穏やかな旅路
  1907年12月10日、23才になったばかりのポーランは、マルセイユからマダガスカルに向け船に乗った[写真参照 1904年レユニオン島に入港した貨客船 ポーランの乗船した船もほぼ同型と思われる F.T.M.(註2)蔵]。当時既に、ルアーヴルから喜望峰経由とマルセイユからスエズ運河経由で毎月マダガスカルへ向け定期客船が就航していたが、ポーランが乗船したのは毎月10日にマルセイユから出航しタマタヴに26日後に入港する運行の正確さで知られた郵便物をも運ぶ貨客船であった( Guide de L'Immigrant a Madagascar tome troisieme , 1899 , pp.3-9 ) 。「私たちが眠っている間にも船は静かに進んで行く。私たちは8時に起きて、朝のシャワーを浴びる。それからは、ご婦人方と打ち興じるか、長椅子に寝そべるかあるいは物思いにふけるんだ」( op.cit. , 1980 , p.58 )と手紙に書かれているように、船はスエズ運河を通り、紅海を抜けてインド洋に出る順調な航海を続け、年明けの1月5日、イメリナ王国時代からのマダガスカル最大の港町タマタヴに入港した。初冬のフランスから着いた南半球のマダガスカルの季節は、雨季のただ中であった。わけても年間降水量3000ミリを超える東海岸に位置するタマタヴの町の一月は、毎日トタン屋根を突き破るような激しい雷雨にみまわれ、一日太陽が顔をみせないことさえまれではなく、しかし時折午前中雲間に覗く紺碧の空から降り注ぐ陽の光はほとんど人の影さえ落としはしない。そんなむせかえるような湿った空気の中にたたずむ屋根に吹き抜けの小窓を設け庇を大きく張り出しあるいは回廊をめぐらせた熱帯植民地形式の家々、旅人木やヤシの葉で屋根を葺き竹で編んだ壁の一間きりの簡素なマダガスカル人の家屋、マダガスカル原産のホウオウボク(いわゆる火炎樹)の枝先に咲き乱れる痛いような紅い花、タマタヴの町並みは、生涯初めての長旅、生涯初めて出会う熱帯の景色として、ポーランに「逃走」の成就をはたして予感させたであろうか[写真参照 1903年当時のタマタヴの町並み F.T.M.蔵]。
  けれども、ポーランの着任を待って外国人中学校が開校される予定であったため、タマタヴの町を散策する暇さえも惜しむように、入港から四日後の1月9日にははや、ポーランは植民地化以前は旧イメリナ王国の都であるとともに総督府の置かれていた中央高地のタナナリヴに到着した。東部の港町タマタヴと内陸の町タナナリヴとは、標高差にしておよそ1300m、道のりにして340kmを隔てている。この街道の旅は、ポーランが着任するほんの12年前のイメリナ王国時代まで、輿・荷物・食糧を担ぐ人夫40人から50人を雇ってキャラバンを組み、熱帯雨林の丘陵や山々を越え河を艀で渡る道を10日ほどかけて踏破する旅行者には負担の大きなものであった[写真参照 1899年当時のキャラバン F.T.M.蔵]。総督府は、イメリナ王国を軍事制圧した直後の1896年から、フランス軍工兵隊の指揮のもとでマダガスカル人人夫を徴用して内陸都市タナナリヴの生命線とでも呼ぶべきこの街道を橋をかけ山を切り崩し砂利を敷く突貫工事によって整備し、1901年には馬車や自動車が通ることのできる近代的な道路として完成させた。1903年からは、自動車による旅客と郵便の全線での搬送業務が始まり、およそ二日間で二つの町を結んでいた[写真参照 1898年タナナリヴ−タマタヴ街道途中の川を艀で渡る自動車 1901年街道途中のマハツァーラの町に設けられた自動車輸送便基地 F.T.M.蔵]。さらに、1901年からは同区間における鉄道敷設も始まり、1909年にはタナナリヴ−ブリッカヴィル間271km、1913年に残るブリッカヴィル−タマタヴ間101kmが開通した(P. Oberle , 1976 , p.75)[写真参照 1903年鉄道敷設現場におけるフランス人監督とマダガスカル人労働者 F.T.M.蔵]。したがって、ポーランは到着時には自動車便でタナナリヴに上り、1910年の帰国時には鉄道便でタナナリヴからブリッカヴィルまで下ったはずであり、つい先頃まで輿による徒歩の移動であった同じ道を時々の最新の輸送手段に身を委ねたその旅路は、あたかもフランス植民地支配が急速にマダガスカルの地に浸透してゆく歴史の流れと重なるかのごとくである。
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