ハイン・テーニの「難解さ」
  ポーランは、1912年にハイン・テーニについて初めて発表した論文および1913年の『ハイン・テーニ:マダガスカルの民衆詩』の双方の中で、最初に内容別に分類を施さない七篇のハイン・テーニを紹介している。その七篇の第一篇め、すなわち読者が初めて出会うことになるハイン・テーニはつぎのような短いものである(註3)。
  原文と訳文のそれぞれから、私訳をつけてみる(註4) ;
 
マダガスカル語原文から フランス語訳文から
月の光は濠の上に
村は明るく
西には煙
そは煙に非ずして気まぐれ
東では米搗き
そは米搗きに非ずして移り気
妻ありて 訪ねたしき我
人に恥ずかしきゆえ 留まりし我
月の光は濠の中に
光は村に
西には煙
煙に非ずして思わせぶり
東では米を搗く
米を搗くに非ず 愛のきまぐれ
訪ねてよきか 我には妻あり
ここにおりては 我恥ずかしきなり

  この詩について、ポーランは次の四つの脚注をつけて読者の理解を促している。

 
 *男性が、謡っている。
 *濠:不意の攻撃に備えて、メリナ族の村々の周囲には環濠がめぐらされている。
 *訪ねてよきか:意味は、「あなたに会いに行ってよいか」。ここでは、一人の男性が女性の許に行き、自らの愛を告白している。「月夜の今宵、米搗きの音も家々からの煙も、全てが恋しているように見える」と彼が言う。「私はあなたが好きだ、私はあなたの許を訪ねたい」。
* 最後の一連の意味:「私は既に結婚しているため、あなたの許を訪れることができない。もはや諦めて家に留まっていることもできない」。
  この短い一篇の中からだけでも、ハイン・テーニのもつ特徴を幾つか看取することができる。先ず、ハイン・テーニは、男性と女性との間での掛け合いで謡われ、そのためポーランの採取した800篇のうちのじつに783篇が恋愛を主題としていることである( J. Paulhan , 1912 , p.152 )。この一篇も、1913年版では冒頭の七篇として取りあげられているが、1938年版ではポーラン自身の分類法による第四章「ためらいの主題」の部の第二篇として収録されている。すなわち、愛する女性の許を訪れたものかどうかためらい悩んでいる男性が、自らの心情を女性に対して謡いかけているわけである。次に、現代の創作ハイン・テーニを除き(註5)、その「民衆詩」というポーランの与えた副題が示すように、殆どのハイン・テーニは詠み人知らずとして伝承されており、そのため1913年版の補遺に示されている通りしばしば異伝が存在する。また、第三に、詩の形式を見た場合、マダガスカル語原文では、一連と二連が対に、三連と四連が五連と六連と対に、そして最後の七連と八連も対になると共に、三連は四連と対照になり、五連は六連と対照になっていることからわかるように、韻文調ではなく対や対照また重畳の繰り返しやたたみかけを用いた律文調から成ることである。さらに、ポーランの採取したハイン・テーニは19世紀以前に成立したものであり、口誦が前提となっている。
  しかし、ハイン・テーニを「難解」なものにそれゆえハイン・テーニを特徴づけている最大の要素は、ポーランがいみじくも脚注をつけた部分に表れているように、叙景や叙事の部分が叙情の部分の理解の導入や前提として置かれていることであり、またその叙景や叙事はさらにマダガスカルという個別的な具体性や脈絡を抜きにして存在しないということである。上記のハイン・テーニの場合も、メリナ族の人々の村とそこでの生活についての知識なしに、叙景部から最後の叙情部に至るこの詩としての技法の巧みさと面白さ、また秀歌としての鑑賞をなしえないと共に、そこに叙景と叙情が渾然一体となった不思議さと難解さが醸し出されていることを看取しえないのである。すなわち、灯火の無い村では月の明るい夕方から晩は子供の遊び時間であると同時に大人にとっては家庭内の仕事をしたり会話をしたりする時間でありまた若者にとっては恋を語らう時間であること、メリナ族の主食は米であり籾米の形で貯蔵しているため食事の前に米搗きをしなければならないこと、米搗きと食事の準備は女性の仕事でありそれゆえこの詩において炊事の煙と米搗きの音は恋人を想起させうること、メリナ族は同一村内の同じ親族同士の男女でも結婚できるため村内での恋愛が普通におこりうること、などが共通知識や理解としてあってはじめて最後の叙情のためらいの様が叙景を伴って立ち現れてくるのである(註6)。さらに、このハイン・テーニの中には、この謡い手ないし相手の性別を特定するような単語は一切含まれていない。「我」と訳したマダガスカル語のahoは、男女何れもが用いる一人称単数の代名詞であり、また「妻」とされているilaは、正確には「片割れ」の意で、女性から用いれば逆に「夫」の意になるわけであり、謡い手を男性、謡いかけられている相手を女性として訳出できるのは、先に述べたように米搗きと炊事の煙から相手を想うという叙述の脈絡からだけに過ぎない。
  この叙事・叙景と叙情の融合という特徴と「難解さ」を、他の詩篇で見てみよう。上記の一篇の次に紹介されている、一番短いハイン・テーニのひとつである。
  原文と訳文に対する私訳は以下の通り(註7);
 
原文から 訳文から
我は蟻なる蟻
西の方にと人は言う
稲が僅かに伸びし水田あり
稲が僅かに伸びし水田に非ず
私たち二人の僅かに伸びし愛
我は蟻 一匹の蟻
西の向こうにと 人が言いし
小さき小さき稲の水田あり
小さき小さき稲の水田に非ずして
小さき小さきは私たちの愛

  ポーランの付した脚注は、次の通り ;

 
 *一連から三連まで最初に男性が謡い、四連と五連は女性が応えている。
 *我は蟻:自分はとるに足らず、つまらない者である。すなわち、男性が、自分自身をへりくだって紹介している。
*四連と五連では、諺がほのめかされている。すなわち、「少しずつやってくるのは雨ではなく、私たち二人の会話」。この諺は、「ちょっと雨が降っている」と最初の人が言い、もう一人のそれを聞いた人間が「ちょっと雨が降っているのではなく、あなたが会話の内容を解っていない」と答えているさまを想定している。諺の皮肉な調子は、女性からの返歌の中にも見られる。
  この詩は、1938年の改訂版では、第八章「からかい」の部の第十二篇、すなわち本の一番終わりの頁に置かれている。連毎の対と対照の関係はそれほど厳格ではないものの、重畳状の形式ととりわけ叙事と叙情との融合点は、明確である。蟻の小ささと水田に植えられた苗の小ささが叙事と叙景として謡われた後、一転して恋愛の危うさがからかいをこめて謡われている。また、この詩で謡い込まれている叙事と叙景をめぐる事前の知識は、メリナ族の人々は灌漑水田稲作民であるため水田と稲は日常の風景であることおよび古くから移植稲作法を採りその場合女性が専ら田植えを行うことぐらいで、それほど多くのものが要求されているわけではない。しかしそれでもなお、この詩が「難解なもの」とならざるをえないのは、ポーランの脚注にある通り、諺との深い繋がりの上に創られているからに他ならない。そしてこの点に、ハイン・テーニのもう一つの大きな特徴がある。すなわち、ハイン・テーニはしばしば諺を一部に織り込みながらもしくは特定の諺についての知識を前提として謡われており、さらにその諺の織り込み方の巧みさが称揚されるという点である。このハイン・テーニの場合も、ポーランが挙げる諺を知らないと、四連と五連が女性からの、それもいささか皮肉を込めた返歌であることを理解することは至難である。先のハイン・テーニと同じく、マダガスカル語の原文そのものの中には、性別を直接に特定することのできる単語は一語も含まれてはいないのである。
  叙事と叙情の融合点が、すなわち喩の用法が日本人にとっては簡潔で明瞭なハイン・テーニの一篇を挙げておこう。
  私訳は、次の通り(註8);
 
原文から 訳文から
我は稲 あなたは水
野にては互いに離れることなく
村にては互いに別れることなく
会うたび毎に
愛は新たなり
我は稲 あなたは水
野にて稲と水は離れることなく
村にて米と水は別れることなく
二つが出会う毎に
そは二人の間の新たな愛

  マダガスカル語で稲と米と飯は、同じヴァーリという一語で指示されることさえ知っているならば、恐らく、日本人には直訳で大意は通じるはずであり、むしろ直訳の方がこの詩の情感をよく捉えうるかもしれない。
ポーランは、フランス人の読者のために次のような脚注を補足している;

 
 *男性が、謡っている。
 *二連め:水田は、常時灌漑されていなければならない。
 *三連め:水の中で煮られた米は、メリナ族のあらゆる食事における主食である。
  稲・米と水が、私とあなたとの換喩になっていることは、誰の目にも明らかであり、逆にそうであるがゆえに「月並み」との印象を印すおそれが多い詩であるが、最後の五連の叙情部の存在が全体を救っていると言えよう。仮に、このハイン・テーニが「二人はいつも出会う」と四連めで終わっていたと考えるならば、換喩が換喩以上の働きをすることがなくなり、叙情に至るための叙事ないし叙景としての効果を果たさなくなるであろう。連同士の対や対照の形式性や叙景部の「月並みさ」に口誦としての「古式」を匂わせているにしても、五連めに表れる叙情部を挿入する作者の創意には、詠み人知らずとは言え創作や創造の個性という「近代」を想わせる部分がありはしないだろうか。
  このような換喩の効果を最大限に用いたハイン・テーニのひとつが、1913年版の第一章「愛の告白の主題」、1938年版の同じく第一章「願いの主題」の許に集められた詩群の冒頭に挙げられている第一篇である(註9)。
  この詩に対するポーランのフランス語訳は、初版と改訂版とではいささか異なっているため、それぞれの版のフランス語に私訳をつけてみよう(註10);
 
1913年版からの訳 1938年版からの訳
あなたは望まれし果実
大切なバナナ
たとえ蝶があなたにやってこれども
もはやあなたを離れることなし
愛するもののために死せるものは
母鰐に飲み込まれし子鰐
そを納めし腹に食される
あなたは望まれし果実
大切なバナナ
たとえ蝶はあなたにひととき立ち寄れども
我はあなたを去ることなし
恋人のために死せるものは
母鰐が食べし子鰐
自らが知りし腹に戻る

  この詩篇にポーランの付けた脚注は、以下の三つである ;

 
 *男性が、謡っている。
 *三連め:黒い蝶が問題であり、黒い蝶は死の予兆である。
 *六連と七連:この諺のここでの意味は、「わたしが生命を保ち長らえるのはあなたゆえであり、あなたはわたしを甦らせることができる」。
  ここでも換喩の関係にあるもの同士を特定することは容易であり、果実−バナナ−あなた、蝶−自分、母鰐−あなた、子鰐−自分の関係であることは、ことさら指摘するまでもない。ところが、換喩における置換関係の平凡さに比べ、当の換喩がもたらす効果が巧みである分だけ、その解釈は幅をもったものとならざるをえず、そこにポーランをして訳文を変更させた余地が生じたと言えよう。さらに、六連と七連が諺を背景にしていることも、この詩の「難解さ」を増幅しており、そのことが今度は詩篇に盛られた叙情部分を豊かなものとしている。
  マダガスカルには、メリナ族のみならずさまざまな民族の間において、口誦され時には即興や掛け合いで唄われる謡が存在する。そのような謡のひとつに、北西部に居住する稲作−牛牧民のツィミヘテイ族の間で謡われているジジもしくはソーヴァがある。その一例を、下に掲げる(註11);
 
日は明るくなり 陽がのぼる
 大きな角の赤ウシの角
 大きな角の赤ウシのこぶ 
 大きな角の赤ウシの脂
日は夜となり 月がのぼる
 あなたは私の主 火くち入れにはできない
 蟻塚のよう
 ウコンのよう
( L.X.Michel-Andrianarahinjaka , 1968 , p.32 )。
  連同士が、規則正しく対や対照をなしており、そのため全体を通して実に律動的であり、そのことは実際に口に出して謡った際にはより一層際だつであろう。けれどもこの謡も、マダガスカルの個別の具体性を背負っているという点では、これまでに取り上げてきたメリナ族のハイン・テーニ以上に「難解」である。ツィミヘテイ族は、メリナ族と同じように水田稲作を行っているものの、目に見ることのできる財産・稲作の際の牽引獣・儀礼の際の供犠獣として数多くの牛を飼育しており、メリナ族以上に牛に対する親近感と愛着が顕著である。したがって、ツィミヘテイ族の人々にとってこの謡にでてくる大きな角・大きな背のこぶ・太って大きな体は牛を評価する際の基準であること、そして火打ち石の火くちの綿やパンヤを入れておく器は牛の角から造られていること、マダガスカルの蟻塚はその円錐型の形といい大きさといい熱帯牛であるゼブ牛の背のこぶにそっくりであること、煮えた牛の脂はウコンと同じ黄色であることは、この謡を理解するための最小限の知識である。その知識がなければ、この謡を創った人物の心情、「すばらしい自分の牛を褒めたたえそれを人にも伝えたい」、に触れることは叶わない。がしかし、このジジが、ハイン・テーニと律動や個別社会の具体性ないし脈絡を共有するとしても、一連と二連の叙景部分が叙情を導くために設定されているわけではないこと、角と角製の火くちいれ・こぶと蟻塚・脂の黄色とウコンの黄色は全て直喩であることに表れる「難解さ」の差異を見過ごすことはできない。ここにおける喩は、自己の心情の投影や表象として設定されているのではなく、あくまでも牛そのものの属性表現以上でも以下でもない水準で機能している。隠喩や換喩のほうが、直喩より「高等」でありまた「進歩」しているとの見解ににわかに賛意を表することはできないとしても、謡い手ないし作者の他者に対する感情を叙事や叙景の「月並み」を一度通して表現することとその上での技法の優劣を主題に据えるハイン・テーニであればこそ、ポーランが自らをも含めた文学表現の初原とその未来の双方の可能性をそこに見通したとしてもいささかの不思議もない。
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