東地中海における人間移動と「人間の安全保障」

研究会報告

2008年度 第1回研究会報告

黒木英充(AA研)
「19世紀シリアの都市をめぐる人間の移動と安全+プロジェクトの小括・展望」

本報告では、まず過去4年間の16回にわたる共同研究プロジェクト研究会・国際ワークショップの足跡をたどり、小括をおこなうとともに、今後1年間のプロジェクト活動の方向性について議論した。

小括と今後の方向性に関する議論は次の通り。

東地中海地域は、その古代からの長い歴史の中で、世界でも有数の活発な人間移動の舞台を提供してきた。(ここでいう人間移動とは、人間の空間的な移動を基盤としつつ、そこに人間の社会移動までをも拡張的に組み込んだ複合的概念であり、以前の「イスラム圏」に関わるAA研共同研究プロジェクトのテーマに依拠したものである。)海は移動の障害ではなくむしろ移動そのものの場であり、港湾都市が発達してきたし、また陸路も街道筋の駅制や宿泊施設などが整備されてきた。一方、東地中海地域は、イスラエル成立によるパレスチナ問題、レバノン内戦、クルド問題、ユーゴ解体・内戦などなど、民族・宗派対立と見なされる様々な紛争・問題の舞台ともなっている。単に「開放的で移動が多いからこそ摩擦も多い」といった理解ではなく、この相反する2面をどのように統合的に理解するのか、というのが本プロジェクトを開始したときの問題意識であった。

この点を確認した上で、19世紀シリアの都市アレッポを対象に、どのような人間移動の実態が観察されるか、そこで「人間の安全」はどのように問題にしうるか、について議論した。人間移動は恒常的移動(行政的、商業など経済的、巡礼など宗教的なもの)、長期的移動(移民・移住、社会移動としての改宗など)、突発的移動(戦役、騒乱、大地震、疫病による人口喪失・移住)といった類型で考察することが可能で、そのあらゆるレベルで安全(アラビア語で「アマーン」)が維持されるよう意識されていたことを指摘した。

それぞれの局面で、安全を保障する者/される者、何(いかなる危険)からの安全なのかを確定しつつ考察することが必要だが、その際に重要なのは「保護」(アラビア語で「ヒマーヤ」)の観念である。イスラーム以前の時代から、遊牧民が自らのテリトリー内を通行する者(旅行者、商人、巡礼者)に対して一定の経済的対価と引き換えに「保護」を与えて安全を保障した契約関係、ならびに古代ローマの時代から地中海地域に特徴的に観察されたパトロン・クライアント関係における優者が劣者を擬制的な親族関係用語を用いつつ、そしてしばしば一定の経済的対価を(契約関係でなく)暗黙のうちに得ながら保護した関係を原型とする。これは上の人間移動の3類型の各局面で問題となった。たとえば、東方諸教会信徒のキリスト教徒がカトリック化した問題(教会合同)と、この「改宗」者に対するヨーロッパ・カトリック諸国の対応の問題は、本来彼らに「保護」を与える者たるスルタンから、ヨーロッパ側が「保護」する権利を密かに簒奪する動きとして捉えうる。こうした個人・宗派単位の保護の問題は、いずれ植民地時代において「保護国」という形で、西地中海のマグレブ地域でマクロに展開することになる。この点については、国家レベルに議論を接合させるのには慎重であるべきとのコメントも出された。

今後、こうした問題に目を配りながら、未発表の共同研究員による報告の研究会を秋に、そしてパレスチナ難民・ディアスポラ関係の小規模な国際会議を2009年1月に開催することを確認した。

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