家内的領域と公的領域の位相の語られ方
−北西部マダガスカル・ツィミヘティ族におけるムラの集会の会話資料の分析に基づいて−
Disocourse of Domestic Domain and Public Domain :
On an analysis of the Conversational Data of the Community
Meetings among the Tsimihety People of North-Western
Madagascar
初出:『東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
アジア・アフリカ言語文化研究』第61号 pp.1-50
This paper describes the conversational data of the village meetings among the Tsimihety people of Norh-Western Madagascar and analyzes the discourse concerning representations of public domain versus domestic domain . Among the Tsimihety people , there is an indigenous village council oraganization , a so-called fokon'lona , and during the village meetings this fokon'olona decides on or regulates many kinds of troubles and communal activities which happen within its autonomous local area .
I have collected two convesational taperecordings data on my own field work in which the villagers themselves discussed the theme , “ What is the domestic domain and is it appropriate that the village council decides and judges problems belonging to the domestic domain ? ”, during the village mettings held in 1986 and 1998 .
These data show that there is no autonomous or indepedent domestic domain but it can be realized through reference to the public domain on so called fokon'olona . Since there are no villagers who can define the domestic domain's extent and who can definitevely point out who their proper members are , so villagers feel that such troubles can not be treated within their own “households” or “houses” are able to take their case before a village council , but it is the village council which calls village meeting to finally decide which cases are suitable for public discussio .
However , in today's village meetings there are increasing number of villagers who do not accept these village coucil's decisions or arbitrations , particularly those that concern their own “private householeds” or “private houses” . The villagers themselves often complain that the execution of fokon'olona's communal activities becomes harder day by day because of these egocentric attitudes .
The village in which I conducted field surveys over 16 years has just gained a fokon'tany legal position which is sited above the fokon'tany indigenous community level . With this new legal constitutonal position , they nominated new fokon'tany council commitee members . These nominated members are also the head peresons of each kin groups . Therefore I conclude that the social shema which sets the domestic domain against the public domain has not changed but it is necessary for us to observe this small political village drama to discern if this new nomination is a mere revision of a former domestic domain based on “households” or a radical reinterpretation of domestic domain versus public domain under the new republic political order .
  1. 家内的領域と公的領域の位相
  2. ツィミヘティ族社会におけるムラ
  3. 1986年10月13日の集会の会話資料と分析
  4. 1998年 1月 9日の集会の会話資料と分析
  5. ムラをめぐる家内的領域の自閉と再編成

I.家内的領域と公的領域の位相

  「本書の読者の大部分は、私的生活と公的生活との間に何らかの主要な区別があることを前提とするような、現代産業社会で育ったことであろう。こうした人々が・・・・自分たちとは根元的に違う文化システムを研究することから始めるべきだということの一つの十分な理由は、そうすることによって、他の社会では、この深く情動にかかわる私/公の区別がまったく違ったやり方で作用しているかもしれないことを発見するとういう衝撃的な体験をすることができるからである」(E.R.リーチ 1985 p.168)とリーチが述べる事柄は、マダガスカルの現代ツィミヘティ族(Tsimihety)社会に対しては半分真であり、半分不適切である。なぜなら、仮に彼等の言葉を解さない現代産業社会に生まれ育った旅行者がツィミヘティ族社会を訪れ、その際に一つの家屋内で寝食を共にする人々を視覚的に「家族」と捉えこれを私的生活領域ないし私的生活単位と考えたとしても、彼等自身が言語的枠組みによって語る単位と大きくかけ離れることはないからである(1)。しかしながら、私的生活と公的生活とが一義的に分離しそれぞれが異なる領域を何らの検証や証明もなく構成するというイーミックとエテイック双方の「常識」や「確信」に対する相互的な疑義は、ツィミヘティ族社会においてもリーチの指摘を等しく共有することができる。
  この問題については私自身既に今から十年以上前に、フィアナカヴィアナ(fianakaviana)というツィミヘティ族自身が自分たちの私的領域ないし家内的領域を指すために用いる単語とその社会的脈絡における指示の外延を分析した論文の中で次ぎのような結論を導いた;
  「フィアナカヴィアナは、<ムラ>という公的領域を構成する単位及び<ムラ>という公的領域の位相に対する家内的領域の位相としての親−子関係に基づく個人の〈集団性〉の表出として理解することができる。言い換えれば、<ムラ>が個人を単位として構成されているのであれば、フィテイアヴァナ・ツィンバヘトラア(2)の贈与は<ムラ>外からと同じく個人名で行えば良いはずであり、集会の席上では係争当事者同士だけが退席すれば良いはずであり、<ムラ八分>(3)に於いては不都合を犯した本人或いはせいぜい世帯のみを制裁すればそれで十分なはずである。にもかかわらず、それらのことが行われないのは、独立した世帯を営む個人といえども、フィアナカヴィアナという家内的領域を形成するものと即自的に考えられると同時に、その家内的領域は、<ムラ>という公的領域の共同性の位相に表出される場合に、対自的に認識されることに於いて、『集団』を構成するからである」(深澤 1987 132頁)。
  当時のいささか生硬な文体を別とすれば、現時点でもこの結論の主意そのものに変更する点はない。すなわち、ツィミヘティ族社会においてある人が「これは私の<家族>(4)であり、あれは他の<家族>である」と語る時、その範囲あるいはその境界の線引きは個人一人一人の間でまた一人の個人をとってもそのライフヒストリーの中でなんら確定されているわけではないにもかかわらず、ムラと<家族>とは疑いもなく分離されうるものとして、さらにムラとは個人そのものではなく個人をとりまく家内的な領域を単位として構成されている公的な領域であると共同に考えられている一点において、<家族>は確固たる集団のような姿をもって立ち現れるということである。具体的な事例に即して述べれば、「これは私の<家族>とあの人の<家族>との間のもめ事で私たちの手には負えないからムラの集会で採決して欲しい」と人がムラに提訴したとしても、ムラ側は「それはまだあなたたち<家族>の問題だから、そちらで解決するべきである」といわば訴えの門前払いを行うことが可能であり、そのことは私的もしくは個人的領域と見える<家族>といえどもムラという異なる位相の公的領域を受け入れることによってはじめてその集団としての姿を獲得することの相互了解の構図を示している。
  もはや、公的と私的領域の区分が一義的に決定されるわけではなく、また家族のような私的領域はそのもの自体として実体論的に存在するのではなく、なんらかの公的領域との対比において相対論的に存在するものであるとのこのような相互了解ないし相互行為の視座は、とりたてて論議されるような目新しい性質を備えているわけではない(5)。しかしながら、家内的領域は公的領域との関係においてどのような具体的な社会的脈絡の中でどのような形を取りながらその家内性や私的性を確認されまた獲得するのか、そのいわば両者が立ち上がる瞬間や過程についての細部は必ずしも彼ら自身の「語り」と言う資料の提示によって論議されているわけではない。本稿では、ツィミヘティ族のムラ(fokon'olona)の集会ないし寄り合いであるヴリア(voria)におけるやりとりを録音したテープ資料の中から、調査者側からの質問に対応してなされた発話ではなく、彼等自身同士がこの問題について自覚的に発話した箇所二編を発話にできうる限り忠実に記述し和訳をつけた上でそれに注釈を加える会話分析の手法を用いて記述し、1987年の論文で導いた結論を今一度微視的記述および分析にかけることによって、このムラと家内的領域との相互了解の生成過程を社会的脈絡の中で提示することを目的とする。

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