IV.1998年 1月 9日の集会の会話資料と分析

  この日のヴリアは、男性のみならず女性をも招集して夕食後の午後8時過ぎ頃から開かれ、参加者は100名をゆうに超していた。討議された事柄は、稲作が行われる農繁期の1月から5月頃まで農耕に使用しない牛を放牧しておくための土地キザーニ( kijany )を囲む柵をムラで共同で建設する際の各自分担分の終了期限と自分たち独自のキザーニを持っているためムラのキザーニの柵の建設に加わらない人間に対する制裁措置の可否、小学校を運営する<父母会>(FRAM)に対する小学校の教員側からの教員住宅の屋根の葺き替え等の要望、そして正月の期間に喧嘩や暴力沙汰を引き起こした人間の認定と罰金の言い渡しなど多岐に渡り、そのためヴリアにおける討議全体は3時間以上に及んだ。
  この日のヴリアにおいて最も紛糾した事柄が、正月の間に主として酒に酔って喧嘩や暴力沙汰を引き起こした人間を個別に認定し、その人間にムラが定めた罰金、白米およそ15kgに相当する25000FMG、を科す討議であった。屠った豚や牛の肉を食べ、酒を飲み、ありあわせの音楽にあわせて踊ったりして三日間ほどを過ごすのが、この地方の正月の習わしである。しかし、乾季に行われることの多い<祝い事>(tsaboraha)の際と並んで、正月はまた多量の飲酒に基づく暴力沙汰やもめ事が、多発する時でもある。この討議が難航した最大の原因は、ヴリアの場に名前を挙げて訴追された人間がしばしば「名指された当人達以外誰もその場を見たものはおらず、確かめようが無いのだから、訴追は不当である」もしくは「自分は確かにそれを犯したが、誰それも同じようなことを行ったと聞くのにその人間がこの場に訴追されていないことは納得できない」と発言したことである。そのような発言がなされた場合には、「誰かその現場を目撃した者はいるのか?」、「誰がその場に居合わせたのか?」、「誰がそのことを何時誰から聞いたのか?」の検証を個別かつ具体的にあらためて行うこととなり、そしてその検証はしばしば事件を引き起こしたりかかわったとされる人間とその家族以外に現認した人がいないという<家庭>や<家>なる「藪の中」に迷い込んで終わる結果となった。そしてそのことが、ムラという公的領域と<家族>や<家庭>という家内的領域との接合点と範域をめぐる次のような一群の会話を生みだしたのである。
A- 1:Nihinaha(1) mikasika ny oloña na dia hely raiky , ninin'iPôpy zany , aminaha(2) zany adin'drano(3).
  ポーピの母親という一個人とは言え彼女についての私の考えは、そのことは私には、家内のもめ事です。
Araiky zankan'olona , araiky iadan'ny oloña .
Ke raha tiako amin'zany , ieraha zany ,
tsy tokony hirana aketontsika(4) .
一方はその子供について、もう一方はその父親についてです。ですから、私たちが共にそれについて望むことは、私たちがこの場で頭を悩ますべきではないということです。
Ia . Asa , zany tsy reny ? Rabe zany tsy poetsika(5) ,tsy haona .
そうなんです。さあ、そのように聞いてはいませんか?その事柄を、ここに持ち出すことも、共に扱うこともないのです。
Aza mihomehy , indray poetsika aminareo ke(6) .
笑わないでください、またあなたたちに降りかかるわけですよ。
 
(1)  nihi-は、所有や所属を表すツィミヘティ方言の接頭辞(Faridanonana 1977 p.83)。nihinahaもしくはnihinahyは「わたしのもの」を表し、ここでは「私の考え」の意。
(2) aminahaもしくはaminahyは、「わたしのところで」・「わたしのもとで」・「わたしにとって」を意味するツィミヘティ方言(Faridnonana 1977 p.10)。
(3) ady「争い・もめ事」とadarano「家内で・家で」二語の複合語で、「家内のもめごと」の意。
(4) aketo「ここで」と-tsika「わたしたちの」二語の複合語で、「わたしたちがこの場で」の意。
(5) poetsikaないしpoetsikyは「毀れる」・「噴き出す」を意味するツィミヘティ方言(Faridanonana 1977 p.89)。ここではヴリアで討議される問題となることの意。
(6) メリナ方言のkaに相当するツィミヘティ方言における強勢の助詞。
  この日のヴリアでは先ず、ムラの役職である<巡察役>(garde mobile)が現認したかもしくは<巡察役>にムラ人側から届出があったため既に村長の許に記載された喧嘩や暴力沙汰の検証が行われた後、続いてその過程で言及されたもののまだ記載されていない出来事についての討議が行われた。その中の一つに、上記の発話の中に出てくる<ポーピの母親>と村の青年の一人との喧嘩がある。数名がその件について耳にした事柄を述べたが、当事者同士は集会の場に出席して、意見を述べることはなかった。そのため、<ポーピの母親>の家の近隣に住む男性が、ムラとして集会の場で公的に扱う必要の無い事柄であるとの意見を述べたわけである。
B-1:Zôvy manaraka zany ?
  誰が、その次に(発言する)?
 
  Bは以下、この当時の<村長>(chef de village)の発話である。1986年当時の<村長>が48才であったのに比べ、この時の<村長>は38才と若い。また1986年当時役職者ではなかったもののその誰とでも気軽に付き合うという人柄からムラの人々によって相談役のように見なされまた事実相談事が頻繁に持ちかけられていた長老男性は、1992年に亡くなっている。Bの<村長>自身が、集会の場における発言を主導している様子がこの発話からもはっきりと見てとることができる。
 

 
(1) 直訳は「そんなに近づくな」の意であるが、ここでは同時発話状況に言及した文として意訳した。
E-1: Zany kopoko(1) taminahy tsy marina .
   そのようなわたしについての処置は、間違いです。
Tsy mety raha mañan'zany . Satria mo ôhatra
izahay efa raikitra ohatra teña nandeha an-ketsany any .
そのようにすることは、だめです。なぜなら、
例えば一緒に私たちがあそこの山に行ったとしましょう。

Izahay niady tany . Zôvy oloña nahita azy ?
私たちが、そこで喧嘩をした(としましょう)。
誰が、そのことを目撃したのですか?

Niady izahay tany , ny adin-draha tsy mety misy temoin(2) .
Hitanao karaha io .
私たちがそこで喧嘩をした、その喧嘩についての(目撃)証言はありえません。それが同じようなことであることはおわかりでしょう。
 
(1) 「準備」・「取り扱い」・「手当」を意味するツィミヘティ方言(Faridanonana 1977 p.58)。
(2) フランス語のtemoignageもしくはtemoignerに由来し、「証言」の意。
  Aの発言に誘発されて、Eが既に自分について下されたムラの裁決について不満を述べた発話である。Eは、山中での喧嘩と<家庭>内での争いを類比させ、ムラとは<家族>の外にある第三者としての視線の存在であることを主張し、<家族>以外に現認者のいない状況にムラのかかわる余地を否定している。ここで公的領域と家内的領域とは、家内的領域から公的領域が排除もしくは拒絶される形で分離されている。
F-1:Adin'ny oloña tokan'tranon'ny oloña ke ohatra zany .
  その人のもめ事はその人の<家庭>の事柄だな、その例では。
 
  tokan'tranoという単語は、tokana「一つの」・「単独の」とtrano「家」との複合語であり、「世帯」(household)と翻訳されることが多く(Richardson 1967(1885) p.652)、またマダガスカル語国語辞典では「両親や親族は含まない夫婦だけが生活する家」(Rajemisa-Raolison 1985 p.953)との説明が与えられている。既に、1987年の論文において指摘したように、tokan'tranoという単語によって指示される人々の関係の外延を定義することは困難であり、この発話にも見られる通り、公的領域と対峙される家内的領域を指す一群の単語の中の一つと考えることが妥当である(深澤 1987 pp.121-124)。
G-1:Ohatra zaho zany , zaho koa tsy maneky(1) zany .
  例えばそれが自分だったら、私もそれを認めない。
 
(1) メリナ方言におけるmanaikyのツィミヘティ方言における訛音形。
 
H-1:Ao tsika .
  そこで、われわれはだ。
 
B-2:Aza fady eh .
  すまない(が静かに)。
I-1: Zaho avakeokeo mba basy(1) .
私はまだこれからそれについてしゃべるのです。
Zaho mbola hivolana mbola izikeo minenaña azy .
Izany hoe zany , ny hevitra mikasika leharahan'ny
tokan'trano tsy impodian'ny ady . Io nihinaha eh .
すなわち、もめ事が再び起こらないようにするための<家庭>にとって良いことにかかわる考えです。次は、私のところ(の例)です。
ôhatra zaho , mamo zaho . Ny vadiko izy akany .
例えば、私が酔っていた(としましょう)。妻がそこにいた(としましょう)。
Anao tôa lefaka(2) be tôa , andao hôdy .
「このろくでなし、(家に)帰りな」(と妻が言った)。
Eh , anao mankalefaka zaho .
「おまえはわしを馬鹿にするのか」(と私が言った)。
 
(1) メリナ方言の aoka に相当する「十分」・「十分な」を意味するツィミヘティ方言(Thomas-Fattier 1982 p.270)。ここでは、「おしゃべりを止めて」の意。
(2) 「馬鹿」・「阿呆」を意味するツィミヘティ方言(Faridanonana 1977 p.63)。
J-1: Ao .
  そうだ。
 
I-2: Avy tefaka zaho .
  で、わたしが(妻を)平手打ちした。
Ary iny tsy tokony tsika fokon'oloña tsy reo .
そのことはわたしたちムラの問題ではないのが筋です。
Atsika fokon'oloña tsy tokony hiditra tsy teo
tamin'zareo rahan'tokan'trano .
わたしたちムラは、<家庭>の事柄について彼等に立ち入らないべきでしょう。
Ke atsika hiditra amin'zany , jereo avy ny tosiñy(1) .
ゆえに、わたしたちがそのことに立ち入ったならば、失笑の的になることを考えてください。
 
(1) 「哄笑」を意味するツィミヘティ方言(Faridanonana 1977 p.112)。
 
  何処の家庭においても起こりそうなあるいは既に経験したようなごくありふれた巧みな例をIが持ち出して述べた事柄は、A・E・Fの発言者たちが述べた事柄と同じ基調である。しかしながら、Iの挙げた例では、夫婦喧嘩という当事者同士で解決されるべきことが当然視されるもめ事からムラという公的領域の介入を拒む家内的領域の存在が立ち上げられているものの、この集会で明らかになってきた難問とは、もしある夫婦喧嘩を第三者が目撃してこれをムラに訴えたりあるいは夫婦の一方がそのことをムラに提訴した場合、これは公的領域と家内的領域の何れに属する問題なのかという点である。
 
  hahaha (笑い)
J-1: Zaho eh . Zao nihinahy .
  私だ。今度は、私の番だ。
 
B-3:An?
  何だって?
 
J-2: Atsika bakana(1) voasakana tsika tsy fankasitrahana(2) .
  わたしたち側は認めることができない。
Tamin'ny fankatoavana tsy nateto izy naña
niadiady na azo idirana ny tañanao eh atsika jiaby .
ここにいない喧嘩した本人が承服したならば、私たち全員すなわちあなた方ムラが係わることができる。 Ao . Na dia kibo raiky zay , nahitanay ny vady
namindra famaky boroziny(3) .
そこだ。同母キョーダイではあるとは言え、彼の妻が斧か鉈を渡したのを私たちは目撃している。
Aza mandeha manantso izahay eh . Izahay efatra-
私たちを呼び出すのは止めてください。わたしたち四人の−
 
hahaha (笑い)
 
J-3: kibo raiky mbola tsy teo .
  同母キョーダイはまだこの場にはいないのです。
 
(1) baka・ bakana・ bakany・ bokany・ bokanaは、メリナ方言のmankoやmantsyに相当するツィミヘティ方言における強勢の助詞(Faridanonana 1977 p.15)。
(2) この会話文全体の直訳の意は「わたしたち側は認めないように止められている」。
(3) 山刀ないし鉈を指すツィミヘティ方言(Faridanonana 1977 p.20)。
  Jが提示する家内的領域へのムラの接続点は、明解である。たとえ、もめ事や紛争の当事者同士の関係が家庭や家族内で完結するとしても、内部の当事者自身がムラの介入を要請したならば、その時は初めてムラという公的領域が扱う事項となるということである。しかしこのことは逆に、内部の当事者からの要請や訴えが無い場合には、家内的領域から公的領域を拒絶し断絶する断固たる事由に転化すると言えよう。
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