その後のポーラン
  フランスに戻ったポーランは、1910年から一年間、マダガスカル滞在中からその希望を洩らしていた国立東洋語学校におけるマダガスカル語講座の担当を務めている。1912年には、初めてハイン・テーニについての研究成果を「メリナ族のハイン・テーニ」と題した論文として公表し、翌年には、ポーラン自身が採集した800あまりにのぼるハイン・テーニの中から163首を選んで主題ごとに分類しフランス語訳を付した461頁にも及ぶ大著『ハイン・テーニ:マダガスカルの民衆詩』をパリで出版して世に問うた。その後も、1930年に『ハイン・テーニ:難解な詩』と題した42頁あまりの小冊子を出版し、訳文の推敲を重ねてきた成果を盛りこんだ『ハイン・テーニ』改訂第二版を1938年に今度はガリマール社から出版した。
このガリマール社版『ハイン・テーニ』は、1960年にも再版されている。
  第一次世界大戦の勃発とともに、29才のポーランは伍長として出征し、その年の暮れには、負傷して病院に後送された。この大戦では、植民地からフランス人入植者および被植民地住人の双方あわせて55万人がヨーロッパの戦場に兵士として送られ、10万人の戦死者を出したが(X.ヤコノ 1998 p.86)、事態はマダガスカルにおいても全く同一であった。大戦期間中、マダガスカルからは4万5000人以上のマダガスカル人が「志願して」参戦し、そのうちの4万1000人が兵士として12のマダガスカル人歩兵連隊に組織され、4000名あまりの戦死者を出した( H.Deschamps , 1972 , p.254 )。1916年にポーランは特務曹長に昇進し、自らマダガスカル人連隊への転属を願い出て、終戦までこのようなフランス語もあまりわからないままヨーロッパの戦場に立つこととなったマダガスカル兵士たちに、自動車の運転などの技術を指導した[写真参照 1916年マダガスカル兵士たちとポーラン J.Paulhan , La vie est pleine de choses redoutables, 1989 の挿入写真]。この時マダガスカル兵士たちとマダガスカル語で交わされたであろう会話は、ポーランにフランス植民地統治がもたらした恐怖の性質を、まざまざと再認識させたかもしれない。1917年付けで彼が記している;
  「ラクトウスーナは、父親に「お金を使わずにいろんな国にゆけるぞ」と言われて、好奇心から参戦したことを素直に認めている。しかし、この点について彼は、もっと複雑な心情を秘めた他の同僚とは、だいぶ異質である。サラーマは言ってのける「フランスが私の父であり母であるため、私は出征しました。父や母を、守らなければならないのではないでしょうか」。ラヴェルは言う「フランスが負けるのを目にするくらいならば、異国の地に骨をさらすことのほうがましです」。これは、恐らくそれほど熟考された意見ではないであろう。彼等は、ポールとヴィルジニーをようやく読み終えて愛を知った十五才の少年と変わらない愛国者であり、聞きかじったことのほとんどをそのまま実行してしまうのだった」( J.Paulhan , op.cit. , 1989 , p.176-177 )。
  それは、ポーラン自身がマダガスカル滞在中に「昨日は、現地人視学官への昇進試験に出席した。それは、最高位の肩書きであり、十年から十五年前には自身が生徒だったような教員のマダガスカル人候補者達三十人ほどがいた。彼等の努力が、フランス語と同じように、マダガスカル語を話すことができない結果に終わっていることを目の当たりにすることは、痛ましいことであった。なるほど、彼等は堂々と喋ってはいた。がしかし、思考という観点からは、一貫しまた具体的な文がそこには一切存在しなかった。彼等は、定まった言葉を持たず、もはや深く考えるということができないように思われた」( J.Paulhan , op.cit. , 1982 , p.37 )と書き残してから、わずか七年後のことであった。『タルブの花』において言葉よりも観念に、物質よりも精神に価値があることを認め、言葉や形式を観念や精神に従属させあるいは抹殺しようとする文学者を「テロリスト」と名付け非難してやまないポーランにとって、このことがもうひとつの恐怖政治でなくて何であろうか。そして、ポーランが見通したこの暗い未来は、90年後の今もマダガスカルの地においてなお健在である。
  それは、ポーラン自身がマダガスカル滞在中に「昨日は、現地人視学官への昇進試験に出席した。それは、最高位の肩書きであり、十年から十五年前には自身が生徒だったような教員のマダガスカル人候補者達三十人ほどがいた。彼等の努力が、フランス語と同じように、マダガスカル語を話すことができない結果に終わっていることを目の当たりにすることは、痛ましいことであった。なるほど、彼等は堂々と喋ってはいた。がしかし、思考という観点からは、一貫しまた具体的な文がそこには一切存在しなかった。彼等は、定まった言葉を持たず、もはや深く考えるということができないように思われた」( J.Paulhan , op.cit. , 1982 , p.37 )と書き残してから、わずか七年後のことであった。『タルブの花』において言葉よりも観念に、物質よりも精神に価値があることを認め、言葉や形式を観念や精神に従属させあるいは抹殺しようとする文学者を「テロリスト」と名付け非難してやまないポーランにとって、このことがもうひとつの恐怖政治でなくて何であろうか。そして、ポーランが見通したこの暗い未来は、90年後の今もマダガスカルの地においてなお健在である。
  1910年に島を去った後、再訪の意志を胸に抱いたまま、ついにそれを果たすことなく、1968年10月、ジャン・ポーランは、84歳で亡くなった。その八年前の1960年6月、マダガスカル共和国が独立し、植民地化の歴史は終わりを告げていた。その「精神」を除いて。
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