III. 「生存」の形
- 食生活から見た「生存」としてのハニン・ブルッカ
ヴェルンテンガに、あらかじめ描かれた特定の形は無い。しかしながら、ヴェルンテンガが「生活」や「生存」であるからには、それは特定の脈絡を与えられることによってきわめて具体的な形をもってあらわれる。マダガスカル北西部ないしツィミヘティの人びとが遂行し実践するこの「生存」の形を、もっともわかりやすく示すのは、その食生活の構成である。
村人たちは、「ご飯を食べる」(homam-bary)ことを「食事をする」(misakafo)ことと同じ意味で用い、ご飯と共に食べる野菜、肉、魚あるいは昆虫などの「おかず」をロー(rô)と呼び、米以外のトウモロコシ、サツマイモ、マニオク、バナナ、プランテーンバナナ、ヤム芋、タロ芋、あるいは小麦粉を練って揚げたさまざまなムフ(mofo)、バナナと米粉を搗いてバナナの葉にくるんで茹でたムフ・ラヴィナ(mofo ravina)、米粉と砂糖と油を練り鍋に入れて焼いたグジュグジュ(godrogodro)などを、ハニン・ブルッカ(hanim-boroka)すなわち「副食」と総称する。とりわけこの地方の人びとの食生活を特徴づけるのが、ハニン・ブルッカの存在である。
ハニン・ブルッカとは、「食べ物」を意味するハーニニ(haniny)と「臭い」を意味するヴルッカ(voroka)との複合語であり、「臭い食べ物」が直訳の意味である[FARIDANONANA 1977:38; Richardson 1885:787]。ハニン・ブルッカは、一回の食事の際にご飯を食べた後に出てくることが多い一方、ご飯を食べる食事と食事との間に「間食」(5)として供されることもあれば、米の端境期には「主食」(sakafo fototra)として食されることもある。さらにハニン・ブルッカには、野菜(anana)と一部の果実(voankazo)を除く、ほとんどあらゆる食用植物が含まれる。ハニン・マンギチャ(hanin'mangitra)すなわち「芳しい食べ物」とも呼ばれ、さまざまな儀礼や供犠において牛や鶏、ハチミツや酒と共に神や祖先に対する捧げ物として不可欠な米に対し、ただ単に日常の食べ物としてしか扱われないハニン・ブルッカすなわち「臭い食べ物」の儀礼的な劣位は明かであり、米食優位の食生活観と食習慣が明瞭に看取される。しかしながら、ハニン・ブルッカが多くの食用植物をその内に包含し、その食される時間も形態も、「副食」、「間食」、「主食」その何れとも対応する時、一見「米食文化」とも見えた彼らの食生活が、実はハニン・ブルッカを中心に構成され展開されていることに気がつく。おそらくハニン・ブルッカ「臭い食べ物」と言う呼び方そのものが、米食がこの地方の人びとの食生活の中で確立してから後に、ハニン・マンギチャ「芳しい食べ物」との対比で名付けられたものであろう。
ハニン・ブルッカの「臭い」と言う形容詞は、野生のヤムイモ類の匂いに由来するものと思われる。マジュンガ州北部地方には、アンターディニ(antadiny)、マリータ(malita)、ウフィキャ(ofika)もしくはウフィキ(ofiky)と呼ばれる三種類のヤムイモが山野に自生している。この三種類のヤムイモの中ではマリータが、一番えぐみが少なく、皮も剥かずに茹でてすぐに食することができるが、数は少ない。ウフィキャは、地中のイモではなく、むかごを食する種類のヤムイモであるが、このむかごには毒があり、水晒しによる毒抜きの作業が不可欠である上、多雨地帯を好んで自生するため、降水量が1400mm前後の調査地地方では、ほとんど見られない(6)。最も多く山野に自生しているヤムイモが、アンターディニである。しかしながら、このアンターディニのイモはえぐみが強く、食するためには、皮を剥いで細かく切った上、水晒しと天日干しを交互に何度か行わなければならない。搗いたバナナとアンターディニの粉を混ぜバナナの葉にくるみ茹でて食する場合などはまだしも、あく抜きしたアンターディニだけを単品で茹でて食べると、独特の土臭いような匂いが鼻をつく。しゃきしゃきした食感とほんのりした甘みをもつマリータは副食や間食として食されることもあるが、米が足り、マニオクやトウモロコシあるいはバナナが豊富にある中で、最も自生数の多いアンターディニを積極的に食べる人はいない。アンターディニは、状況により強いられて食するまさに「臭い食べ物」としてのハニン・ブルッカを、代表する食用植物である。
強いられてアンターディニを食べなければならない状況は、シラウング(silaono)の語によって表現される。シラウングとは、「飢饉」ないし「凶作」を意味する。しかしこの単語シラウングは、必ずしも全く食べ物の無い状態を指すのではなく、降雨量の不足や病虫害により稲作のできが悪いため米を主食とする期間が短い、すなわちハニン・ブルッカが主食となるような状態を指すことの方が普通である。そのためシラウングは、米の端境期をも意味する(7)。ハニン・ブルッカに依存する事態は、稲が平年作であっても売却等によって米が不足する場合などの食生活においても生じることであり、それゆえハニン・ブルッカは、飢饉や凶作の脈絡では救荒食として主食となり、稲の平年作の脈絡ではそれぞれの世帯(8)の米の貯蔵量に応じて、補完食や副食や間食の役割を果たす。調査地の人びとにとって、このアンターディニを食べなければならない状況がとりもなおさずシラウングの状態にあることを表す外的な指標であるが、それは地域全体にかかわることもあれば、世帯ごとの食糧事情として生じる場合もある。
さらに米の調理方法として、「ご飯」(vary maina)以外にも、サベーダ(sabeda)と呼ばれる「粥」が広く知られている。メリナなど中央高地の人びとは、日常の朝食にこの粥を食べるほどに粥と言う米の調理方法そのものを好むが、調査地の人びとは粥を「病人の反吐みたいだ」と揶揄してあまり好まず、朝食も夕食の残りのおかずかあるいは夕食に残ったお焦げ飯を食べることが多い。ツィミヘティの人びとにとってこの粥を食べることとは、病人や産婦あるいは老人のための特別食であることを別にすれば、食生活上の好みとして行われる炊飯方法ではなく、米の端境期に残り少ない米を食い延ばすための手段にほかならない。
「ご飯」(ヴァーリ)、「おかず」(ロー)、「副食」(ハニン・ブルッカ)と言う三区分が、言語に規定されたツィミヘティの人びとの食生活の体系を構成している。体系そのものが明解に区分される一方、米食を中心に据えつつも、各世帯における米の収穫量と残量に対応して多様な食物を主食、副食、間食の何れの形態でも摂ることを前提とした可塑性の高い食生活を営んでおり、彼らの語る「生存」の理念をよく体現していると言えよう。
- 土地利用から見た「生存」としてのヴィルング
マダガスカル北西部の人びとの上記のような「生存」に立った可塑性の高い食生活と密接に結びついているのが、土地利用の形態である。利用目的に応じた土地は、次ぎのように分類されている。
「水田」(タニンバーリ tanimbary):「土地」(ターニ tany)と「稲」(ヴァーリ vary)との複合語であり、「稲の土地」が直訳の意味である。稲の栽培されている土地がすなわちタニンバーリであるが、水稲の栽培されている土地についてのみこの単語が用いられ、陸稲の栽培されている土地はこの単語によって呼ばれないことに注意しなければならない(9)。水稲も陸稲も同じ稲であり、米とハニン・ブルッカの対比とは異なり食生活の上では何らの区別もなされない。しかしながら、土地の持続的利用と言う観点からは、毎年水稲が耕作される土地は「水田」として名指しされる一方、焼畑として一年でその土地における耕作を終える陸稲栽培地は、特化して名指されることはない。このことはそれぞれの土地への接近の様態にも反映しており、「水田」については開拓者自身に所有権が、そして開拓者の子孫には「水田」の用益権の継承が認められている。これに対し、焼畑地である陸稲栽培地は、そこで陸稲などが栽培されている期間に限り土地の用益が認められていたにすぎず、耕作が終わった時点で、ムラ(fokonolona)が管理する土地として再びムラ人たちの誰もがアプローチすることのできる土地へと組み入れられていた(10)。現在では、耕作可能なムラ内の土地はムラの成員たちの間で分割され、このような焼畑耕作地の用益権利用は見られなくなったものの、陸稲が焼畑における単年度耕作として栽培されていることには変わりがない。麦などの裏作の行われていない調査地では、「水田」と名指された土地は、第一義的には稲を産出するための土地であるが、刈り入れ後の6月から耕起の始まる12月頃までの「水田」は、牛のための広大な放牧地へと変わる点に留意する必要がある。さらに、後述するように「水田」は毎年持続的な耕作を行うことが前提とされているものの、稲の栽培が行われなかったとしても焼畑とは異なり、それによってある人の当該「水田」に対する既存の権利の様態が失効するわけでは決してない。水利条件として水稲を耕作する可能性を持つ土地が「水田」であり、そのため耕作のための労働力の不足などの条件によって休耕となる「水田」も珍しくはない。
「丘・山」(タネーティ tanety):「丘」や「山」を広く意味するタネーティの大半は、「水田」として加工のできない土地であると共に、村落(tañana)との対比においては、「森の中」(anatin'ala)に分類される空間である。集村形態をとる調査地では、村落は家屋の集合体として明瞭に看取され、またそこは人間(oloña)が住む空間(place フランス語由来の単語)である。このためツィミヘティの人びとは、「森の中」を居住空間とするべき動物(biby, kaka)、とりわけヘビ(biby lava 「長い動物」の意)が村落の中に入ってくることを嫌い、村落に入ってきたヘビを殺す習慣を持っている。また「森の中」とは、あるいは墓があり、動物だけではなく、カラヌル(kalanoro)、ザザヴァヴィンドゥラヌ(zazavavindrano)など人間の姿形に似てはいるものの人間には非ざる「物の怪」(raha)、「幽霊」(lolo)や「山賊」(dahalo)までもが住む場所である。食生活から見た場合このタネーティと呼ばれる土地は、焼畑が行われれば陸稲やトウモロコシなどを産出するが、それ以上に建材や家具作りに欠かすことのできない樹木、神や祖先に捧げる供物であり最高の甘味料でありまた酒や薬をも造ることのできるハチミツ、先に述べたアンターディニやマリータの野生ヤムイモ、様々な生薬としての草や樹木を採取する土地として、人びとにとって重要な意味を持っている。そしてこれらの土地への接近は、ムラ人にとっては誰に対しても開かれたものである。
「畑」(ヴィルングvilono):ヴィルングと言う土地の定義は、難しい。ヴィルングについて、『ツィミヘティ方言辞典』では「耕作地」(tanimboly)、「畑」(saha)と説明されており[FARIDANONANA 1977:124]、『マダガスカル北西部サカラヴァ方言−フランス語語彙』では、「田舎の人里離れた土地」[THOMAS-FATTIER 1982:365]と説明されている。調査地においてヴィルングは、『ツィミヘティ方言辞典』の説明とほぼ同じ意味で用いられているが、その名で呼ばれる土地において栽培される植物について定まった種類はなく、またその名で呼ばれる土地の全域が、必ずしも持続的に耕作されているわけでもない。もし、ヴィルングとはどのような土地でありそれが何処にあるかを知りたければ、乾季に北西部地方に行き、牛が侵入することを防ぐ目的の柵で囲い込まれた土地を捜せば良い。そのような土地は、ツィミヘティの人びとの住む空間の到る所に、とりわけ水利の良い川沿いに集中して見つかるはずである。しかし、あるヴィルングはマニオク畑のようであり、あるヴィルングはトウモロコシ畑のようであり、あるヴィルングはサトウキビ畑のようであり、あるヴィルングはバナナ畑のようであり、あるヴィルングは野菜畑のようであり、そして多くのヴィルングでは十数種の栽培食物が混然と植えられており、「畑」と言う訳語が与える特定の栽培食物が作られている土地と言う語感とは異なる印象を与える。陸稲が栽培される場合もあり、水稲を除く農作物のほぼ全てがこのヴィルングの内部で栽培されている。その水稲も苗代は、牛による食害を避けるためヴィルングの中に設けられることが多い。河や池などに近く水利の良いヴィルングは、小松菜、ネギ、インドクレッソン、カボチャ、サツマイモなどの葉野菜(11)やトマトが主として栽培され、「菜園」(tanin'añana)とも呼ばれる。この「菜園」を管理するのは主として女性であり、町の市場などで売却された葉野菜は、女性の重要な可処分所得となっている。ヴィルングは、「水田」と同様に、その土地が耕作されていようとなかろうと、それを拓いた人間には所有権が付与され、またその土地に対する権利は用益権として共系子孫(cognatic descendants)の間で継承されてゆく。
「水田」が米を供給する土地であることは、論を待たない。一方、「丘や山」そしてヴィルングは、「おかず」とハニン・ブルッカ、時として米をも供給する土地である。わけても、ハニン・ブルッカとヴィルングとの結びつきは強く、先述した「米の収穫量と残量に対応して多様な食物を主食・副食・間食の何れの形態でも摂ることを前提とした可塑性の高い食生活」は、ヴィルングがあることによってはじめて可能となっている。すなわちハニン・ブルッカにはマニオク、トウモロコシ、サツマイモ、ヤムイモ、タロイモ、トウモロコシなど多種多様な栽培植物が含まれるように、ヴィルング内部に栽培される作物の種類、作物の作付け面積や割合については、何らの制限も無い。村人たちは、「水田」にどの品種の稲を栽培するのかについて毎年考えをめぐらせる一方、ヴィルングでは何の作物をどれくらい植えるかについて毎年試行錯誤と改変を繰り返している。その結果、近年の人口の増大と一人当たりの利用可能な水田面積の縮小に伴い、ヴィルングではマニオクの栽培面積の急速な拡大を生じている。一方、県庁所在地の町から7kmのところに位置する調査地の村落では、水利の良いヴィルングを中心に市場で買い手の多い「おかず」用の葉野菜の栽培面積が、近年これまた急速に拡大している。耕作される作物の種類とその面積について、耕作者の恣意性が極めて強く反映され、それゆえ生産物について高い可塑性を秘めた土地が、ヴィルングと言えよう。
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「生存」としてのトウモロコシとマニオク栽培
「臭い食べ物」と呼ばれるハニン・ブルッカの名の起こりが、昔野生のヤムイモがその中心を占めていたことに起因すると考えられることを既に述べた。しかし、現在多種多様なハニン・ブルッカに含まれる作物や野生植物の中で、米を補う副食ないし端境期に米に代わる主食として大きな位置を占めているのが、トウモロコシとマニオクの二つである。その二つとも新大陸原産の栽培植物であり、一説ではマダガスカルにはマニオクがレユニオンから1790年に、トウモロコシが18世紀かそれ以前にヨーロッパ人たちによって持ち込まれたと指摘されているが[CABANIS et al. 1970:tome3 905-923]、現代では調査地のみならずマダガスカル全島で広く栽培されている。
ツィミヘティ方言でマホーグ(mahôgo)と呼ばれるマニオクが、タロイモ、ヤムイモ、サツマイモなどの他のイモ類に比べ優先して栽培される理由は、次ぎの六つである。
- 成長が早く、植え付けから7ヶ月ないし8ヶ月ほどの期間で収穫ができる。
- 植え付けは、マニオクの枝を地面に直接挿し木することによって行われ、労働力をあまり必要としない。
- 病虫害に強く、植え付け後の手入れも除草くらいで済み、それも苗木が小さい期間だけであるため、手間がかからない。
- ある程度の耐旱性がある上、地味をほとんど選ばない。
- イモだけではなく、マニオクの葉は搗いて煮れば、「おかず」ともなる。
- イモの生産性が高い上、イモは天日干しすれば長期の保存が可能である。また北西部地方で現在栽培されているマニオクは無毒種のものであり、毒抜きの手間がかからない。
マニオクの栽培に問題があるとするならば、マニオクは他の作物と混作できないことと、一度マニオクを栽培した土地にはしばらくの期間、他の作物を植えることができないことの二点であろう。しがたって、ヴィルングとなすことのできる土地が広大にあるならば問題はないが、限られたヴィルングの土地の中で、単年度にマニオクの栽培面積を拡大しすぎてしまうと、翌年度以降のマニオクの栽培面積を大きく減少させなければならなくなる。
ツィミヘティ方言でツァクツァク(tsakotsako)と呼ばれるトウモロコシも、調査地では栽培面積が年々増えている。
- 成長が早く、播種から3ヶ月半で、収穫ができる。
- 耕作地の除草を行っておけば、播種そのものは点播法により容易である。
- 播種から芽を出す段階で除草すれば良いくらいで、管理が容易である。
- ある程度の耐旱性があり、病気も少ない。
- バナナ、陸稲、豆などとも混作ができる。
- 穂を乾燥させたり、あるいは一度煮た粒を天日干しすれば、長期間の保存ができる。
トウモロコシ栽培の問題点は、播種直後の種子が鳥に食べられることがあること、成育してしまえば耐旱性がある一方、播種直後に降雨が不足すると芽を出さなかったり、枯れてしまいやすいこと、トウモロコシの葉はバッタやイナゴの格好の餌食となることにある。
マニオクは雨季が到来する前10月から11月にかけて植え付け、収穫は雨季の明けた6月以降になるため、その高い生産性も1月から3月の米の端境期を直接に救う作物とは必ずしもならない。これに対しトウモロコシは、雨季直前の11月前後に播種すれば2月から3月には収穫期を迎え、米の端境期を補填する作物として最も重要な位置を占めている。調査地の地方では、12月からの本格的雨季に入る前に、10月から11月の間に何日間か雷雨が続くことがある。トウモロコシは、このはしりの雨を待って播種を行うが、播種直後にしばらく雨が降らないと種子が芽を出さなかったり、芽が出ても枯れてしまう。その代わり、うまくこの雨を捉えてトウモロコシの播種を行えば、2月にも収穫を得ることができる。このため10月から11月にかけて雨が降ると、村の人びとは、誰が既にトウモロコシの播種を行ったのか、他の人は何時播種するつもりなのかについての情報交換に余念がない。トウモロコシのハイブリッド種の普及も始まっているものの、トウモロコシ栽培における村人たちの専心事項は、現在のところ品種よりもこの播種時期の設定にある。
新大陸原産のトウモロコシとマニオクが、稲作を中心とする調査地の人びとの生活の中に深く受容されている理由は、栽培が容易で成長が早くなおかつ生産性が高いと言う両者共通の作物としての特徴だけではなく、両者が同じハニン・ブルッカでありながらも異なる役割を果たし相互補完的な関係に立つ点にある。すなわち、マニオクは乾季の食生活の中で米食と共に副食または間食としてのハニン・ブルッカとして消費されることによって間接的に、トウモロコシは雨季の食生活の中で副食としてそして時には米食に代わる主食として消費されることによって直接的に、米の端境期ないしはシラウングの時期を短縮ないし軽減しているのである。
- 「生存」としての牛牧畜
北西部地方を乾季に歩くと、水田の刈り跡や山野で草をはむ牛群の姿が目につく。1980年代前半、調査村落で飼育されている牛の頭数を調査村落の全人口330人で割った数値が一を超えていたことが、この地方の牛保有頭数の多さを実証している。しかしながら、牛が食生活の中で果たす役割は、極めてわずかな部分にすぎない。葬式、死後の牛の供犠ラッサハリアンガ(rasa hariaña)(12)、ツァブラハ(tsaboraha)と呼ばれる結婚を含めたさまざまな祝い事、願掛け成就祭(ala tsikafara)を別にすれば、村人が牛の肉を食べることのできる機会は、病気やケガをした牛が死んだ時や殺した時、および正月に限定されている。もちろん、このような儀礼的な機会に供犠されるあるいは屠られる動物としての牛は他の動物で代替できないがゆえに、これを飼育することに対する欲求は高い。また最近は現金の贈与が増えてきたとは言え、ツィミヘティの人びとの結婚(hala-baiavy, fangalam-baiavy)に際しては、男性方から女性方に牛が婚資(môletry)として贈与される(13)。この時贈与される動物は牛でなければならず、もし牛を持たない場合には、牛を購うに足りるだけの現金の贈与が求められる。その一方、調査地において搾乳は、複数の条件がそろわない限りほとんど行われていない。その条件とは、a.老人や病人、あるいは買い手など、牛乳を必要とする人が確実に存在すること、b.雨季かその直後で、牛の食べる草が豊富に繁茂し牛が肥えている時期であること、c.乳離れしない子牛を持つ牝牛が、牛群の中にいることの三点である。
食べることを目的として牛を殺すのは正月だけであるが、病気やケガによって死んだ牛や死にそうな牛を殺して食べたり、あるいは解体した肉を村内や近隣で売ることは、ツィミヘティの人びとの日常の出来事である。またツィミヘティの人びとは、牛の肉を短冊状に切って塩をふり、炉の上に渡した紐や作った棚の上に載せて薫製にしたマシキータ(masikita)を作り、多量の牛肉を獲た際の保存方法を知っている。しかしながら、牛の斃死は予期せずに生じるがゆえに、マシキータによる保存方法をもってしても牛肉を織り込んで日々の食生活を組み立てることは、不可能である。
牛を飼うことの必要性の第一は、農耕や農作業などにおける役牛としての役割である。この地方においてもフランス式の有輪の犁が導入され普及する1950年代以前には、マダガスカルの他の地域と同様に牛群を水田で追い回すことで田拵えを行う蹄耕(manosy tanimbary)が行われており、少なくとも数十頭の牛群を持つことが蹄耕の必須条件であった(14)。今でも石や岩の多い水田の田拵えを行う際には蹄耕が行われているが、ほとんどの水田は有輪の犁によって耕起が行われている。蹄耕に比べ頭数が減ったとは言え、この有輪の犁を曳かせるためにも4頭から6頭の牛が必要であり、移植水田では耕起後さらに牛に耙を曳かせ田拵えを行う。また北西部地方では、収穫量の少ない陸稲を除き、刈り取りの終わった水稲は、脱穀場ににお積みにされてしばらく乾燥させられた後、牛群をその稲束の上で歩かせる牛蹄脱穀(manosy vary)が行われている。この牛蹄脱穀には、蹄耕と同じくらいの牛群が必要である。さらに、牛車(sarety)を曳くのは役牛(soavaly)(15)であり、牛車は収穫した籾米を村落まで運ぶ際など、さまざまな運搬に際して汎用されている。これに対し牛糞は、脱穀場の床面や家の壁を塗り固める際に結合材代わりに用いられるだけであり、燃料としてもあるいは肥料としても全く利用されてはいない。
その必要性の第二は、売買される動産としての役割である。調査地では、豚や山羊、鶏やガチョウやバリケンなどの家禽も、換金あるいは自家消費を目的として飼育されている。しかしながら、個体あたりの単価は、牛とは比べものにはならない。肥育された豚には牛の三分の一から四分の一の値段がつくこともあるが、残飯や糠、サツマイモ、マンゴーなどの飼料を与えなければならない豚の飼育頭数には、自ずと限界がある。村の全世帯の四分の一が豚を飼い、畜舎飼育されている個体が多いが、村内で放牧されている個体もいる。これに対し牛は、水稲耕作期こそ、山麓に柵が張りめぐらされたキザーニ(kijany)と呼ばれる放牧場(16)に農耕に用いられない牛が囲い込まれ、一方役牛は村の中にある牛囲い(valan'omby)に囲い込まれるが、乾季に入って稲刈りが終わり、稲が柵をめぐらした脱穀場(valaon'tonta)内に置かれると、牛は山野や水田で自由に草をはむことができる。乾季の牛に対する世話は、牛泥棒の被害に遭っていないかどうか個体を確認することと、牛群に水を飲ませることくらいであり、牛泥棒の被害を心配する人は夜間村の牛囲いの中に牛群を入れておく。村内で、牛を全く飼育していない世帯はごくわずかである。
マダガスカル北西部には、幾つか大きな牛市(tsenan'omby)があり、それぞれの市は二週間に一回開催される。調査地の村落も7kmほどのところにこの牛市開催場所があり、隔週の土曜日毎に市がたつ。牛の売り手は近郊近在の村の人びとであるが、買い手は同じ村人の場合もあれば、町の食肉業者、あるいは150kmも離れたヴァニラの産地であるマダガスカル北東部から徒歩でやって来る牛の仲買人たちのこともある。ヴァニラの産地であるマダガスカル北東部は年間降水量3000から4000mmの多雨地帯である上、丘陵や山が多いため牛の飼育には不向きであり、その結果牛の単価が北西部に比べて高い。さらにヴァニラの売買によって北東部の人びとが現金を持っていることも、このような遠距離から仲買人を呼び寄せる理由となっている。このため牛市に出された牛には、希望の価格で売れるかどうかは別として、必ず買い手がつく。この地方の村人たちにとって、まとまった現金を入手することのできる数少ない機会が、米の売却とこの牛の売却である。このような同地方における牛の売買の活発化をあらわしているのが、牛の価格の季節的変動である。ヴァニラ産地から来る牛の仲買業者の数やその希望価格の要因を別にすれば、大局的に見て牛の価格は、稲作に使う役牛に対する需要が高まる11月から12月にかけて最高値に達し、稲作における役牛の役割が終わると共に米の端境期が一番深刻な3月から4月にかけて最安値に達する。すなわち村人たちは、自分の手持ちの牛を全て保有しようとするのではなく、とりわけ老齢の役牛は水田における耕起が終わった段階で売却すると共に、米の端境期における食糧不足の解決方法とすることをためらわないのである(17)。村人自身が、「牛は、私たちにとって銀行のようなもの。子供が生まれれば利子がつくようなものだし、必要な時は売って現金を手にすることができる」と語り、牛は売買可能な動産であるがゆえに生活にとって重要な役割を果たすことを、十分に認識している。
このような牛の可処分財としての特徴が遺憾なく発揮されたのは、2000年である。この年マダガスカル北西部地方は、雨季の降雨不足のため深刻な旱魃(paiky)にみまわれた。同年の米の収穫量は世帯ごとに差があったものの、被害の少なかった世帯でさえ平年作の三分の一、多くの世帯は平年作の十分の一の収穫しか得ることができなかった。それでもこの年を餓死者もださずに乗りきることができたことは、既述したハニン・ブルッカを基礎とする可塑性の高い食生活およびヴィルングを組み込んだ土地の利用体系、そしてこの牛の売却益によるものであった。さらに2000年は、ヴァニラの価格が高く北東部からの牛の仲買人の牛市への参入が多かったこと、また収穫量は少なかったものの米価そのものは高かったことも、「生存」に有利に作用した。これに対し2005年から2006年の雨季も降雨量が少なく旱魃であったが、2000年よりは降水量が多く、平年作の半分から三分の一の稲の収穫を得ることができ、2000年と比べれば損害は軽微であった。しかしながら、北東部のヴァニラ価格が下がったため、牛の仲買人の数が少なく牛の価格が上がらなかったことに加え、同地方からの米の買い入れ業者も訪れなかったため(18)、米価までもが上がらず、村人たちは「2000年の旱魃のほうが稲の被害は酷かったが、当時よりも今年のほうが生活(ヴェルンテンガ)が苦しい」と語っていた。
牛は、ツィミヘティの文化において供犠や婚資に用いられる「聖性を持った動物」(biby manan-kasina)でありまた水田稲作に不可欠な役牛であると同時に、米の端境期や飢饉や病人が出た時などにすぐに現金に換えることのできる財産(hariana)である。そうであるにもかかわらず牛は、水田稲作を第一とする土地利用体系の中でも飼育のための特別の区画を要求することがない。そして牛が飼育される空間とは、水田稲作に利用されない丘や山であるか、あるいは刈り入れの終わった水田、すなわち稲作の「隙間」なのである。乳も肉もあるいは牛糞さえほとんど利用されることのない牛が、北西部地方で多数飼育されていることの理由がここにある。
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