VI 「生存」としての小商品生産

 調査地の人びとの主たる食料および主たる現金収入の双方が、米および稲作である。村人たちも、「自分たちは稲を作っている」、「稲作が自分たちのヴェルンテンガ(生活)である」と語っている。それでもなお彼らは、「稲作農民」ではない。なぜなら、稲作は彼らが生活する土地において多数存在する資源利用の一つの形態であるに過ぎず、稲作以外の条件が揃うならば何時でも他の資源利用方法へと活動の重心を移動させる可能性を、彼らの「生存」(ヴェルンテンガ)は常に孕みながら成立しているからである。魚の漁獲と売買、ハチミツの採集と売買、酒の製造と売買、レンガの生産と売買、家具の製造と売買、衣料品の仕入れと売買など、このような活動が生計の主たる部分を占めている世帯、あるいは一時生計がそのような状態に置かれる世帯は、村においてもなんら珍しいことではない。したがって村人たちにとって水稲栽培と水田耕作は、「ツィミヘティの祖先からの習慣」(fomban-drazana Tsimihety)ではあっても、子々孫々伝え残されるべき家業でもなければ家産でもない。
 けれどもこのことは逆に、北西部地方でこの20年間に生じた稲作、とりわけ品種選択における三度の変化、国際稲作研究所の高収穫品種の受容、早生品種の普及、在来品種の回帰、それらに示された村人の素早い対応についての説明を与えてくれる。反収だけの結果から見れば、20年経っても2t/haに達しない稚拙な稲作をめぐる緩慢な変化がそこで繰り広げられているにすぎないようでもある。しかしながら村びとたちは、国家によって稲の栽培を強制されたり米の貢納を課せられたりしているわけではなく、あるいは自らの文化によって「稲作に巻き込まれている」[cf.ギアーツ 2001:120-123]わけでもないがゆえに、「生存」に立った多数ある資源利用法における選択の一つとして、時に国の指導も援助も無い中で高収穫新品種や移植と湛水田造営の新技術を採り入れ、時に伝統品種や在来品種を簡単に捨てさり、時に期待した高収穫をあげられなくなった高収穫品種から弊履を捨てるごとくに離れ、時に一度捨てさった伝統品種や在来品種を呼び戻すことができたわけである。稲の品種は、単年度毎に選択ができる。ゆえに村人たちは、品種を取り入れることにも、また捨て去ることにも、その何れにもためらいがない。このような村びとたちの稲の品種選択をめぐる態度は、農学者守田が述べた品種選択のあるべき姿、「米はやはりそれを作る人が自分でよいと思ったものの品種を選んで作るのが本当なので、そのさいに何を基準にしてそれぞれの農家の人が品種をえらぶのかは、事情により、その人の判断に仕方により、また人それぞれの個性によってまちまちであるのは仕方のないことである」[守田 1971:77]と言う一見何の変哲もない言葉を彷彿とさせる。
 守田のこのような言葉の背景には、「農業には他人の資本はいらないのである。−中略−それは、なぜか。私は思う。農業には資本という範疇がなりたたないからなのである。では、農業に資本範疇がなりたたないのは、なぜか。私は、それは農業が生活だからなのだ、と思うのである。つくったものを自分で食べ、一部をひとに与える。無償、有償、与えるかたちはいろいろであろう。−中略−収穫したものをみずから消費するよりも他に与え売る部分のほうが多いとしよう。それでも、売った代金の一部は生産に使われ、他の一部は生活に使う。それは生活なのであって企業ではない。−中略−農業の大きさにかかわりなく、私は農家はすべて小農だと言うのである」[守田 1978:139-141]との主張が屹立している。守田の小農論は、そのまま文化人類学において「農民」を規定したE.ウルフの有名な言葉、「本来、農民は経済的な意味においての企業を運営しない。農民は家政を管理するが、事業を行うわけではない」[ウルフ 1972:3]へとつながってゆく。もちろん、守田もウルフも、農民は売買をしない、商品を生産しないと主張しているわけではない。あるいは農民は外部から隔絶された空間の内部で、栽培や耕作について自己決定権を行使する存在だと主張しているわけでもない。地形や土壌や降水量や病虫害と言う自然的条件であれ、世帯の人数とその構成員や労働力の充足や耕作権の獲得と言う社会的条件であれ、耕作権を持つ水田面積や米価や牛の価格と言う経済的条件であれ、高収穫品種の出現と手持ちの品種数と言う育種的条件であれ、実にさまざまな自分たちの手を離れた制約のもとで、村びとたちは日々の生活を展開することを余儀なくさせられている。しかしまさにそうであるがゆえに、村びとたちはある一つの条件だけに対応したり依存したりした生活を恒常的に営んでゆくことが困難であり、その結果としてさまざまなものを自家消費と売却との閾値の低い中で、その時々に作り続けているのである(30)。
 一見「稲作農民」とも見ゆるマダガスカル北西部の人びとの生活が、このような「生存」を基盤とした多様な活動の複合体にほかならないことは、アフリカ農業の特質を実地調査に基づいて長年探求してきた農学者杉村が、「アフリカの農耕社会における生業の「多生業性」という現実は、農耕に加えて農耕以外の生業も行われているというような付帯的なものではない。掛谷が指摘するように、アフリカ農民の生業特性は、むしろ農耕に著しく特化せず、多面的に自然を利用する兼業形態の中に、いわばその本領が認められることなのである。それゆえその生活のリアリティに迫るためには、先進国で農業を出自とするような<専業>を前提としてきた農業者像とは異なる、アフリカ小農世界の多生業こそを本領とする生業イメージを再構成していくことが必要なのである」[杉村 2004:75]と力説する「多生業性」へと限りなく近づく。このような「生存」や「多生業性」の脈絡に置かれた小商品生産とは、自らの外に生産されるべき対象としての何物かが措定されるのではなく、自らの身体をも資源と化してゆく生活全体そのものの実践としてあらわれるものであり、それゆえ生活の中に取り入れられている何物かが商品となることの偶発性がきわめて高いことを認識しなければならない。したがって、全てを小商品資源とする可能性を持って実践される生活とは、必ずしも「貧困」に由来する資源の切り売り現象などではない。調査村内に家と水田と畑と牛を持つ一方、7km離れた県庁所在地の町に住み、中古とは言え自動車2台とトラクター1台を所有し、村人たちから村一番の「富者」(mpanan-kariana, olon'ngetroka)と見なされている男性の活動が、このことを物語っている。すなわち、雨季の水田稲作、衣料品の仕入れと販売、宿の経営、賃貸住宅の建設と貸し出し、米の収集と売買、トラクターを用いたレンガや板材の収集と販売、衣料品や米や現金の貸付と取り立て、牛の買い付けと販売、電気溶接および動力精米の請負、牛と豚と家禽の飼育、ハチミツの収集と販売などの諸活動を、自分とその家族および常雇いの男性3人だけで手がけており、富者であるはずの男性の生活にあらわれた多生業性と偶発性は、村に住んでいる人びとの生活にまして高いのである。
 「多生業性」ないし「生存」を基盤とする小商品生産が、低生産性と言う生態的条件に呼応して生じた地域的な現象なのか、それとも社会的分業の未分化と言う世界史的な現象なのか、あるいは一つの文化的型なのかについての検討は、次なる機会を待ちたいと思う。

 註
(1)マダガスカル語(teny malagasy)は、言語学的にオーストロネシア語族ヘスペロネシア語派に属するが、その内部には複数の方言(fitenim-paritany)が存在する。しかしながら、各方言の話者は、他のマダガスカル語方言話者との間で意志疎通が可能である。その一方、十九世紀よりアンタナナリヴ地方のメリナの人びとの方言が、学校教育において教授され、現在では教育、新聞やラジオ・テレビ、官報などで用いられる「公用マダガスカル語」(fiteny official)の基礎となっている。調査地域においても学校教育ではこの「公用マダガスカル語」が教授され、受信できる首都から発信される短波ラジオ番組で用いられている言葉も「公用マダガスカル語」であり、この地方の日常会話の中にも多くの「公用マダガスカル語」由来の単語が流入している。語彙、発音、アクセントなどの面において、マダガスカル北西部地方ないしツィミヘティの人びとの言葉と、公用マダガスカル語ないしメリナの人びとの言葉との間には、顕著な差異が認められる[cf.Bakoly DOMENICHINI-RAMIARAMANANA 1977:15-25, P.Verin et al. 1969:2683, 深澤 2005:173-188]。
(2)「栽培する」、「耕作する」を意味する他動詞マンブーリ(mamboly)にpを挿入したムパンブーリ(mpamboly)、あるいはapを付加したアンパンブーリ(ampamboly)は、「マンブーリする人」、すなわち「耕作者」ないし「栽培者」を意味する。前者は公用マダガスカル語ないしメリナ方言の語法であり、後者はツィミヘティ方言の語法であるが、調査地では両者の用法が混在して用いられている状況にある。
(3)「身」、「自分」、「そのもの」を表すメリナ方言ないし公用方言のテーナ(tena)は、ツィミヘティ方言ではテンガ(teña)に訛音化する[FARIDANONANA 1977:108]。
(4)ツィミヘティ(Tsimihiety)。マダガスカル島北西部を中心に居住する民族の名称。人口数は100万人を超えているものと推測され、マダガスカル島内の民族としてはメリナ(Merina)、ベツィミサラカ(Betsimisaraka)、ベツィレウ(Betsileo)に次ぐ人口数を擁する。ツィミヘティとは、「髪を切らない」を意味し、元々は他称詞であったが、現在では自称詞としても用いられている。ツィミヘティの人びとは無頭制社会であり、村落(fokonlona)を単位とする自治制度が浸透している。ツィミヘティの人びとは、水田稲作を中心に、牛牧畜、焼畑稲作、畑作、漁撈を営むと共に、米・布・服・木材などの流通や売買にも携わり、町や都市では教員・兵士・憲兵隊員・警察官・税官吏などの下級公務員として働く者も多い[cf.TONGASOLO 1985; Wilson 1992]。
(5)「間食」ないし「おやつ」だけを指示するマダガスカル語はない。そのため、『フランス語−マダガスカル語辞典』でgouterをひくと、「昼間のちょっとした食べ物」(sakafo kely amy ny folaka andro)とのマダガスカル語説明が与えられている[MALZAC 1973:395]。調査地の人びとも、「間食」や「おやつ」を表現したい時には、メリナ方言などと同様にフランス語のgouterを借用し、グテ(gote)と呼んでいる。
(6)メリナ方言ではウフィキャ(hofika)と呼ばれ、ラテン学名は Dioscorea bulbiferaである。このヤムイモのむかごは毒抜きして食用になるだけではなく、生のむかごを切って傷口に塗ると消毒や殺菌作用があるため、化膿した傷の治療薬としても用いられる[RANDRIAMAMONJY 1977:124-125]。
(7)季節としての米の端境期を指す単語は、マイツ・アヒチャ(maitso ahitra)である。マイツ・アヒチャは、緑を意味するマイツ(maitso)と草を意味するアヒチャ(ahitra)の複合語であり、単語そのものの意味は「緑の草」である。すなわち、一年が12月頃から3月頃までの雨季(asara)と4月頃から11月頃までの乾季(maintany)に二分されるマジュンガ州北部地域においては、雨季の到来と共に枯れていた草や木々が新芽を出して緑の景観を作り出すため、マイツ・アヒチャとは、12月から3月頃の期間を指す。例年この時期は稲作が行われているものの収穫期の6月までには間があり、一方各世帯は米の自家消費や売却のため手持ちの米を使い果たすかあるいはあってもわずかの残量となっていることが普通である。そのため、マイツ・アヒチャと言えば、米が不足状態になり、食物の確保に苦労する頃、すなわち米の端境期を意味する。
(8)マダガスカル北西部地方ないしツィミヘティの人びとの言葉で、「世帯」を表す単語は、フィアナカヴィアナ(fianakaviana)、トゥカントゥラヌ(tokantrano)、アンコフナナ(ankôhoñana)など複数存在する。それぞれの単語の指示範囲には重なり合う部分と重なり合わない部分とがあるが、これらの単語は私が論文において指摘したようにムラ(fokonolona)を構成する単位としてムラとの対比において用いられ、その内部に包含される成員とその関係について意見の一致は見られない[深澤 2001:1-50]。もし、この「世帯」を生計の同一性から捉えるならば、稲の刈り入れ後牛蹄脱穀のための柵の中に積まれた稲のにお一山一山が、可視化された「世帯」とその米消費量を表している。
(9)ツィミヘティ方言で単に「稲」(ヴァーリ vary)と言えば、それは水稲を指す。「水稲」(vary an-drano)と言う呼び方もなされるが、説明的な意味合いが強い。「陸稲」については、「丘の稲」(vary an-tanety)、「大きな稲」(varibe 品種名であると同時にジャワニカ種が多い陸稲種の籾米の大きさに由来する呼び方)、「穴穿け稲」(vary an-tomboka 播種時の棒を用いた点播に因む呼び方)などの呼び方がある。
(10)「焼畑」と言う一般名称としてメリナからベツィミサラカの方言ではターヴィ(tavy)と言う単語があるが、マダガスカル北西部では用いられていない。「森を伐る」ないし「森を拓く」(tetiky ala)と言う表現が、焼畑ないし焼き畑耕作を指している。また、水稲・陸稲の刈り入れの終わった後の土地をマタンギー[matrangy cf.FARIDANONANA 1977:77]と呼ぶが、とりわけ焼畑による陸稲の栽培地跡を指す傾向が強い。「水田」の所有・用益権の継承、焼畑地の用益権の確立と消滅の詳細については、拙稿を参照[深澤 1989:394-416.;1996:99-114]。
(11)調査地においてカボチャとサツマイモは、その実やイモよりも、その葉が「おかず」として食されることの方が多い。またマニオクは、イモがハニン・ブルッカとして食されることはもとより、その葉は、搗いて煮込みラヴィン・マホグ(ravin'mahogo)と呼ばれる頻繁に作られる「おかず」として利用される。
(12)遺体を墓に埋葬後数年の間に、もう一度牛を故人に対して捧げる供犠を指す。ラッサ・ハリアンガとは、「財産を切り分ける」あるいは「財産を切る」意味であり、故人の取り分の牛を送ることが目的とされ、この儀礼を果たさない場合には、故人がその子孫などを病気にするものと語られている[cf.FARIDANONANA 1977:91-92; TONGASOLO:129-130]。
(13)「結婚」に充てたhala-baiavyもfangalam-baiavyも「女性を取る」の意味である。現在では、牛2頭もしくはそれに相当する現金が、通常の婚資の額である。この婚資の意味について、ツィミヘティの人びと自身は、「女性の親を敬うもの」(hajaina ny rafozana)と説明している。結婚に際して贈られた牛については、女性が所有者であるものの、自分の両親の許に預け、女性の父親や兄弟がこれを用益することが多い。
(14)牛は個人によって所有されているが、一つの家族あるいは兄弟同士の牛は一つの牛囲い(valan'omby)の中で飼育される。この一つの牛囲いの中の牛は、このような農耕作業の際には、無償で共同に用益される。したがって、個人で数10頭の牛を所有する必要はないものの、蹄耕を行うためには、一つの牛囲いの中に少なくとも20から30頭以上の牛のいることが必要である。異なる牛囲いから牛を農耕のために借用する際には、現金なり米なりの反対給付を求められることが多い。
(15)メリナ方言でスアヴァーリ(soavaly)と言えば、フランス語のchevalの訛音で馬を指す[Andro Vaovao sy Trano Printy Loterana 1973:86]。一方ツィミヘティ方言のソヴァーリ(soavaly)は、このメリナ方言のスアヴァーリに由来するものと思われるが、農耕や牛車の牽引などに用いられる役牛を指す。したがって、ソヴァーリには生まれて3年以上を経た牛が選ばれ、役牛には個体のコントロールのため鼻に穴を穿け、そこに紐を通しておく。牝牛も蹄耕や牛蹄脱穀に用いられ役牛の役割を果たすが、牛車や犁を牽引するのは去勢牛だけであり、そのため単にソヴァーリと言えば、去勢牛を指すことが多い。
(16)かつて、このキザーニをめぐる柵は、ムラ(fokonolona)の共同作業として行われ、ムラの構成員の牛は、誰でもこのキザーニの中に放牧することができた。しかしながら、柵の共同設営に対する負担感から近年ではムラ管理のキザーニは無くなり、それぞれの牛所有者たちが、各牛囲いを単位にそれぞれのやり方で雨季も牛群を管理する形態へと移行してしまっている。すなわち、ある牛囲いを共有する人たちは自分たちで山に柵を作ってキザーニを設け、他の牛囲いを共有する人たちは雨季でも村内の牛囲いの中に牛を入れ、牧童の見張りのもとで草をはませたり、あるいは綱にしばりつけて草をはませたりしている。
(17)マダガスカル北西部地方における牛の価格は、肥育の度合いに加え、牡牛>牝牛、去勢牛>未去勢牛、加齢牛>若年牛の組合せから決定される。したがって、最も価格の高い牛は、去勢牛の中で身体の大きな個体となる。牛には犬などのような固有名こそ与えられないものの、耳を一族毎に決まった形で切り取る耳印(sofin'omby)、性別、年齢、毛色、模様、角の形によって、完全に個体識別がなされている[cf.MOLET 1953:18-27]。
(18)マダガスカルにおけるヴァニラ生産地であるアンタラハ(Antalaha)、サンババ(Sambava)などの地方では、村人たちもヴァニラの栽培に専心し、稲作をほとんど行わないため、米はもっぱら仲買業者が、北西部地方にまでトラックなどでやって来て買い付けていた。ところが、2003年以降ヴァニラの価格が下落し、ヴァニラ栽培を諦めた村人たちが稲作を始めた結果、北東部から北西部にまで買い付けにやって来る米の仲買業者がほとんど居なくなってしまった。マダガスカル北西部地方からは、500kmの州都のマジュンガまでの道のりのほうが、800kmある北東部のヴァニラ生産地までの道のりよりも近いが、マジュンガの町で消費される米は、100kmほど離れたマルヴアイ(Marovoay)の米穀倉地帯からもっぱら調達される。牛蹄脱穀を行う北西部の米には小石や砂の混入が多いため、マジュンガの町の米消費者から北西部地方産の米は嫌われており、北東部からの米の買い付け業者がやって来ない場合、北西部地方で産出された米の流通経路は、極めて局所的なものとなってしまう。
(19)コンデンス・ミルクの空き缶がカプアカ(kapoaka)、灯油の空き缶がダバ(daba)と呼ばれ、計りの普及していないマダガスカルの農村における現代の共通した計量単位となっている。また町や都市の市場においても、手軽なカプアカは、米だけではなく、塩、砂糖、豆、コーヒーなどの計量単位として用いられている。白米の場合、米を盛りきったカプアカ3杯半でほぼ1キロに相当する。ダバは、農村で籾米を計量する際に用いられ、灯油缶に盛りきりで籾米を入れると、1ダバでほぼ13キロに相当する。
(20)鍋でご飯を炊いた時に、鍋の内側につくお焦げをアンパング(ampango)と呼ぶ。犬や豚の餌となることもあれば、その量が多ければご飯を新たに炊かずに、お焦げで一回の食事の飯を済ませることもある。また、不意の来客などに備えて、家屋内に居る人数よりも少し多めにご飯を炊くことが、村人の習慣である。ツィミヘティの共食習慣では、食事時に居合わせた人間には誰であれ食事をふるまうものであり、また食事をふるまわれた方も食事の提供そのものに対して謝辞を述べないこととされている。
(21)72から73頁および78頁の表の記載を見ると、この家族は、自分たちの「所有水田」が0.40アールでそこからの籾米の産額が715キロ(55ダバ)、父親からの貸借水田が同じく0.40アールでそこからの籾米の産額が650キロ(50ダバ)となっている[ROUVEYRAN 1967]。ところが、91頁の表では「米は自家消費」と記載されている一方、88頁の表の欄外には、「籾米の消費 60ダバ+牛と交換25ダバ+4000フランで購入22ダバ=100ダバ 1300キロ」と記載されている(ibid.)。すなわち、父親からの貸借水田における籾米収穫量が、自家消費欄にもまた売却欄にも計上されていないのである。さらに自分自身の調査経験に照らしても、村人の現金による消費や売買は偶発的に行われることが多く、家計の出入りを高い精度をもって記録することは至難である。
(22)後述する定額貸借契約(fondro)による水田耕作権の賃貸であるが、50ダバの収穫のある水田の籾米による賃料が10ダバは、かなり割安である。父親と息子との関係による貸借であることが、このような割安な定額貸借を可能にしたのであろう。
(23)小学校は、月曜日から金曜日までの週5日制であり、7月下旬から9月上旬のヴァカンス、12月下旬から1月上旬のクリスマス・正月休暇、そして4月の復活祭休暇の期間は、休校になる。そのため、教員として働いているからと言って、水田や畑での作業が全くできないわけではない。水田稲作の作業においてどうしても男手が必要な場面は、導水路の整備や掘削の力仕事、牛を扱う耕起ないし蹄耕と耙による田拵えおよび牛蹄脱穀であり、とりわけ後者の作業日数は数日から長くて2週間くらいである。むしろ、移植水田が普及した現在では、水田稲作作業の中心は田植えであり、これは女性や子供によっても遂行が可能である。
(24)ツィミヘティの人びとにとって最もおぞましい食行動が「人を食べる」(hôman 'oloña)ことであり、それは「邪術師」(ampamosavy)がとるとされるパターン化された行動の中で最も嫌悪を催すものであり、また昔話(angano)で語られる怪物ラカカベ(Rakakabe)の恐ろしさをあらわす行動である。次ぎに忌避される食行動が、犬を食べることであり、ある村では犬を食べた人が他の村人たちから「犬を喰ったような奴と一緒の墓に入るのはごめんだ」と糾弾され村から追放されている。犬を食べるこを忌避する理由は複数あるが、その強力な理由の一つが、「犬は人間の死体も食べる」ことである。調査村において過去の「飢饉」シラウングをめぐる伝承について調べたことがあるが、その時でも、人間や犬を食べたとの話しは全く聞かれなかった。西に隣接するサカラヴァ(Sakalava)の人びとが、豚、猪、キツネザルやオオコオロギ、カニなど多くの食べ物に関する禁忌(fadin-kanina)を持つのとは対照的に、ツィミヘティの人びとの間では、人間と犬以外、共通に食べてはならない動物は存在しない。
(25)マダガスカル全体として見た場合には、焼畑耕作が稲作よりも先に、また焼畑稲作が水田稲作よりも先に、導入され定着した可能性が高い。しかしながら調査地のマジュンガ州北西部地域では、陸稲には在来品種(varin-drazana)が見られず水稲種の転用が多いこと、焼畑陸稲栽培地だけを指示する語彙がないこと、50年前の調査地域の航空写真を見ると谷地から最初に水田化されていることなどから、焼畑稲作は、水田稲作が導入、成立してから後に、焼畑耕作に陸稲種が組み合わされて行われるようになったものと推測される。
(26)「ムラの仕事」と訳したアサ・ベ(asa be)は「大きな仕事」、アサン・ピキャンバナナ(asam-pikambanana)は「団体の仕事」の意味である。
(27)1985年頃の村人たちの予測は、的確であった。1985年の村の全人口がおよそ330人、ほぼ一世代が経過した2006年の同村の人口がおよそ480人である。
(28)その原因として、高収穫品種は元来肥料の大量投入を前提としており、無施肥による栽培が長く続いたこと、種子籾米の更新が全く行われなかったこと、導入当初から見よう見まねであったため密植傾向が強かったことが考えられる。1985年当時、「肥料」を指す公用マダガスカル語のゼジキャ(zezika)と言う単語そのものを知らない村民が多かった。現在、ゼジキャの単語は村人たちの知るところとなっているが、有機肥料の作り方を知らない上、化学肥料は県庁所在地の町で売られているものの、これを購入して使っている村人は皆無に近い。
(29)白米よりも赤米が安い理由は、マダガスカル人消費者の嗜好によるものではなく、フランス植民地時代から第一次共和制時代にかけての米がマダガスカルの重要な輸出農産物であった当時、「デラックス米」(riz du luxe)の名称で海外で売られていたのが白米であったため、その影響が米の輸入国になった現在でも残っているためと言われる。
(30)日本史の網野善彦も、中世の「百姓」について「農業民とふつう考えられてきた人々の場合にしても、別の機会にふれたように、決して水田や定畠の耕作のみに携わっていたわけではなく、さまざまな非農業的、非水田的な生産に従事していた。諸国の年貢品目を通観してみれば明白であるが、絹・糸・綿・布・油・紅花・菓子・藁・薦・筵・槫・香・炭・紙などの大部分は、これまではなんとはなしに「農民」といわれてきた平民百姓によって生産されたことは確実であり、鉄・金・雑器・瓦・馬・牛などについても、そう考える根拠はあるといわなくてはならない。中世末期までの社会的分業は、このように未熟だったのであり、もし非農業民という言葉を使うことが不正確であるなら、もはや農民という用語自体も、きわめて不適切といわざるをえないであろう」[網野 1984:28-29]と主張している。網野が挙げている中世日本の「百姓」たちによる生産物は、現代マダガスカル北西部の人びとによる生産物とたいへんに似通っている。
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