言葉の世界へ
  タナナリヴに着いた直後から、ポーランは、マダガスカル人達にフランス語を教える代わりに彼等からマダガスカル語を習い始めていた。「僕はマダガスカル語を習っている。それはとても美しい言葉なんだ。陽気な文の中に置かれるか悲しい文の中に置かれるか、あるいは低い有声の文の中に置かれるか高音の文の中におかれるかで単語が突如一変してしまうんだ。それにマダガスカル語には性・数・格による語尾変化もなければ、性や時制もなく、唄うようなものなんだ」( op.cit. , 1980 , p.61 )と書く1908年3月2日付けの手紙は、言葉を通して〈マダガスカル〉という異世界と出会うことのできたポーランの初々しさと喜びをよく伝えている。言葉の世界に「逃走」としての旅の内実が結晶することの可能性を見出すことのできた官吏ポーランの魂は、ルソーやシュヴァルと同じ芸術家のそれに他ならなかった。
  けれども、ポーランはまた、異なる言語の習得は異なる生活の経験そのものの獲得に他ならないことを知り抜いているフィールドワーカーでもあった。それゆえ、識字教育が浸透しつつあったとはいえ書き言葉よりも話し言葉としての歴史のほうが遙かに長く、またそうであるがゆえにフランス語においては古典としてしか残されていなかった口承詩のような話し言葉の世界が活き活きと根付いているマダガスカル語に、ポーランは、文字を介しての習得を意識的に排除し、話し言葉そのものから接近するという「遠回り」を選択したのである。そこにおいては、通訳を伴わないことやノートに書き留めないことからマダガスカル人との間に生じる拙さや気まずさやためらいさえ、自覚された武器であった。
  このような言語の習得過程を自らに課したポーランのマダガスカル語の教授法が、確信に満ちたしかし当時としては特異なものとなったことは、当然すぎるほどであった。外国人中学校におけるマダガスカル語の講義の冒頭、ポーランは受講者にその進め方と受講の心構えについて語っている ;
  「マダガスカル語は、目新しい言葉であるだけではなく、単純ではあるものの私たちのそれとは全く異なる新しい生活そのものなのであり、みんなはそのことを知らなければなりません。もし、私が、マダガスカル語でこの部屋・この腰掛けあるいは私たちが窓越しに見ることのできるものと外にあっても見ることのできないものについてみんなに伝えようとすると、四分の三の単語を新たに教えるかさもなくば極めて稚拙にマダガスカル語化されたフランス語ないし英語を用いざるをえなくなるのです。まさにこの点に、私たちがしなければならないことがあるのです。初級の講義の間、マダガスカル人たちによってラフィアヤシの布の上に描かれた大きな絵を持って来たいと思います。これらの絵は、美術的な価値はほとんどありませんが、マダガスカルの風景やマダガスカル人や彼等の生活の様子について、十分に具体的なイメージを提供してくれることでしょう。わかるでしょうか、私たちが初級の講義でしなければならないことは、これらの絵の上にあるのです。より鮮明に講義を記憶するためだけに、ノートを持ってくるようにして下さい。ノートには、私が教えた単語、それに単語と一緒にみんなが絵から学び取ったことを簡単に書き留めて下さい。そうすれば、やがてみんなの頭の中で、単語が孤立したものではなくなり、単語は具体的で活き活きしたものを表すようになることでしょう。つぎに、私たちは、最初に絵について簡単な会話をしましょう。その後、会話の中から、文法規則を導きだし、もっと多様で複雑な会話へと進んでゆきたいと考えています」(op.cit. ,1982 , p.177)。
  ポーランが、ヨーロッパの言語とマダガスカル語との大きな違いの一つとして言及した事とは、場所に係わる前置詞および指示代名詞についてである。オーストロネシア語族に共通する特徴として、マダガスカル語の場合も、遠近の程度・話者と指示対象との位置関係に基づく前置詞と指示代名詞の数が多く、会話の脈絡の中でそれらを瞬時にかつ的確に選り分けて用いることは、マダガスカル語の初級学習者にとっては、常に厄介な学習事項なのである。ところが、ポーランは、この難物をも文法規則そのものとして丸暗記させるのではなく、風景や生活についての絵を見せながら、部屋の中で・家の中で・庭で・村の中で・水田で・野原や丘でといった具体的な会話の状況を設定した上で、理解させようと試みたのであろう。このようなマダガスカル語の講義は、語学の教授法から見れば、ポーラン自身も指摘するように、視覚よりも聴覚を重視した当時としては革新的なベルリッツ法に近似していた(ibid., pp.177-178)。しかしながら、ここにははからずも、言葉をめぐる意味と思考に対するポーランの原初的な考察が、披瀝されている。すなわち、単語が担っているのは意味ではなく、個別化・具体化された「もの」に対する一連もしくは一群の喚起や想起であり、「思考する」こととは、単語を文法規則に従って並べたり入れ替えたりして運用することなどではなく、その「もの」から生じる喚起や想起の様々な連鎖を一つの全体の中で結びつけ読み解くことの可能性の枠を与えることなのである。
  ポーランをマダガスカル語の世界の探求ひいては言語そのものの考察へと誘ったものが、言語エクゾティスムだけであったと考えることは、いささか単純にすぎるであろう。そのもう一つのマダガスカルにおける生活を抜きにして語ることの出来ない経験が、植民地化の過程の中で実施され眼前で進められてゆくフランス語教育に対する苦い思いであった。当時のマダガスカルにおける初等教育の現状に触れて、ポーランは痛烈な批判の手紙を書き残している ;
  「そろそろ、マダガスカルでは教育が誤解されていること、すなわち一日二時間半二年間を小学校で過ごす田舎の子供達がフランス語を習うことは無益であり、その学習はマダガスカル語をいささかなりとも忘れさせることに貢献していることを、わかってもよいだろう。−−−ベツィミサラカ族の子供に、ベツィミサラカ族の言葉とフヴァ族(メリナ族の別称)の言葉とフランス語とを一時に覚えるよう求めることは、フランスの小学生が十年に満たない勉強で活語の学習に習熟しないとするならば、馬鹿げたことであることを知るべきである[写真参照 1901年当時のベツィミサラカ族の小学生達 F.T.M.蔵]。フヴァ族の言葉がマダガスカル人の想像力にもっとも近く、唯一役に立つことを彼等に知らしむるべきなのだ。逆に、それなりの上級公務員は、フヴァ族の言葉をしゃべるために毎日一時間を使うということを考えてもよいであろう。−−−(マダガスカルの)子供達にフランス語の本を読ませるべきではない。全ての専制政治はおぞましいものであり、唯一の幸福とは自由な国であることを、子供達に教え込むことがどれほど馬鹿げたことであるかに、そろそろ気がつくべきである。−−−マダガスカル人を、意図的にフランスの文化や観念から、引き離すべきである。そのかわりに、彼等に自分たちの旧体制に戻ることの完全な自由を与え、それを後押しすべきである。それは、自分たちの言葉についての研究の中で、完全に実現されるであろう。オガヌールのように、不完全なフランス語を与えようと試みるのではなく、真のマダガスカル語を与えることこそを試みるべきなのだ」( op.cit. , 1982 , p.77 )。
   これは、自分が他者に対して投影するエクゾティスムの枠から他者が抜け出ようとする時、勝手に他者をその枠の中に引き戻さずには居られない種類の人間の戯れ言の類などではない。自らの言葉という呪縛の果てにしか人は他者の言葉と出会うことができないことを熟知している人間の言であり、そうでなければ「旧体制に戻る完全な自由を与える」との発言のありようがないであろう。
  しかしその後の現実は、皮肉にもポーランの警鐘とは全く逆の方向へと進んでいった。第一次世界大戦の最中の1915年暮れ、タナナリヴにおいてラヴェルザウナ牧師の説くマダガスカル民族主義の主張に共鳴して集まった学生・教員・公務員・事務員などから成るフリーメーソン集団V.V.S.が、「フランス人毒殺の謀議」を行ったとして植民地当局によって摘発されたのである。この事件を契機に、公教育におけるメリナ方言に基づいた公用マダガスカル語採用策が、メリナ族の人々の間にマダガスカル民族主義を発生させる温床となりうることへの危惧から見直され、公用マダガスカル語とフランス語の二言語併用策へと転換された。ついにフランス語は、必修外国語の位置づけから、紛れもない「国語」としての地位を獲得したのである( F.V.Esoavelomandroso , 1976 pp.105-165 )。この二言語併用策は、社会主義路線を採用したマダガスカル共和国第二次共和政の中の1976年から数年間を除き、1960年の独立後から現在に至るまでも堅持されている。
   ポーランは、マダガスカル語検定試験を二度受験し、1910年10月には「優秀」の評価を得るとともに、マダガスカル・アカデミーにおいて後述する民衆詩〈ハイン・テーニ〉に関する二度の発表を行い、その業績が評価された結果、通信会員に選出された。1910年11月3日来た時と同じタマタヴ港から乗船し、12月10日にマルセーユで下船した。ポーランのマダガスカル滞在は、通算34ヶ月、シュルレアリスムとは無縁の生であった。ただ一点、「言葉への探求」を除いて。
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