東地中海における人間移動と「人間の安全保障」

研究会報告

2004年度(平成16年度)

第1回研究会報告

日時:2004年7月17日(土)14:00~18:00
場所:東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所セミナー室(301)



堀井 優(AA研共同研究員、広島修道大学)
「中世アレクサンドリアの空間構成」(報告要旨)

紀元前331年に創立されたアレクサンドリアは、エジプトおよび東地中海の主要な海港都市の一つであり、7世紀以降はムスリム領域の「境界都市」の一つでもあり、とりわけ11-15世紀にはヨーロッパ=キリスト教世界に対する貿易と防衛の重要拠点として機能した。それゆえこの都市の空間構成は、異文化接触の影響を深く刻印されていたはずである。

この都市は、地峡および東西二つの港からなる港湾部と、市壁に囲まれた都市部から構成されていた。東港は外来キリスト教徒の船舶に割り当てられ、その入口には、入港する船舶を監視するため、1479年にカーイトバーイ要塞が建設された。西港はムスリムの船舶に割り当てられ、その入口の大部分は鉄鎖で防備されていた。いっぽう都市部は、市壁に設けられた「海の門」等の諸門を通じて、港湾部および後背地と連絡していた。要するに港湾部と都市部は、いずれも閉鎖性と開放性を併せもっていた。

総督府等ほとんどの行政施設は、都市部の中の、「海の門」から大通り西端にかけての区域に集中していた。マムルーク朝期(1250-1517)のアレクサンドリア総督職は、アミール(マムルーク軍団司令官)が就任する武官職の一つであり、14世紀中葉以降は海港防衛を重要な任務の一つとし、その行政権力は都市部のみならず港湾部にも及んでいた。

宗教施設のうち集会モスクについては、都市部のほぼ中心に位置する東モスクと、西端に位置する西モスクがあり、両者とも元来はキリスト教施設を転用したものだった。エジプトがスンナ派復活の過程にあった13世紀には修道場、学院、墓廟モスク等が盛んに建設され、その多くは都市部の周縁とりわけ「海の門」の北側に配置された。アブー=アルアッバース=アルムルシーの墓廟モスクに見られるように、マグリブ人がこの都市の宗教生活に果たした役割は重要であり、その居住形態をさらに明らかにする必要があるだろう。

商業施設につき14世紀に存在した諸々の市場や商館は、その名称から、商品の種類別に特化したものと、外来者の諸「集団(nation, ta'ifa)」別に割り当てられたものの2種類に大別できる。一般にヨーロッパ商人は、本国・スルタン間で合意された条件にしたがって、集団ごとに居留していた。とりわけ15世紀のヴェネツィア人は、商業活動を円滑に営むために必要な諸権利を慣習的に認められていたのみならず、現地のムスリムや他のヨーロッパ人に対して有力な立場にあった。

15世紀前半のエジプト人の手になる年代記には、ヨーロッパ人・ムスリム間およびヨーロッパ人どうしの戦闘がしばしば記録されており、そのほぼ全ては港湾部で発生した。それゆえ港湾部は、マムルーク朝とヨーロッパ人の諸勢力の及ぶ範囲が重なりあう空間だったといえよう。

以上のような中世の都市構造は、近世のオスマン支配期(16-18世紀)に大きく変化し、地峡に新市街が形成される一方で、市壁内部の諸施設はほぼ消滅した。都市部は移動し、港湾部と一体化したといえよう。その背景として、海上に対する防衛の意義が低下したこと、大型船が停泊可能な海港は一定の貿易機能を維持したこと等を挙げることができる。都市部が移動した要因として、貿易活動上の利便性が考えられるが、新市街の港湾機能や、新市街と後背地との連絡については、さらに詳しい検討が必要である。いずれにせよこの都市がもともと有していた閉鎖性は希薄化し、開放性は継続したといえよう。

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