V 「生存」を基盤とした稲作
北西部地方における水田稲作と焼畑稲作、散播稲作と移植稲作の技術と農事暦、それぞれにおける土地へのアクセスの様態と技術移転の問題については、1983年から1986年までの時点での資料に基づいて既に報告を行ったので[深澤 1989:394-461]、ここではそれ以降に生じた変化を「生存」の視点から記述することにする。
- 存続する焼畑稲作
1986年の上記論文において、反収において水稲とりわけ国際稲作研究所の高収穫品種との間では4倍から5倍の顕著な差異があるにもかかわらず、1ヘクタールあたり600キロから800キロの反収しかない焼畑における陸稲栽培が消滅しない理由に言及しながら、a.農閑期である乾季の間を利用し灌木を伐り下ばえを刈っておけば、火入れと播種は少人数の労働で短時間で済ますことができること、b.そのため複数世帯間の協同労働組織(asa raiky)を作らなくても、単独の世帯内の労働力だけで耕作ができること、c.播種から収穫までは5ヵ月くらいかかるが、最初の本格的な降雨のある11月頃に播種をすれば、米の端境期にあたる3月から4月に新米を供給することができること、d.水田を拓くことのできない丘陵部の傾斜地が焼畑耕作地として利用されていること、すなわち、立地、耕作期間、労働力の充当何れの面においても水田稲作と競合する点がないため、水田稲作の補足的存在である限りにおいて、焼畑稲作の長所が最大限に発揮されることを指摘した[ibid.,1989:404]。その時から20年が経過し、水田稲作のほとんどが移植稲作への転換を終えた現在でも、毎年村内の何ヶ所かにおいて必ず焼畑陸稲栽培が行われている。ここにも、「稲+α」の「生存」感覚が厳然と貫かれていることを、見て取ることができる。なぜなら焼畑における陸稲栽培とは、稲の項にではなく、+αの項に含まれる活動であり生産だと言うことをあらわしているからである。「生存」の感覚そのものがこの地方の人びとから消滅しない限り、焼畑陸稲栽培は、水田稲作を補足する活動として細々ではあるが、今後とも続けられてゆくにちがいない(25)。
- 復活する散播稲作とかけ流し水田
1985年時点では村の中の三割ほどの世帯が移植稲作法を受容していたにすぎなかったが、20年が経過した現在では、世帯の全てが移植稲作法を行っている。北西部の伝統的な(fomban-drazana)稲作法であった散播稲作は、一部の世帯が複数有している水田の一部で行っているだけである。それだけではなく、移植法を受け入れた結果、湛水水田を造営するためには、ホーバ(hôba)と呼ばれる湿地ないし雨季には雨水の集まる池ができるような低地が、立地として好まれるようになった。移植法受容以前には、この地方の散播稲作では、水田の上部にめぐらした導水路の所々に出水口をきりそこから下方に水を流す「かけ流し」と呼ぶことのできる独特の灌漑方法が用いられていたため、丘の麓のような緩傾斜地(tany rara-bary)が立地として好まれていた[ibid. 1989:401-402]。このため、村内の全ての世帯で移植稲作法を受容した1990年代前半、湛水水田に改造することのできない傾斜地に立地する散播型のかけ流し水田における稲作は放棄され、低地へと水田が集中する様相を見せた。けれども、1990年代末頃から、かけ流し水田における散播稲作が再び行われるようになってきたのである。それも、以前のように毎年そこで耕作が繰り返されるのではなく、ある年には耕作を行いまたある年には行わないと言う不規則な形においてである。この事に対する説明は、人口増大による一人当たりの可耕地面積の狭小化に伴う対抗措置と言うだけでは、十分ではない。散播稲作の長所は、一ヘクタールあたり1200キロから1500キロと反収は低いものの、耕起から田拵え、播種までの作業期間が短く、投入される労力が少なくて済む点である。そして、散播稲作のかけ流し水田が耕作される年とは、降水量が多い雨季である。すなわち、低地の湛水水田と傾斜地のかけ流し水田の二つを持つ村人は、反収の高い前者における稲作を労働力の投入と耕作時期の双方において優先させつつも、雨量が多くまた3月から4月にかけても降雨を見込むことのできる雨季には、かけ流し水田における散播稲作にも取り組み、収穫量の増大をはかっているのである。田植えが終わるかその作業の見通しがたつのは、例年2月の中旬から下旬であり、雨季の末期にあたる。したがって、それから着手するかけ流し水田における散播稲作は、雨季が早くあがってしまった場合には大きな打撃を受けることになる一方、4月まで降雨のあった年には、大きな収穫をもたらすことになる。同じ稲作の内部においても、常に+αの収穫を追い求めようとする姿勢が、村人の行動に通底して見出される。
- 移植における労働量の滴定化
3割の世帯が受容していたにすぎなかった移植稲作法とそれに伴う湛水水田が、村内の全世帯に普及したことが、1986年当時と現在との目に見える稲作景観の一番大きな違いである。変わったのは景観だけではなく、稲作作業に占める協同労働組織の比重も大きく変わっている。散播稲作を行っていた当時、蹄耕ないし有輪の犁を牛に曳かせる耕起に始まり、播種、刈り取り、稲括り、稲山作り、牛蹄脱穀、風選までの稲作作業のほぼ全工程が、世帯間の契約のもとに形成される協同労働組織(asa raiky)によって遂行されていた[cf.深澤 1989:412-415]。移植法が導入されて間もない1986年時点では、その新しい稲作作業工程である移植も、この協同労働組織が取り組む対象であった。
しかしながら、村内の全世帯が移植法を受容した1980年代後半から1990年はじめにかけ、「田植えばかりに時間がとられ、休息もとることができない」、「面積の違う水田を協同労働組織で田植えを行うことは、水田の面積が小さい者にとっては損だ」との不満の声が噴出し、協同労働組織が扱う稲作作業の対象から移植が除外されるようになってしまったのである。その後も、耕起、稲刈り、稲括り、牛蹄脱穀、風選の作業は、協同労働組織によって担われている。けれども、移植稲作法における最も日数と労力を必要とする作業は、移植そのものにほかならない。現在、移植作業を担う主体は個別の世帯(tokantrano)であり、2月から3月の時期、一人、二人の人間が、あちらこちらの水田に散在しながら田植えを行っている様子が見られる。その一方、時折一つの水田では、五人、六人の人たちによって田植えが行われている。このような時、その少し多い作業人数は、賃雇い(karamaina)によって徴募されている場合が多い。1980年代にも、賃雇いが見られなかったわけではない。耕起時やとりわけ登熟すると脱粒する性質を持つ在来種を栽培していた世帯の多かった当時は稲刈り時に、賃雇いによって労働力が充当されていた[cf.深澤 1989:407]。それでも、1983年から1985年の二周期の稲作期間に確認された賃雇いは、村内の人間3例、村外の人間5例、合計8例にすぎなかった(ibid.)。これに対し現在では、先に述べたように、移植における賃金の支払い単位が日割りからカレと呼ばれる定まった面積へと変わった結果、小学生の学童に対しても大人と同じ賃金が支払われることになり、小学校が休校の土曜日や日曜日には村内はもちろん村外からも子供たちが田植え作業の請負を求めて各世帯や水田をまわっているため、2月から3月にかけての土日2日だけで、何例もの賃雇いが観察されることは、何ら珍しいことではない。
これまで水田を単位による面積で把握したことのない人びとの間で、先述した5m四方のカレと言う面積が、手間賃算出のための基礎単位として用いられるようになったことは、大きな転換であった。今から20年前の時点でも、北西部地方では貨幣経済が浸透し、村においてさえ「自給自足」や「物々交換」などとはおよそかけ離れた生活が営まれていた。したがって、カレによる労働の計測が、貨幣経済の浸透に伴って創出されたわけではない。20年前協同労働組織の構成原理を分析した時点で、それがいかに稲作作業量の等量性あるいは相互性に対する予測値に立った世帯間の契約であるかを指摘した[深澤 1989:412-415]。すなわち移植と言う新たに出現した稲作作業においては、貫かれるべき等量性や相互性の意識が、誰の目にも明かな単位を用いた計測に基づく賃金の支払いによって、その落ち着き場所を見出したのである。
この20年の間に、日々の「生存」を通して自分自身が持つ労働力に対する価値づけの意識は、ますます強固かつ鋭いものとなっている。そのことは、ムラ(fokonolona)が管理する公立小学校の建物の建設でさえ、もはや「ムラの仕事」(asa be, asam-pikambanana)(26)の一言でムラの成員に割り当てることのできるものではなくなっていることにも示されている。18歳以上のムラに居住する男女200人に等しく同じ内容の仕事が割り当てられるならば、さほどの問題も生じないであろう。しかし現実には、異なる作業がムラの成員に割りふられることになり、それが果たして同じ作業の内容と量を等分に割り当てたことになるのか、また割り当てを遂行しなかった人間にはいくらの罰金(sazy)が妥当なのか、ムラの集会(voria)において絶えず紛糾の火種となる。罰金の額が安ければ、罰金を払っても作業を拒否し、自分の時間を自分の「生存」に使おうとする人間が出てくることは理の当然である。そして、作業割りふりにおける争いの最も現実的な解決法は、拘束性や重労働性が高いと認定された作業に対して、ムラが従事者に割増金的に賃金(karama)を支払うことなのである。
- 水田を持たない村人たちの出現
調査地の村落に、現在までのところ「地主」と「小作」の主従関係に立つ人はいない。その一方、水田の地上耕作権のやりとりは、頻繁に行われている。水田の地上耕作権の貸し出しには、収穫された稲を折半し原則として単年度契約の「刈分け小作」のミササーカ(misasaka)と予め定めた籾米や現金や牛などを地権者に渡す原則として複数年契約の「定額小作」のフォンドゥル(fodro)またはファモンドゥルアナ(famondroana)の二つの形態があることは、1985年当時と現在との間で、何ら変わりはない。変わったのは水田耕作権の賃貸の形式ではなく、そのような契約の件数と頻度である。1985年頃村内では、一年間に数軒の契約が結ばれているにすぎなかったが、現在では一年間に10数件から20件近い契約が結ばれている。水田の地上耕作権を貸し出す側の事情として、a.水田の地権者が老齢で、なおかつ自己の世帯内に成人男女の労働力が乏しいこと、b.自己の世帯内の労働力に比べ、耕作権を持つ水田の面積が著しく広いこと、c.地権者が村外に居住し、またその居住地が遠隔であることを既に指摘したが[深澤 1989:407-408]、現在でもこのような事由そのものに特段の変化があるわけではない。しかしながら、人口が増え世代が下がった結果、村の中にある水田に対する耕作権を持つ人間の数が必然的に増え、それによって村外に居住する地権者の数も増えたこと、および一人当たりの水田耕作権の面積が狭小化し、自分が耕作権を持つ水田からの収穫量に不足を感じる人びとが増え、それらの人びとが+αとしての水田における耕作権を競って求めていることが、地上耕作権の貸借関係を活発化させているのである。
しかしながらそのような中で、水田を全て売却してしまう村人2名が出てきたことは、特筆されなければならない。ツィミヘティの習慣では、ムラの許可を得て新たに拓いた水田は、拓いた人間自身に所有権が付与され、売却を含めた処分権が認められる。一方、水田を拓いた人間の子供や孫は、水田の耕作権を継承するだけであり、もし売却をする場合には、同じ祖先や親から耕作権を継承した人間全ての同意が必要となる[cf.深澤 1996:103-106]。水田を全て売却した人間の一人は一人っ子であり、もう一人は婚出した妹との二人兄弟であり、その点では必要となる地権者全員の同意を得ることが簡単であった。また一人っ子の男性は、村内に家を残したままであるものの、水田を売却した後、村を出て行き、南部のチュレアール州で宝石の採掘に従事していると言う。一方の男性は、水田を売却した後も、依然として妻子と共に村内に住み続けている。後者の男性が水田を売却した理由は「生活苦」(sarotra ny velontenanazy)であり、売却後も、炭や木材の売却、あるいは「畑」ヴィルングからの収穫物や刈り分けと定額小作による水田からの収穫によってかろうじて「生活」を支えている。この男性の水田の売却に対する同じ村人の反応は、この地方の人たちの稲作に対する感覚をよくあらわしている。男性が売却した水田を購入したのは、同じ村の人間であったが、その際水田を失ったら村での生活基盤が無くなることを心配し、購入に際し一部の水田の売却だけにとどめるよう、買い手側が件の男性を説得したと言う。さらに、全ての相続水田を売却してしまった男性に対し村人たちは、「水田売ってお金を手にしても、すぐに食べる物やら衣服やらに無くなってしまうものを」、「今後どうやって、この村で「生活」してゆくのだろうか」、「子供たちは、水田が無くて、どうやってここで将来暮らしてゆけるのか」と生活の苦しさから当座の現金の入手を優先した件の男性の思慮の無さを非難したものの、「先祖伝来の田畑を売り払って」あるいは「代々の家業や家産を潰して」と言った類の非難は全く聞こえてこなかった。
すなわちこの地方の人びとにとって、水田稲作が生活を支える最も大きな部分を占めていることは厳然たる事実であるものの、それとても多数ある「生存」方法の中の一つの選択肢以上のものではないのである。したがって、たとえ水田を売却してもそれで「生存」してゆけるならそれもまた可であり、あるいは現在水田部分の土地がもっと他の利用方法によってより多くの「生存」をもたらすと判断されるならば、その時村人たちは容易に「稲作民」であることを止めるに違いない。このような「生存」の感覚に貫かれた稲作は、この20年間の稲の品種選択にも如実に示されている。
- 品種選択の変遷
1984年から2006年までの20有余の間に、調査地の村では、稲の品種選択について、三度の大きな転換が生じている。
5−1 高収穫品種の登場と普及 1981年〜1990年代半ば
調査地の村落には1981年頃、国家の指導によってではなく、一部村人の見よう見まねで移植法と湛水水田造営をともないながら国際稲作研究所が開発した高収穫品種IR8号が、導入された。この当時、「祖先の稲」(varin-drazana)と呼ばれる在来品種ないし伝統品種六種および陸稲一種を含めた30近くの品種が、調査地の村落では栽培されていた。それぞれの品種によって反収に差はあったものの、いずれも一ヘクタール辺り1200キロから1700キロの間であり、第一その時の降雨量などの天候によって数百キロは容易に増減し、反収は栽培する品種の選択において考慮されるべき条件の一つではあっても、反収の高さをもって他の品種を凌駕するような品種は知られていなかった。これに対し新しく導入された高収穫品種IR8号の反収は、導入当初無施肥でも3000キロから3500キロを記録し、この時はじめて村人たちは、反収の高さによって特定品種を選択することを知ったのである。掛け流し水田を湛水水田へ変える造営作業、耕起後さらに牛に曳かせ耙をかけるなど田拵えの作業、移植作業などに対する各世帯の取り組みの速度に差はあったものの、導入からほぼ十年が経った時点で、村内のほぼ全世帯が高収穫品種の栽培を手がけるようになっていた。在来品種に比べIR8号の食味が落ちることも村人たちの不満ではあったが、その反収の圧倒的な高さはそれら諸々の不満をかき消してしまう力があり、その後同じ高収穫品種であるものの食味が良くなったIR12号や16号も導入された結果、1990年代後半には、高収穫品種によって他の品種は駆逐される寸前であった。このようにこの時期、村人たちがこぞって高収穫品種を求めた要因として、当時すでにこれから新たに水田に造営できる土地は村内にほぼ無くなっていたこと、自分たちの子供たちが結婚し世帯を持つ頃には一人当たりの耕作可能水田面積は確実に減少するであろうと予測されていたこと(27)、米の売買は重量単位でなされ特定品種や産地に対する「銘柄米」は存在しなかったことがあげられる。
5−2 早稲種の普及 2000年代はじめ〜現在
1990年代後半には高収穫品種IR8号、IR12号、IR16号の三種によって村で栽培されている品種がほぼ席巻され、それ以外の品種は、湛水田を造営できない掛け流し水田で在来品種が栽培されたり、水位の深い水田で高収穫品種ではない背の高い在来品種が栽培されたり、あるいは自家消費用に食味の良い伝統品種が栽培されたりなど、限定的に栽培されているにすぎない状況に追い込まれていた。ところがこの頃から高収穫品種の反収が減り始めた上、小型双翅目昆虫の幼虫体が成育途中の稲の茎に入り込み葉を黄変させて枯らすマヴ・ベ(mavo be)と呼ばれる虫害が北西部地方で大流行し、大きな被害を受けた(28)。殺虫剤と噴霧器を買うことのできた数人の村民は、その後マヴ・ベに対処できたが、大半の村民は現在でも対処する手段を何ら持たないままである。それに加え2000年の旱魃は、水ストレスに弱い高収穫品種を直撃し、その短所が露呈された。また先述したように移植は各世帯を単位に行われる作業となり、その結果、賃雇い労力を充分に投入できない世帯では田植えの終了が3月も中旬になることが珍しくはなくなった。例年3月は雨季の終わる頃にあたり、降水量が2月までに比べて激減し、年によっては数日しか雨の降らないこともある。高収穫品種は生育期の水不足による水ストレスに弱く、降雨のパターンによってはとりわけ水掛かりの良くない水田などでは旱魃ではない年でさえ、期待したほどの高い反収を高収穫品種によって実現できない事態が増加した。
このような事態を前に多くの村人たちが採った選択の第一は、早稲種の導入であった。稲の播種から登熟までの成育期間は、伝統品種で5ヶ月から6ヶ月、高収穫品種で4ヶ月強であったのに対し、新しく導入された早稲種は3ヶ月強であった。時間のかかる移植、そして不安定さを増す雨季末期の降雨、その二つへの対応と言う点では早稲種が優れており、同じ好条件下での栽培では早稲種の反収は高収穫品種よりも低く2000キロ前後であるものの、水不足による水ストレスに陥る前に生育期を脱する点において、利が認められた。さらに、この地方の稲作には同じ雨季稲作の中でも、1月に播種を行う「先稲」(vary aloha)と3月に播種を行う「後稲」(vary afara)の古くからの作期の区分があり、同じ品種の稲を同じ水田で栽培しても、「先稲」よりも「後稲」の方が成長が早くまた反収の良いことが経験的に広く知られていた。しかしながら、後稲の栽培には常に雨季後半の不安定な降雨の問題がつきまとっていた。この危険度を軽減したのが早稲種であり、ある程度の水田面積を持ち、賃雇いによって移植の労働力を充当できる世帯では、この早稲種を用いて後稲に取り組む傾向が出てきている。
村人たちが採った選択の第二は、さまざまな機会にさまざまな品種の導入を始めたことである。旅に出た村人はそこで出会った収穫量が多く成育期間の短い品種を競って持ち帰るようになり、ジャポニカ種や早生品種もそのようにして村に持ち込まれた品種の中の一つであった。このため、その品種を持ち帰った人の名前が、稲の品種そのものの名前となって流布されるかつては見られなかった現象も生じた上、今ではさまざまな名前の稲が栽培されており、村人自身果たしてそれが名前通り異なる品種(karazana)なのか同じ品種に異なる複数の名前がつけられているのか誰も見極めることのできない状況になっている。
5−3 在来品種の回帰 2004年頃〜現在
現在村内の土地は、村人たちの技術と労力で水田を造営することのできる土地は、ほぼ全て水田となっている。このため既に水田となっている土地をさらに工夫して、そこからの収穫を増やす努力が顕在化している。その第一は、水田の端の傾斜地を削り、そこを湛水田に変える土地そのものの加工である。その第二は、水深が深く背の低い高収穫品種や早稲種を植えることのできない池(matsabory)とも呼びうるような場所に、茎の長い品種を植える、品種の選別である。高収穫品種登場以前に栽培されていた在来品種の中には、播種から登熟まで6ヶ月から7ヶ月かかるものの、背丈が2メートル以上に達するダンガ(danga)やツィ・マタウン・ドゥラヌ(tsimatatahondrano)の品種があり、雨季到来前に池の周囲などの低地に播種されていた。高収穫品種導入以降ここ20年近く栽培されていなかった在来品種が、再び呼び戻されたのである。そればかりではなく、反収が低く、登熟までに時間がかかる在来品種の多くが持つ長所、丈が高く水深の深い水田でも栽培できること、茎が強く強風でも倒れないこと、成育途中の水ストレスに強いこと、そして何よりもマヴ・ベを含めた病虫害に強いことに村人の目が向けられ、姿を消していた在来種や伝統種が近年再び栽培されはじめているのである。しかしそのような中でも、白米に対して市場価格の安い赤米に属する在来種や伝統種は、復活の兆しが現在までのところ見られない(29)。
この20年有余の調査村落において栽培されてきた稲の品種とその選択の変遷を見てみると、「生存」に立った稲作の特質を看取することができる。すなわち、多品種栽培から高収穫品種導入によるその寡占状態へそして再びの多品種栽培への流れは、通常流布されている生存型農耕における多品種栽培に基づく「危険分散」説を、はっきりと否定していることである[cf.守田 1994:67-70]。村人たちは、「危険分散」を目的として品種の選択を行ってきたわけではない。もし、国際稲作研究所の開発した高収穫品種が、反収が高いだけではなく、病虫害にも強く、水ストレスにも強く、早く生育し、茎が強く風にも倒れにくく、丈が高く水深の深い水田でも栽培でき、なおかつ食味も良かったならば、村で栽培されている稲は今頃高収穫品種だけに集約されていたにちがいない。しかしながら、村人が稲に対して求めるこれらの性質全てを備えた単一の品種は今のところ無いがゆえに、それぞれの稲の品種が持つ性質の特定の側面を、耕作者たる村人一人一人が選択し栽培してきた結果が、このような品種選択の時間的遷移を生みだしたのである。村人が耕作権をもつ水田区画は村内だけでも通常複数あり、それぞれの水田の水利や地形や地質や日照の条件は同じではない。また、水田の面積も異なり、それぞれの世帯の人数も、協同労働組織の様態も、可処分現金の量も、異なる。これら異なる稲作にかかわる諸条件を抱えた人びと一人一人が、その条件に応じて異なる性質をもつ稲の品種を選びとることは、既に述べてきた「稲作+α」を生活の基本としてきたこの地方の人びとにとって、当然の対応であろう。
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