冒険無き時代の旅人
  ポーランがタナナリヴに到着した1908年は、1896年からマダガスカルに赴任、全島の軍事平定作戦を指揮しイメリナ王国を滅ぼしてフランス植民地体制の基盤を築き上げた生粋の軍人であるだけではなく植民地行政の練達家でもあったガリエニ総督が去り、1905年にはじめての文民総督として着任したオガニュールの施政が確立されつつある頃であった。ポーランの眼には、フランス人男性とマダガスカル人女性との間にできた混血児達にマダガスカルの未来を託そうとさえした理想主義者のガリエニに対し、オガニュールは「誠実で中庸な精神を身につけた有能かつ極めて勤勉な人物」( Cahiers Jean Paulhan 2 ,1982 , p.47)ではあったものの、「彼には、冒険的なところや夢想的なところが少しもなかった」ばかりか「文学をくだらない暇つぶしと見なしていた」ため、「あまり興味をそそるての人間ではない」(ibid. , pp47-48)と映っていた。
  一人総督だけが、ロマンから遠ざかりまた遠ざけられていただけではない。幼いレリスに「異国」を強く印象づけた、ガリエニに従いマダガスカル各地での厳しく血なまぐさい平定作戦に参加した「プロスペルおじさん」(M.レリス 1995 pp.32−33)の個人的ロマンさえ、もはや1907年の旅人にとっては、等しく昔語りでしかなかったのかもしれない[写真参照 1898年平定作戦時のフランス人士官とマダガスカル兵 F.T.M.蔵]。18世紀にマダガスカルに上陸していたのならば、現地の女を娶りインド洋で掠奪を繰り返しながら内紛や絞首台で最期を迎えたキャプテン・キッドたちのような海賊の道、フランスの進出拠点を再構築するとの口実のもとに実際は自らの「王国」を造ろうとしたあげく横死したベニョフスキーのような不逞外人の道、すなわちデフォーやステイーブンスンの小説そのままに血湧き肉踊る波瀾万丈の人生の選択がありえたであろう。あるいは19世紀に訪れていたのならば、自分の乗っていたインドに向かう船がマダガスカル沖で遭難したことをきっかけにイメリナ王国の女王に召し抱えられて銃器や弾薬・煉瓦や石鹸などを造る工房を経営し王国の政治にも深く係わることとなったジャン・ラボルドに体現されるお雇い外国人の道、五年間をかけて内陸5000kmを踏破し『マダガスカルの政治・自然・物質の歴史』全60巻を書き上げたアルフレッド・グランデイデイエーに体現される博物学者の道、すなわち波瀾万丈とまではゆかなくとも自らの手で自らの人生をマダガスカルの地の上で結実させる選択がありえたであろう。自分と自分を投影する対象との間の未知と予測不可能の度合いが大きければ大きいほど、その対象と係わる人生の冒険とロマンの期待値は高くなるが、それらの冒険とロマンの心情がかの地では1907年当時少なくとも中央高地一帯で既に終焉していたことを、タナナリヴで始まった新しい生活を親友のタルドに宛て書き送るポーランの手紙の中に、否応なく見ざるをえない;
  1908年3月2日付け 「僕は、自分専用の家を一軒持ったんだ。広い庭のついたマダガスカル風の古い家さ。各階とも壁紙を張り替えて塗り替えた。あとは空っぽで、ゴキブリとカタツムリと小さなキノコと茹でたカニみたいに真っ赤な大きなクモがいるだけさ。そいつは、僕に会いに来る人達をびっくりさせている。窓からは、はるか彼方に赤土でできた田舎家や大きな沼沢のような水田や赤い丘の連なりが見えるんだ」( op.cit., 1980 , pp.60-61 )[写真参照 1901年当時のタナナリヴの町並み F.T.M.蔵]。
  仮に、この手紙の日付が90年時間を進めた2000年であったとしても、そのことをいぶかしく思う人間はいない。この手紙の通りの家、この手紙の通りの遠景、それらは現代タナナリヴの町のそこかしこに見出される。そして何にもまして、友に伝えるべく記された異郷において始まった新しい生活の静謐とでも呼ぶべき平凡な穏やかさ。そこはもはや旧イメリナ王国の都たるアンタナナリヴではなく、総督府が置かれフランス植民地秩序の中心地たるタナナリヴに他ならなかった。「原住民」との血と硝煙の匂いに彩られた戦闘の日々とも、湧き起こる驚くべき事どもと波乱に彩られた日々とも、およそ無縁の生活をよくポーラン一人だけが送ったわけでは決してない。1908年は、マダガスカルの地に立つ旅人の生としては、フランス軍部隊1万5000人がアンタナナリヴを攻め落とした1895年よりも、2000年の現在と一繋がりであった。
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