勤勉な教師の孤独
  タナナリヴに上ったポーランを待っていたのは、オガニュール総督が開設した〈タナナリヴ(外国人)中学校〉における「文学担当教授」の職であった。1908年の1月に開校された同校は、当初一年生・二年生・三年生の三クラス、9人の生徒から成るこじんまりとした学校として出発した。開校から二年近くが経った1909年11月には71人にまで生徒数は予想を上回って増加し、軍人と官吏の子弟および入植者の子弟がタナナリヴのみならず全土からやって来ていた。教員側は、校長1名、教授3名、講師5名、教諭4名の体制で出発し、1910年には文学と科学担当の教授がそれぞれ一名づつ増員され、翌年には高等課程も設置された。この中学校においてポーランは、生徒達に対してフランス語・ラテン語・ドイツ語・歴史学・地理学および体育を教え、時にはあまり才能がないにも関わらず歌唱の指導までを行う一方、1910年からは校長・舎監・出納役の三役をもこなし、『フランス新評論』誌の編集主幹としての後年の勤勉と精力の片鱗を垣間見せている(op.cit. , 1979 , p.357 ; J. Paulhan , 1989 , pp.136-137)。
  しかしながら、中学校が植民地体制の浸透・確立に歩を合わせて順調に発展してゆくのとは対照的に、ポーラン自身は中学校の生徒達を教えることに対する情熱を次第に失っていった。この間の事情について、『カイエ・ジャン・ポーラン』第二巻の編集者たちは、ポーランがフリーメーソンに加入していなかったこと、プロテスタントであったこと、ダンスパーテイーの席上での噂を広めたことなどのために、タナナリヴのフランス人社会に容易に馴染むことができなかったことを指摘している( op.cit. , 1982 , p.42)。けれどもそれら自体が真実であったとしても、そのような事実をいくら積み重ねたところで、植民地内での同国人の輪に加わることをためらわせたポーランの孤独の内実に迫ることが必ずしもできるわけではない。この孤独を最もよく表しているのが、1908年10月16日付けの手紙で描かれたマルザック神父との出会いおよびその時の二人の会話ではないだろうか;
  「昨日の午前中、マルザック神父に会いに行って来た。僕はながいことイエズス会の建物の中で、彼を捜し回った。やっと、悲しげな面もちで分厚い唇の農夫のような顔の腰の曲がった老神父と出会った。彼こそが、フランス人の中で、マダガスカル語を最もよく知る人なのだ。彼は、たいへん素晴らしい文法書と辞書を一冊づつ書いている。彼は、薄汚い石灰で塗られた壁の小さな自室に僕を招き入れてくれた。部屋の隅には水を入れた瓶が置いてあり、床には本が山積みになり、彼が座る素敵な東洋風の肘掛け椅子があった。が、まったくもって不可思議であった。彼は、マダガスカル人に対してどのような考えも持ち合わせてはいなかった。また、彼は、マダガスカル人にもヨーロッパ人にも与していなかった。彼は、僕に、一言の非難めいた言葉も交えることなく、ガリエニ将軍のマダガスカル平定の有様を語ってくれた。彼が僕に言った 「私は、その平定戦争をもう一方の側、すなわちマダガスカル人の側から見てきた 突如としてフランスの歴史がひっくり返ってしまうような視点は、いろいろあるものだな」。僕は彼に尋ねた 「あなたはマダガスカル人の性格をどのように思われますか」。「性格だって!そんなものは、フランス人と同じと思うがね 彼等はそんなもの持ち合わせてなんかいないさ!」」( ibid., p.49)。
マルザック神父は、1879年にマダガスカルに着任したイエズス会の神父である。この時既に彼は68才、ロンドン宣教協会による『マダガスカル語−英語辞典』1885年に対抗していささか性急にカトリック側から出版された感のある『マダガスカル語−仏語辞典』1888年、網羅的で正確かつ詳細であるがゆえに学習には用いづらい『マダガスカル語の文法』1908年、同じイエズス会のカレ神父によるイメリナ地方の歴史伝承集成である『マダガスカルにおける王族の歴史』1883年の縮約版とでも呼ぶべき『フヴァ王国(イメリナ王国)の歴史』1912年の三冊の著名な本を著すと共に、1902年にガリエニ総督によって創設されたマダガスカル・アカデミー発起人12名のうちの一人であった(op.cit. , 1979 , pp.316-317)。ポーランがマダガスカル語の学習を始めた当時、辞書としてはマルザック神父のものを用いていた一方、手許に置くことのできた浩瀚な文法書は、1887年からマダガスカルに滞在しマダガスカル・アカデミーの初代事務長を務めるとともにチュレアール州長官や主席行政官を歴任したギュスターヴ・ジュリアンが著した『マダガスカル語文法・実用概論』1903年および外務省領事部の官吏として1887年から十年間マダガスカルに滞在したガブリエル・フェランが著した『マダガスカル語文法試論』1903年の恐らく二冊だけであったが、後者について「彼は、間違いだらけの文法書を一冊書いている」(op.cit. , 1982 , p.79)とポーランは酷評を加えている。
  それゆえポーランが、1908年に出版されたばかりのマルザック神父の文法書を手に入れて読み終わるやいなや、居ても立ってもいられず突然の面会に及んだのではないかと少しドラマチックにこの時の邂逅を想像することも許されよう。そして、その期待が裏切られることはなかった。「他者に対する同化」を恐れない人間は「我々からの異化」を余儀なくされる(C.レヴィ=ストロース、1969,pp.63−68)という孤独を、ポーランがマルザック神父の内にはからずも見たことを確信させる、簡素であるがゆえに的確な描写を伴った印象的な一文である。ポーランの孤独とは、マダガスカル人との付き合いおよびその内面世界に対する遡行の深化と共に、より一層くっきりと立ち現れてくる性格のものであった。
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