区分(11ページ 図2参照)とほぼ一致するこれらの文化領域は、次の通りである;

     1.東部海岸領域:一部は北部域にも入る。ベツィミサラカ族および南部地域には、<アンタイムルナ>の名称のもとに誤って一括される多数の小部族が居住する。
     2.高原領域:ベツィレウ族、イメリナ族(普通フヴァと呼ばれる)、シハナカ族が居住する。
     3.西部海岸・最南部領域:サカラヴァ族、マハファーリ族、アンタンドゥルイ族、バラ族が居住する。

     タナラ族とベザヌザヌ族は1の東部海岸領域と2の高原領域の中間の文化に入り、一方北部のアンタンカラナ族とツィミヘティ族および南東部のタヌシ族は、1の東部海岸領域と3の西部・最南部領域の間に入る」(R.Linton, 1928, pp.363-365.)。

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