C-12:Somary tsy resy(1) zanaka akao fa zanakao sendra ,
resaka hafahafa . Resaka avy fitonena(2)
dia zanaka tsy mamo anao , raha ankabezany hafa .
あっちの子供すなわちあんたの子供が敗訴しなかったみたいなことをいきなり、おかしな話だ。決まった話はあんたの子供が酔っていなかったことで、それはほとんど別の事柄だ。
Efa maro zany tsy tokony hikalo(3) mandiny(4) sanany .
他の人を待って語らないほうが良い事柄は既にたくさんある。
Misy dikany . Am-bavany(5) dia tratra . Tsy hitanay zany .
Izany tsy itovizana raha .
理由がある。話(だけ)に基づいて捕まった(ということだ)。
われわれはそれを実見していない。それは、同じ事柄ではない。
(1) resyは、通常「負ける」・「征服される」・「打ち負かされる」の意味であるが(Richardson 1967(1885) p.513)、ここではヴリアの席上で自己の主張が却下されたりあるいは自分の取り決め違反が認定されたりしたことなどを指す。
(2) fitonenaは「静まること」・「おだやかになること」を意味する(Rajemisa-Raolison 1985 p.357)。
(3) mikaloは、「歌う」・「物語る」を意味する(Rajemisa-Raolison 1985 p.690)。
(4) mandinyは、「待つ」・「耐える」を意味するツィミヘティ方言(Faridanonana 1977 p.23)。
(5) am-bavany の直訳の意味は「口で」だが、ここでは「話だけに基づいて」の意。
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<村長>自身がこの集会の場で討議を求めている事柄とは、B−4の発話に見られるように、個別の事件の検証と裁決ではなく、ムラが家内的領域内の構成員だけに係わった問題やもめ事を討議しこれを裁決することが妥当かどうかの一点である。しかし、その後に続いた村民の発話は、依然として「自分の<家庭>の問題についてムラがかかわることは妥当ではない」の個別論に終始していた。Yの発言も一般論として述べられたものではなく、Yの息子がバーで酔って引き起こしたとされる喧嘩の認定に対して向けられたものである。<村長>の発言は、再びここが個別事件の討議の場でないことを明らかにしようと努めたものに他ならない。しかしながら、この<村長>の言葉がその場を埋めた参加者の耳へと届くことはなく、この後集会の討議の焦点は、Yの息子の呼び出しを求める集会参加者の声を契機に再び個別の事件の検証と認定へと推移していった。
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この一群の会話の中で注目すべき事柄は、<家庭>(tokan'trano)や<家>(trano)や<家で>(adarano)と言った単語がほぼ相互置換的に頻繁に使用されているにもかかわらず、ただの一度もその内部の構成員が誰であるのかについての言及がなされていないことである。すなわち、「誰それまでが<家族>であり、それ以外の人間は<家族>外であるがゆえに、<家族>以外の人間にかかわるもめ事や争いからムラが扱う事柄となる」という語られ方が、一切なされていないことの奇妙さである。<村長>のB−4における「殆どの<家庭>は、<家庭>はムラの数に入らないのだろうか?一つの<家庭>内に入ると数えムラには入らないのか?次にわれわれはここでこのことが、これから人の<家庭>(のこと)になるのかムラの中に含められるのか考えてみよう。そこでの家のもめ事などを抱える人をどのように区別するのか?」との発話が最も叙述的発話であるが、そこでも依然として家内的領域の構成員は所与のものとして語られ、なんら成員の関係や範囲については触れられていない。この事柄の説明を、会話の中の言葉に捜し求めると同じくB−4と後のB−10の<村長>の次のような発話へと辿り着く。すなわち、B−4において<村長>は「村の中に家は含まれる」と述べており、注意すべきはこの時の「村」とはfokon'olnaではなくtañanaであり、この時の「家」とはtokan'tranoではなくtranoであることである。なぜなら、fokon'olonaとtañana、tokan'tranoとtranoがこの集会の一連の会話の中では相互置換的に用いられているとしても、II章において既に説明したように、fokon'olonaが「人の集まり」という社会集団の意味合いが強い一方、tañanaは「家屋の集合体」としての景観上の「村」の意味合いが強く、そのことと並行するようにtokan'tranoが人の集まりとしての「世帯」ないし「家庭」の意味合いが強い一方、tranoは構造物としての「家屋」の意味合いが強いからである。それゆえこの<村長>の発話を、目に見ることのできる家屋が集まって村を形成する様が社会集団としての世帯がムラを構成することの理由付けの比喩、として解釈することができよう。しかしながら、この比喩の巧みさを素直に認めた上で、家屋を形作りまたそれを外部と隔てている壁と同じ境界線が世帯や家庭の何処に引かれているのか、何処で家内的領域は終わり何処から公的領域が始まるのか、ムラにも属さずまたツィミヘティ族社会の外部にある人間の眼には、何ら事柄は説明されないままであることもまた事実である。どこそこの家屋にしかじかの関係の誰それが住んでいるということは、村人にとって周知の事柄であり、一軒一軒の家屋という物理的構築物の中に暮らす人びとが個々の<世帯>や<家庭>の内容だとの説明以上のものを求めない構図が、ここには厳然と存在する。ムラの中に<家庭>が含まれることを強調する<村長>と<家庭>の外部たるムラに対する秘匿性を強調する多くの村人との間にある齟齬も、一方が他方を否定することから生じるものではない。ムラと<家庭>とは異なるものであり、ムラがムラとしてあり、<家庭>が<家庭>としてあることに両者とも疑いはない。しかしながら、<村長>にとってムラは<家庭>と不連続な存在であるとしてもムラは<家庭>を包含するものであり、一方村人にとってムラは<家庭>から構成されるとしてもムラは<家庭>の外部に位置する。ムラから<家庭>を見るのか、<家庭>からムラを見るのか、残されたのは視点の方向の違いだけである。
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1986年時点よりも、この1998年のムラという公的領域に対した際の<家庭>や<家族>や<家>などの家内的領域の語られ方は、より一層実体化の色合いを強めている。なぜなら、そこにおいてはもはや1986年の集会で訴人の訴えをまだ家内的問題として却下した強固な理由のひとつであった同母キョーダイ関係が存在するかどうかといった構成員同士間の親−姻族関係の在り方が一切不問に付され、家内的であることの基準が一つの家屋内に居住するか否かの一点だけに絞り込まれたからである。このことは、ムラそのものが、行政村との単なる連絡役としての<村長>1名から<村長>以下<書記>・<会計>・<巡察役>などの執行役体制を擁するより明確な組織へと変貌しつつあることと無関係ではない。すなわち、ムラが組織としての実体を纏えば纏うほど、家内的領域をめぐる言説も実体化してゆくのである。それも、構成員相互の関係を基準から欠落させるという、組織としての空洞化と並行してである。そこでは、一つの家内的領域と他の家内的領域との間に対立的に位置づけられるようになった紛争やもめ事こそが公的領域の討議対象であり、その家内的領域間の境界はムラによって個別的に裁定されるという相対的視点さえ、背後に退いている。もはや、村人個々人の「これは自分の家庭内の問題だから、ムラは与するべきではない」との一見家内的領域の自己完結性を自明視したいささか身勝手な声とは裏腹に、彼らが<家族>や<家庭>や<家>と言った言葉で表す家内的領域のいずれもがムラとの対比の枠組みを抜きには存在しえない地点にまでやってきている。村人自身が家内領域についてあたかも家屋の内と外とを分ける壁のように明瞭に規定される境界を与えることができないならば、家内的領域が終わる場所はムラという外部に言及することによってのみかろうじて立ち上がることができるだけである。村人の家内的領域を実体化してゆく言説とは裏腹に、エティックな視点からは公的領域との対比抜きに家内的領域はいささかなりとも存在しえないという逆説の構図が屹立している。
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1986年の集会では、自分と姉との間の土地相続争いを既に<家庭>間や<家族>間に属する問題としてムラに提訴した訴人が、ムラによって依然として家内的領域に属する問題と裁定され訴えを却下された。1998年の集会では、ムラ内で起きた喧嘩や暴力沙汰をムラの取り決めによる科料認定の討議にかけようとした<村長>が、村人によって家内的領域に属する問題と不満を述べ立てられ討議を拒否された。ムラという公的領域と<家庭>・<家族>という家内的領域を対比させて語ることの構図は、12年の時を隔てていささかも変わってはいない。しかし、この12年の間に公的領域と家内的領域との懸隔が、着実に増大していることも疑いがない。実体化して語られるようになった<家庭>や<家族>が剥き出しでムラと向き合う視点だけが、今前面に押し出され始めてている。
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