展示品
[作品25]
■グールーことグル・ムハンマド・ハーン・ギルジー
The Gooroo, or Ghool Mahommed Khaun, Ghiljye 
(英語原文をよむ)

 1841年4月、大いに惜しまれる私の友人、主計総監局のベリュー大尉(1842年にカーブルから死の撤退の際に倒れた)と私自身からなる小さな野営隊は、ジャーンバーズ(命で遊ぶものたち)の騎兵の護衛により、カンダハールにいく途中、ガズニーから30マイル[約48キロ]、西部のギルジー部地域にあるチャパ・ハーナに到着した。そのとき、ギルジー部の全体が武装蜂起しており、そのため、その先に進むことは不可能であると我々は聞いた。グル・ムハンマド(ムハンマドのバラ)あるいは、グールーと彼は呼ばれたが、再び預言者の緑の軍旗を掲げ、ナッカーラ (陣太鼓)の音のもとに、彼の獰猛な部族を召集していた。彼は、キーン卿がガズニーを奪取して以来、絶え間なく我々と戦ってきた部族長であった。ガズニーで彼はドースト・ムハンマド の長男ムハンマド・アフザル・ハーンに2000の兵とともに合流し、そして、我が軍の側面や後衛を攻撃して悩ませ、仇敵で好敵手でもあったシャーの宿営地そのものを攻撃した。彼の今度の目的は、我々の軍を待ち伏せすることにあった。我が軍はカンダハールからの途中であり、カラーテ・ギルザーイーを占領して、防備を固めるつもりであった。これは、ギルジー部の有名な要塞で、彼らの間の争いの種でもあった。これが、我々が通り抜けなければならない地域の現状であり、我々の唯一の護衛隊は同じ紳士達(ギルジー部)から構成されていたため、当面、我々の手厚くもてなすガズニーの第16ベンガル精鋭歩兵連隊の将校たちのところに戻ろうと決心した。このすばらしい連隊の旅行者に対するもてなしは、彼らの食堂に客を迎え、彼らの家に泊め、彼らの持つあらゆる慰安を提供するというもので、遠征全体を通じてよく知られており、皆に、特に私には、大きな感謝を持って思い出されることだろう。

■女性に変装する作戦
 しかし、後退をする前に、我々の護衛と、我々にサラーム[挨拶]をするためにやって来た近隣の部族長たちに、我々とカンダハールの間にある危険な地域を、彼らが安全に我々を送ってくれるかどうかを訪ねた。「バレ 」(はい)彼らは答えた。「バ・サロ・チャシュム 」(我々の頭と目で)「我々は手はずを整えます」。我々のテントは1日中、たくさんの部族長たちで息苦しくなるほどの状態だった。我々の安全を確保するためのさまざまな賢い手だて整え、我々に多額の費用を請求したのち、以下の点で合意した。それは、我々が女性になりすまして、ヴェールやブルカ (ゆるやかな白い全身を覆おう衣装)を身につけ、こうして、ある族長の妻として、族長と一緒にギルジー部の陣営を通過するというものだった。妻としての立場を守るため、我々6フィート[約1メートル83]から6フィート3インチもの大男が、彼のハレムのカジャーワ (ラクダの上に括り付けられた籠で、厚いカーテンで女性たちが外から見えないようになっている)の中で十分に屈んで、我々自身の仲間のところに安全に運ばれるというのである。もし、我々が、がたがた揺れる、息の詰まる、危険きわまる132マイル[約211キロ]の旅をやりのけ、酷暑のなかで、何らかの偉大なカトゥレ・ローズ(殺戮の日)の準備のために誰も我々の敵に寝返らなければの話であるが。これらの「我々の安全のための」示唆は、我々を大いに楽しませた。我々は、重々しい顔をした誠実な友人たちの言葉に、ほとんど耳を傾けることはできなかった。というのは、女性を求めるあるギルジーによって検査のために隠れ場所から引きずり出された時、我々が、鬚を生やした顔で女性のような格好をしてどのように見えるかについて考えたからである。我々は変装をやめ、ガズニーに安全に戻った。

■グル・ムハンマドとの戦い

 すぐにグル・ムハンマドが戦闘を行ったと我々は聞いた。カンダハール軍の前進を聞いて、彼は急いでカラーテ・ギルザーイーから出撃して、そこから30マイル[約48キロ]離れたアスィーヤーエ・エルミーで、ワイマー大佐と彼の少数の兵士たちと遭遇した。一時は5000の騎兵・歩兵を数えた敵軍に対して、大砲2門と、200の工兵、リーソンの騎兵部隊の一翼、400の第38ベンガル軽装歩兵連隊の銃剣兵で立ち向かった。ギルジー部は、夜、突如、我が軍の前に現れ、我が軍は彼らを迎撃した。彼らは、決然と銃剣兵に襲いかかり、剣や長いナイフを振り回して、大きな叫び声をあげた。再三、彼らは撃退されたが、また刀剣を持って近づき、最後には多くの死者を出して追い散らされたが、その前に我々の側面を迂回することに成功した。これらの交戦は5時間続き、1晩中彼らは死者や負傷者を運び出す作業をしていたにもかかわらず、夜明けにこの不釣合いな戦いの80名の死者が戦場に横たわっていた。今回のあらゆる作戦行動は、最大限の根気を持ってなされており、将校と兵士は勇気と武勇を持って行動し、この点に関して世界のどの軍隊にも勝るほどであった。グールーも同じように思い、ギルジー部の戦力は完全に今回のとそれ以前の敗北によって、打ちのめされたので、彼は軍を解散し、我々と会談するために山中のある場所を指定し、名誉ある妥協をして、みずから降服した。

■ギルジー部の歴史
 ギルジー部は、昔、すべてのアフガンの部族の中で最も有名だった。「世界の中心」、ペルシアを征服しただけではなく、彼ら自身の君主を王位につけ、長い闘争の後に失うまでそれを保った。この王家の代表は、アブドゥル・ラヒーム(グールーの祖父)であり、1800年に王位についた。それから、彼らはこの子孫がカーブルの王位に即くよう努力し、ライバル部族であるドゥッラーニー部と敵対したが、ドゥッラーニー部はサドーザイ家をアフガニスタンの国王とした。アブドゥル・ラヒームに率いられ、ギルジー部は頻繁に戦場でドゥッラーニー部と対決し、彼らは数回の戦いでドゥッラーニー部を破ったが、逆にその後の戦いでは完全に打ち負かされてしまった。1802年以降、1839年に我々が彼らの国に入るまで、ギルジー部はライバルから受けた丁重な扱いに満足していたようである。そしてからは、ギルジー部は敵から受けた丁重な扱いに明らかに満足していた。そこでただちに、彼らは異教徒の侵入者を根絶するという共通の活動に加わったのである。

■グール暗殺未遂
 戦場での1000もの危難をあれほど見事に避けたあとで、グル・ムハンマド・ハーンは投降した夜、危うく深夜の暗殺者の1本の剣で冷酷に殺されるところだった。彼の考えによれば、その暗殺者は、我々に下ったこの戦士を担当する将校のテントに、彼を殺害するために忍び込み、短刀をまどろんでいた自分の族長の喉に突きつけたが、ランプの明かりでちょうど発見され、その手を押しとどめた。のちに、ガズニーからカーブルに移るように命じられ、私は1841年の9月29日にグールー本人を紹介されるという幸運を得た。紹介してくれたのはアレクサンダー・バーンズ士爵で、いつもの親切と配慮から、私にこの恩恵を与えたのだ(ああ! これが彼に許された私への最後の恩恵だった)。彼は1月を少し後の、11月3日に殺害された。その族長を訪問する際、私は彼が、2、3の信頼できる味方とともに、カーブルのバーザールにある一つのカールワーンサラーイ に、仮釈放中の国家の囚人として滞在しているのを知った。最初のガズニーに占領に居合わせた何人かの将校たちは、その時、自分たちの後衛を悩ませた軍の指揮官を彼だと見知った。将校たちによれば、彼は戦いにおいて常に目立つ存在で、彼の大きな旗は彼を列から列へ伴い、彼の部族の有力者がその旗のまわりに馳せ参じた。尋問の際に、その日の彼の軍の配置に関するこの将校達の発言が正しいことを、彼は認めた。

■カールワーンサラーイでの会見
 私がカールワーンサラーイの中庭に入っていくと、そこはラクダやラバや一杯だった。これらは、頭と後足をロープでつながれて1列になっていた。袋の山、防御の武器、緑のおよび乾燥した秣(まぐさ)もたくさんあった。ラバ追いや馬丁、カーフェラ・バーシー (カーフェラの長)の輪があり、彼らはタバコを吸ったり、料理をしたり、家畜の世話をしたりしていた。これらは誰か重要な人物のすぐそばにいるという印だった。グールーの名前を聞いたり、近づいたりしただけで多くのものは震え上がってしまうのだが、私が彼の部屋へ続くがたがたする階段を昇ると、自然に不安な気持ちがこみ上げてきた。儀式もなく、彼の前に案内されて、なんと私は驚いたことだろう。彼は控えめな外見の気取らない人物であり、大物ぶりを微塵も見せなかったのだ。それどころか、さらに、彼の部屋はがらんとしていて、全く家具がなかった。彼の従者は私がこれまであったなかで、もっとも野蛮で残忍に見える山賊だった。床に長いむき出しの脚を目一杯伸ばして、彼らは毛の敷物の上にしゃがんだり、寝そべったり、考えられうるあらゆる姿勢を取っていた。彼らの武器は、皮製の盾、長いナイフ、ラッパ銃、湾曲刀、マスケット銃などであるが、まとまって粗末な木製の部屋の仕切りに吊り下げられていた。彼らの中央に、グル・ムハンマドがキルトの上に座り、腕は枕の上に掛けていた。これらは、もっとも普通の種類のものであった。

■グールーの様子
 彼は立ち上がって、大変温かく私を歓迎してくれた。ある通訳を通じて我々が話していると、その間、彼の部下は私にしかめ面をしていた。彼は濃い黄褐色の肌をしていて、高価な薄紫色のカシミヤ製のショールのターバンによって、際だっていた。そのターバンは、彼が公使に降服を申し出た際に着せられたヒルア、もしくは栄誉の衣の一部だと私に告げた(彼は、何があっても、シャーに頭を下げることはない。シャーは自分の敵であり、彼自身も王として、対等でなければシャーには会わないと彼は言った)。彼のターバンはずいぶん下まで額の方に折りたたまれているので、彼の黒いふさふさの眉毛にかかるほどであり、その眉毛は真ん中でつながっていて、彼の鼻柱の方へ降りていた。下から、輝く栗色の瞳が見つめ、絶えることのない笑顔により、きれいな歯並びがよく見えていた。頬、唇、顎は、近くにある漆黒の巻毛の髭で覆われていた。彼は国民的な冬服(ポーステーン)を身にまとっていたが、それは、長い腕のついたなめした羊皮でできた、大きな外套で、羊毛の側は普通体に直接着るもので、外側の皮はたくさんの色の絹で美しく刺繍されている。彼は落ちぶれた状態での彼に対する我々の好意に感謝の言葉を述べ、自分の変化した状況に満足しているように見えた。この証拠として、以下のことについて述べよう。我々の軍の虐殺に加わった血まみれの群衆の手によって自由を得ると、我々の災難の際に我々を攻撃せず、自分の山に退いたのだ! 彼の肖像を描いた後、私は彼に懐中ナイフと、鉛筆、紙、消しゴムをあげて、それぞれの使い方を教えた。驚いたギルジーたちを見るのは面白かった。彼に呼び出されて、彼らはねぐらから起き出して、いかに素早く簡単に線を引いたり、消したりできるかということを一緒に見たのだ。「アジーブ ! アジーブ!」(不思議だ! 不思議だ!)という言葉を口々に言い、この奇跡に心から笑った。私は、また、若く綺麗な少女が恋文を書いている絵も贈ったが、それは彼を魅了した。そして、彼は私の国のすべての女性が同じように美しいかと尋ねたので、私はきっぱりと肯定の答えをして、彼を驚かせた。

■グールーの訪問
 その翌日、彼は、お返しに、私の兄の第13軽装歩兵部隊の宿舎に私を訪問した。彼にお茶をご馳走したが、彼はお茶の中にミルクを入れることを主張し、すべてのことと同じように「バ・ダストゥーレ・アングリーズィー 」(イギリス風で)でやるべきだと言った。彼は、自分の肖像画の下にペルシア語で名前を書いた。そして、我々はたいへん喜んで、この勇敢で、性格のよい、誠実なギルジー部の兵士の見本と別れた。


 
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