未完の「国語」
  58万kFのマダガスカルの大地の上に暮らすおよそ1400万人の人々の内インド−パキスタン系、コモロ系、中国系などの「外国人」を除くほぼ全ての人々が、方言差はあるものの相互に通話可能な、インドネシアやフィリピンの島々の人々と同じオーストロネシア語族に属するマダガスカル語を喋っている。すなわち、マダガスカル人は単一言語集団であり、逆にこの島ではマダガスカル語を母語とする人々がマダガスカル人である。この広大な領域におけるマダガスカル語の斉一性ないし共通性の成立は、およそ二つの歴史的事柄に起因する。
  その第一は、マダガスカル島はおよそ1500年ほど前まで無人島であり、そこにインドネシア系の人々がインド洋を渡って最初にやって来て定住したことである。その後マダガスカルには、ひとりインドネシア系の人々のみならず、アラビアからも、アフリカからも、そして16世紀からはヨーロッパからも人々がやってきたものの、それらの多様な地域からの移住者や出身者も、最初に島に定住し海岸部を中心に面積上も人口上も優位を占めていたインドネシア系の人々の言葉を、クレオール的な共通語として等しく受け入れ用いることになったと考えられているのである。
  その第二は、18世紀末から急速にその勢力を拡張し全島の三分の二を支配下におさめたイメリナ王国の許で、1820年から布教を始めたロンドン宣教協会の活動である。すなわち、ロンドン宣教協会は、布教のためにメリナ方言を中心とするマダガスカル語のアルファベットによる正書法を確立したのである。それまで東海岸の一部で伝承されてきたアラビア文字によるマダガスカル語の表記には音声上の不都合が多かったのに対し、アルファベットでは特殊な表記を用いなくとも過不足無くマダガスカル語、とりわけメリナ方言を書き表すことができた。さらに、宣教協会は、活字印刷と学校教育をも同時に王国に持ち込んだ結果、マダガスカル語の識字化が民衆層へも浸透してゆくこととなった。1835年にはやくもマダガスカル語による完訳聖書とマダガスカル語−英語・英語−マダガスカル語辞典の出版をみただけではなく、その後も1880年にイメリナ王国内において義務教育制度が施行され、1894年時点で16万人の学校生徒を擁するまでに至ったのである( M.Bloch , 1968 ; B.A.Gow , 1979)。
  アルファベット表記され、学校教育に取り入れられたメリナ方言を基礎としたマダガスカル語が、「国語」としての道を歩み始めたかに見えたのもつかの間、1895年イメリナ王国は露骨な領有化の意図の許に仕掛けられた軍事侵攻の前に敗北し、翌年にはマダガスカル全島のフランス併合が国会で議決された。1896年9月にマダガスカルに着任したガリエニ総督は、当初いわゆる「人種政策」を導入し、1897年2月28日にイメリナ女王を島外に追放してイメリナ王国を滅ぼし、またメリナ族の人々と対立ないし敵対していた民族やその支配層を国内保護領や現地行政官の形で優遇した上、同年10月には学校教育におけるフランス語学習を義務づけた。しかしながら皮肉にも、マダガスカルにおいて速やかなフランスの実効支配を確立するためには、島内の広範囲で実施されていた旧イメリナ王国の制度や組織および学校教育を受け識字率の高かったメリナ族の人材を採用することのほうがよほど効率的であることが、ほどなくガリエニをはじめとするフランスの支配者たちの間で認識された結果、「人種政策」は段階的に撤回されてゆくこととなった(M.エスアベルマンドルウス 1988 pp.345−346)。このため、フランス語学習の義務化こそ見直されはしなかったものの、フランス人教員といえどもマダガスカル語を学ぶことが要求されそのためにマダガスカル語の夜間授業が開設された上、マダガスカル語能力検定制も導入され、さらに1902年にはマダガスカル・アカデミーがガリエニ自身の手によって創設された。
  このようなガリエニの言語政策に対し後任のオガヌール総督は、反インフレーションという自らの政策信条に基づく財政支出削減の観点からマダガスカル語の夜間授業を廃止してフランス人教員のマダガスカル語習得義務を無くす一方、1909年にはフランス語の会話能力といくつかの条件の許でマダガスカル人にフランス市民権を取得する道を正式に開いた。すなわち、表面上はガリエニ時代と言語教育政策の面で大きく変わった点はないものの、明らかにフランス語学習の必要性と優位性が高まったのである。学校内部においてフランス語は依然として必修外国語に過ぎなかったものの、かたやマダガスカル語はマダガスカル人を「国民」たらしめる「国語」としての地位を失っていた。そのような中で、在留フランス人の子弟に対し本国と同等の教育を与えるべく設立されたタナナリヴ外国人中学校の教員に任用されたポーランが、マダガスカル語の単なる習得に留まらずそれが生み出す広大な世界の探求へと旅立ったのである。
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