II.ツィミヘテイ族社会におけるムラ

  個別の会話事例の記述と分析に入る前に、これから論じてゆく問題を理解する上で必須となるツィミヘティ族社会におけるムラについて、簡潔に予備知識を提示しておく。マダガスカル北西部のスフィア川(Sofia)流域一帯を中心に居住する水田稲作−牛牧畜民であるツィミヘティ族社会には、西に隣接するサカラヴァ族(Sakalava)と異なり、村落を複数に渡って統治するような王ないし首長は存在しない。そのため、村落一つ一つが現在でもかなり高い自治的単位を構成している。ツィミヘティ族の村落は家屋が南北に複数列連なった集村の形態をとり、視覚的および地理的に村落は相互に明瞭に分離している。このような主として目に見ることのできる家屋の集合体としての村落を、タナナ(tanana) と呼ぶ。このようなタナナに対しては、固有名が与えられている。それに対し、自治的単位という人の社会的集合体としての村落をフクヌルナ(fokon'olona)と呼び、その中に含まれるタナナの一つに由来する固有名を冠することによってフクヌルナ同士もまた相互に区別されている。視覚的な家屋の集合体としての意味合いの強いタナナがそのまま人の社会的集合体としてのフクヌルナと一致することが多いものの、複数のタナナから一つのフクヌルナが構成される場合、あるいは上記のような<ムラ八分>が行われている場合のように、両者が一致しないこともまた必ずしも希ではない。
  歴史的に見た場合、このフクヌルナも、19世紀前半にツィミヘティ族居住地域に侵入し支配を確立したイメリナ王国(Imerina)、もしくは19世紀後半から20世紀初頭にその地に植民地支配を確立したフランス総督府、いずれかの手によって租税の徴収や公共労働の分担などの共同責任を負う行政村として、当初外部から導入された可能性が濃厚である( Molet 1959 pp.117-119 )。しかしながら、1975年からの第二次共和制時代にはフクンターニ(fokon'tany)が、1993年からの第三次共和制の中ではコミューン(commune)が、法的に位置づけられた最も末端の行政単位を構成するにもかかわらず、県庁所在地などの<市>(commune urbain)を除き一つのフクンターニやコミューンの内部にはそれを構成する複数のフクヌルナの存在が依然として行政側と住民の双方によって承認されている。例えば筆者の調査地のフクヌルナの所属する行政区画においては、第二次共和制下のフクンターニは4つのフクヌルナから、現在のコミューンは28のフクンターニから構成されていることが、認定されている。
  国家の法律上にその組織や位置づけが明記されていないフクヌルナといえども、ツィミヘティ族の居住領域では単独の自治的単位として行政側から扱われており、そのことは行政村との間でフクヌルナの名前を冠してやり取りされるさまざまな書類の上にも見出すことができる。さらに、このフクヌルナのもつ自治制の行政側からの実質的な承認は、次のような具体的出来事にも示されている。すなわち、あるフクヌルナにおいて妻の浮気をめぐる夫婦喧嘩の果てに、夫が山刀を使って乳飲み子を抱えた妻を斬殺するという事件が起きた。そのことに激昂した多数の村人(フクヌルナの構成員)がその夫をその場で裁判手続き等を経ずに絞殺してしまった際、後日やってきた憲兵隊員(gendarme)は関係者から事情聴取を行っただけにとどまり、夫絞殺に係わった人間を逮捕することもなく帰っていったのである。また、ツィミヘティ族の慣習法は現行犯で捕まえた牛泥棒および米泥棒を裁判や集会の手続きなしに殺害することを正当としているが、あるフクヌルナにおいて村外からのよそ者の男性二人が米倉を壊して籾米を盗んでいるところを村人に発見され、二名とも槍で刺殺される事件が生じた際にも、同様に憲兵隊員は関係者の事情聴取だけに済ませ刑事処分に問うことはなかった。
  フクヌルナは、フクヌルナによってある土地の内部での居住と生活を認められた人びとから構成され、フクヌルナに係わる全事項は先に述べたヴリア(6)と呼ばれる集会ないし寄り合いの場で話し合われ採決される。このヴリアで決められたフクヌルナの成員が共通に守るべき事柄をデイーナン・プクヌルナ(dinam-pokon'olona)と呼び、この<ムラの決まり>であるデイーナン・プクヌルナに対し意図的に違反ないし不服従を繰り返す人間もしくは殺人や<邪術>(mosavy)(7)の行使などの重大事件を起こした人間は、先に述べた<ムラ八分>の制裁を課せられる。この<ムラ八分>の制裁が、フクヌルナ単独の問題であり行政村や国家とは無関係であることは、<邪術>を行使した嫌疑をかけられ家に放火されて住みかを失った隣村の老婆が娘と息子の家族が住む村に移り住もうとして当該のフクヌルナの拒否に会った際、その老婆の訴えによって憲兵隊員が居住の受け入れについてフクヌルナを説得した出来事に端的に示されている。すなわち、憲兵隊員の説得によって最終的にその老婆の村内への居住はフクヌルナによって受け入れられはしたものの、老婆と付き合う家族以外の村民は誰一人としておらず、実質的な<ムラ八分>状態に置かれたばかりか、その老婆の子供達の家族までがその後自主的に<ムラを離れ>(miala fokon'olona)、ムラとの付き合いおよび援助を断ったのである。
  <ムラの集会>であるヴリアは、フクヌルナの構成員はもとより、当該のフクヌルナが居住および水田や焼き畑や畑による耕作などを裁可することのできる土地領域ファリターニ(faritany)上で生じた出来事やその領域に係わる事柄であるならばフクヌルナの構成員以外の人間でさえ、男女を問わずその開催を求めることができる。フクヌルナの成員とされる18才以上の人間は未婚・既婚を問わず誰もがヴリアに出席し発言することができるものの、女性は事前にその参加要請が行われない限り、ヴリアに自ら参加することは希である。ヴリアへの参加そのものは欠席者に対し罰金(sazy)などの制裁が課せられるような強制ではなく、またその決定や採決の効力に係わるような定足数も存在しない。しかしながら、出席者数にかかわらず一度ヴリアが正式に招集され討議の後採決された事柄は、当該のフクヌルナの全成員に対してその出欠にかかわらず等しく適用されあるいは強制力をもつこととなる。ヴリアは、土地争いなど現場での確認を必要とする討議・裁定事項を除き、村の広場ないし<村長>の家の前で開催される。ヴリアの開催時刻は、村内に人がいる時間帯である夕食後の午後8時頃または朝食前の午前7時頃であり、事前に開催時刻と男だけか男女一緒かのいずれの形態のヴリアであるのかについてのふれが<村長>などにより肉声によって村内に伝達される。
  フクヌルナ内部の組織構成は、それぞれのフクヌルナ毎に異なりまた同じフクヌルナでも時間の経過と共に変化する。各フクヌルナに共通する唯一の事柄は、ライ・アマンドレニ(ray aman-dreny)ないしズキ・ヌルナ(zokin'olona)(8)と呼ばれる結婚し子供はもちろん孫をももつようなおよそ40才半ばから50才以上の男性たちに対し、ヴリアの場における椅子への着席とその中の年長男性の先行発言等によるある程度の議論の主導の形で敬意が示されることである。しかし、このような<年長男性>の発言も敬意が払われるものとして扱われるにすぎず、その発言がフクヌルナの年少成員に対し有無を言わせない強制力を加えたり、あるいは年少成員の発言内容よりも無原則に優先しヴリアにおける裁定事項として採択されるわけではない。<年長男性>の発言といえども内容として適切さを欠いたり、多くの人びとの思うところと反した場合には、ヴリアの場に居合わせた人びとから容赦のない非難の言葉や笑いに晒され、発言そのものが遮られることさえなんら珍しいことではない。ヴリアにおける採決は、あくまでも出席者全員による話し合いと合意が原則である。
  この点を別にすると、フクヌルナの役職者をムピトンドウラ(mpitondra)すなわち<(ムラを)運営する人間>と呼ぶが、この役職者の設置とその人数については各フクヌルナにおいて独自に決定される結果、フクヌルナ毎の相違や差異も小さくはない。さらに、調査対象のフクヌルナの場合、1980年代までは<村長>シェフ・ドウ・ヴィラージュ(chef de village)1名が行政村との連絡やヴリアの招集のためにムピトンドウラとして制定されていたにすぎなかったが、1999年現在では<村長>1名に加え、集会や行政村との書類のやり取りを記録する<書記>セクレテール(secrétaire)1名・フクヌルナの金の出納を司る<収入役>トウレゾリエ(trésorier)1名・とりわけ祭りやダンス大会などに際し喧嘩や暴力沙汰を仲裁し止めると同時にその経過の見届け人となる<巡察役>カルト・モビール(garde mobile)4名にまで増加している。この増員は、フクヌルナの人口が20年近くの間に100名以上も増加しムピトンドウラの扱う事項や事務量が<村長>一人の手にはとても負えなくなったことに主として起因するが、近年フクヌルナ内の集会等で決着や裁定がつかず行政村や憲兵隊や県庁の裁判所に上訴する事例が増加しつつあることとも関連している。これらの役職は集会の場で公選されるものの、<村長>以下これらのムラの役職は全員無給であり、専任職として務めることができるわけではない。それでも<村長>に立候補する人間は複数いるものの、手当が支給されないばかりか職務の性質上自身が紛争に巻き込まれやすい<巡察役>の自発的ななり手は少なく、<村長>が個人を名指しその同意を得てようやく4名の定員枠を満たすことが常態化している。また調査地のフクヌルナでは、その内部にフクヌルナに準ずる公的な組織を幾つか含んでいる。1985年頃には、<老齢婦人会>フィキャンバナナ・アントウヴァーヴィ(fikamabanana antovavy)と<壮年・青年会>フィキャンバナナ・マタンザカ・シ・タヌーラ(fikambanana matanjaka sy tanora)の二つの組織があり、それぞれの会とも構成員から10kgから20kgの籾米を毎年拠出させてそれを米の端境期に会員に貸与したりあるいは売却した代金で冠婚葬祭に必要な皿や匙や薬缶などを購入し管理していた。2000年現在では、<壮年・青年会>が無くなり、その代わりに<壮年会>の活動の多くが村内に設置されている公立小学校の運営と維持にあたる(9)いわばPTAとも称すべきフラムFRAM(fikambanana ray aman-drenyの略 「父母の会」の意 )に、<青年会>の活動の多くが村内サッカーチーム団ジュエーラ(joueur)に引き継がれている。それぞれの会とも会長(プレジドン président)を、1名擁している。これらの会は、フクヌルナとは別個の組織でありまたフクヌルナの一部成員だけから構成されているが、その活動の目的や性格はフクヌルナとも重複し、ヴリアの場においてそれぞれの組織に係わる問題が討議されることもある。
  上記の説明を基に以下の記述において、タナナを指示している場合には「村」、フクヌルナを指示している場合には「ムラ」、と表記することにする。また<村長>は、フクヌルナの長としてのchef de villageに対する訳として用いる。
  なお、筆者の当該村落における調査滞在期間は、1983年12月から1985年2月までの14ヶ月、1986年10月、1989年8月、1991年8月、1993年8月、1995年8月と同年10月から12月の3ヶ月半、1997年2月、1998年1月と11月、1999年8月、2000年8月の計およそ24ヶ月であり、その間に35件の上記の集会をテープに採録した。35件の中の1986年および1998年の2件に、ムラと家内的領域との差異を自覚的に話題として対象化した5分以上にわたる発話のやりとりが見出された。
  また本論文は、1998年度および1999年度文部省科学研究費補助金による国際学術研究「マダガスカルおける民族集団の生成論理と民族間関係」(研究代表者:内堀基光)の成果の一部を成すものである。
会話資料の表記方法
 
1.会話の表記方法は、J.サーサスが『会話分析の手法』(邦訳版)において提示している記号に原則として従う。すなわち(サーサス 1998 32頁);
  1. 強勢もしくは強調されている発話の部分は、太字で表記する。
  2. 長く伸びる音は、コロン( : )で示す。
  3. 途切れた音にはダッシュ( − )をつける。
  4. 発言の重複はブランケット( [ )で表す。
  5. 上昇イントネーションは( ? )で表す。
  6. 連続イントネーションは読点( 、 )ないし( , )で表す。
  7. 末尾の下降イントネーションは句点( 。 )ないし( . )で表す。
  8. 聞き取りできなかった単語や音は・・・・で表す。語数が明確な場合は、・・・
    (2)・・・二語不明とする。
ただし、休止についてサーサスは10分の1秒単位での表記を提唱しているが、本論文は発話や談話そのものに内在しうる規則性などの分析を目的とするものではないため、集会の場における発話として休止ではなく次の発話者の順番取りを許す明らかな発話の終了を意味すると推測される2秒以上の間について、(3秒):3秒の間 のように表記する。2秒よりも短い休止については、表記を行わない。
 
2.ツィミヘティ方言の表記法は次のように定める。
  1. 既に確立され教育やマスコミュニュケーション等で普及している公用マダガスカル語のアルファベット表記法を原則として採用する。この場合、oの文字は、「オ」ではなく「ウ」を表すことに注意。したがって、fokon'olona は<フォコノロナ>ではなく、<フクヌルナ>となる。
  2. その上で、公用マダガスカル語には無くツィミヘティ方言で発音される音韻については、次のように表記する。
    b−1.ôは、「オ」音を表すために用いる。従って、「去る」を意味するlôsô は、公用語表記による<ルッス>ではなく、<ロッソ>となる。ただし、言語学的にはツィミヘティ方言におけるo音とô音とは、弁別的対立音を成しているわけではない。そのため、同じ単語でもそれを発音する個人によって、どちらの音を発するかに違いが生じる場合がある。例えば、「人」を意味するoloñaはウルナと発音する人もいれば、ôlôñaすなわちオロナと発音する人もいるが、意味そのものに違いは生じない。
    b−2.ñは、ng音を表すために用いる。
  集会における発話の採録状況は、私自身がテープレコーダーを持ち歩き発話者に近づくというかたちで行われたが、1984年の第一回調査時から集会のみならず儀礼や日常生活の中でさまざまな音声の採録を行っていたため、とりわけ公的な場面においてテープレコーダーの使用を明示することによって村人の発話が控えられたりあるいは使用の有無によって著しく発話形態に差異が生じることを、観察したことはない。
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