ポーランのマダガスカル
  官吏に他ならない教員生活に「逃走」の行き先や内実を求めることのできなかったポーランが、中学校の同僚教員とタナナリヴ平野を東西に流れるイクパ川で砂金探しを行ったり、あるいは固有種の多いマダガスカルの植物を採取して商売にしようとした話も伝えられている(op.cit. , 1989 , p.137)。仮にこれらの話が真実であったとしても、それは同時期にマダガスカルに滞在した様々なフランス人や外国人の凡百の行動や経験のひとつでしかありえないことは言うまでもないであろう。一見平凡に見えてその実ポーランのマダガスカル滞在を他者から際だたせていたこととは、冒険の対極に位置する次のような日常生活の繰り返しそのものであったかもしれない;
  「イメリナ王国の前の外務大臣の兄弟であるラファマンタナナを当主とするタナナリヴのフヴァ族(メリナ族の別称)の家族の間でほぼ一年間生活した[写真参照 1903年当時のタナナリヴ在住のメリナ族の経済的上流階層の家族 F.T.M.蔵]。次には、奴隷層の出身で元は兵隊であり現在は農民のラベの家族と生活した。最近では、南部出身のアンドリアナすなわち貴族の人々と生活した。私は、頻繁に彼等の許に足を運んだ。商人たちが食べ口論をするような小屋で食事をした。私は、イメリナ地方をくまなく歩きまわった。道から離れた村々やそんな村の中で自らの人生が過ぎて行くような農民達をも訪ねた[写真参照 1903年当時のタナナリヴの町の市場およびタナナリヴ近郊の農村 F.T.M.蔵]。人々は皆、私を礼儀正しく迎えてくれた。実際には、私が彼等の前で感じるのと同じように、彼等もまた服従することの窮屈さを露わにしていた。そのため、彼等はへつらうこともしばしばであった。私の振るまいのおかしさも、ヨーロッパ人はおしなべて奇妙だとあらかじめ思っている人々には、さしたる驚きも呼び起こしはしなかった。私は、この服従の窮屈さをできうる限り押し通してみた。すなわち、私自身の置かれている立場が、自ずと私自身に与えてくれるもろもろの優位を一切利用しないことにこだわったのである。私は、一年の間読んだり書いたりすることに頼ることを自らに禁じるうちに、この優位に次第に自覚的になっていった。このようにしてもたらされたぎこちなさのおかげで、私は、当然のこととして事物と一緒に文を覚えねばならなかったのである」(op.cit. , 1982 , pp.267-268)。
  このような日常の経験の繰り返しと積み重ねを、今日人は〈フィールド・ワーク〉とも呼ぶ。家庭に下宿した外国人もいたであろう、農民の家で食事をとった外国人もいたであろう、地方を徒歩でめぐった外国人もいたであろう、あるいはマダガスカル語を話すことのできる外国人も少なくはなかったであろう。しかし、マダガスカル人にとってはありきたりの日常生活そのものの中に、「人生は恐るべき事柄に満ちている」(ポーランの言葉)ことを見出し自ら進んでその実践に分け入った外国人が、その当時ポーラン以外に何人いたことであろうか。マリノフスキーのトロブリアンド諸島調査に先立つこと5年、またレーナルトは既に1902年からニューカレドニアに滞在していたが『ド・カモ』の出版には1947年を待たねばならない。ポーランは、マダガスカルの中でも同時代の中でも等しく孤独であった。
前のページへ 5 次のページへ
このウィンドウを閉じる