言葉への旅:ジャン・ポーランのマダガスカル
初出:「言葉への旅:ジャン・ポーランのマダガスカル」鈴木雅雄・真島一郎編
『文化解体の想像力−シュルレアリスムと人類学的思考の近代−』人文書院
2000年 pp.321-361 を基に一部加筆・修正

 
「どうして、また?」
「そりゃ、島だからさ」(註1)
あわただしい旅立ち
  1907年11月、ポーランは幼友達であるとともに無二の親友ギョーム・タルド宛てに一通の短い手紙をしたためている;
「それでも、15日以前に君に会いたい。だって、僕は八日後にはマダガスカルに向けて旅立ってしまうのだもの。僕は、タナナリヴの中学校の教師に採用されたんだ。マダガスカルは美しいところさ。そこには、大きなしっぽを持った小さなサル達がやまほどもいるんだよ。ワニもね。君に会いに三回立ち寄ったんだけど、会えなかった。土曜日の午前八時頃、僕を待っていてくれないだろうか。じゃあね。ジャン P.」( Cahiers Jean Paulhan 1 , 1980 , p.56 )。
  この時ポーランは、ソルボンヌで文学・哲学士号を修得したのち兵役を終えた23歳に間近い年齢であった。この頃彼自身が意思して具体化していたこととは、「父親の影響力の許にあったが、手紙のやりとりや議論をとおして彼の思考は、明確でまた洗練されたものとなっていった。その一方、逃走を夢見ていた。そこで彼は、中国での就職を考えて中国語を習い始めていた」( Hommes et Destins Madagascar , 1979 , p.357)ことぐらいである。司書でありながら哲学の本をものしある日突然に生活のあてもなく一家してパリに出てきてしまうような威厳があり尊敬されはするものの怖い父親、気丈なもののパリでの生活に疲れ果てたプチブル家庭出身の母親、そのためにさまざまな仕事に手をださねばならなくなりいささか孤独で夢想的な青少年期を過ごしてきたポーラン、そして生活のために始めた素人下宿に投宿したロシア人アナーキスト少女達との恋と政治活動( ibid.)。そんな生い立ちと家庭を背負ってきたとしたら、思考の独創性・パラドックスへの嗜好・議論の緻密さの点でソルボンヌの教授達を刮目させたとしても、大学卒業と共にポーランの眼前に広がったものとは、父親と同じ道かさもなくば逃走としての旅という二者択一以外にはありえなかったのかもしれない。
  それゆえ、無二の親友に暇乞いをする時間さえないくらいに、マダガスカルへの旅が唐突に始まったとしても、ポーランにとって事態は熟慮の末に旅を決意したこととさして変わりはなかった。ワニや「大きなしっぽを持った小さなサル達」すなわちキツネザルと言った現代のマダガスカルへ旅する人の誰もが抱くのと同じ、そこで自分を待ち受けていてくれるであろう熱帯の自然を予感させるわずかばかりのマダガスカルの事物についての知識に心ときめかすポーランの姿は、少し微笑ましい。
  しかしながら、ゴーギャンのタヒチ、ボードレールのモーリシャス、レリスのアフリカ、アルトーのメキシコ、ブルトンのカリブ、そこが人生の一通過点であれあるいは終着点であれ、それが「逃走」や「脱出」や「異化」の実現や行使であれ、作家と旅との関わりは枚挙に暇がないとしても、防暑ヘルメットに詰め襟の服、ゲートルを巻いた標準的な植民地の官吏姿[写真参照 1910年頃 マダガスカル滞在中のポーランCahiers Jean Paulhan 2 , 1982 口絵写真]でその旅を始め終えたポーランは、いささか異色であった。なぜなら、フランスによる植民地支配がマダガスカルにおいて確立されてゆくただ中、増え続けるフランス人入植者や兵士や官吏の子弟の教育機関として新たに時の総督によって設立された外国人中学校の教授への着任は、フランス本国における教員生活とさして変わりばえのしない堅実ではあるものの退屈な毎日と凡庸な経験しか、ポーラン以外の人間には約束しなかったかもしれないからである。

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