展示品
[作品26]
■カンダハールの「雄牛のこぶ」と軍隊駐屯地
The Bullock's Hump And Military Cantonments, Candahar 
(英語原文をよむ)

 カンダハール市のヘラート門より描かれたこの風景画は、[英軍の]カンダハール駐屯地と、巨大な高さで、その上部があの奇妙な形をしていることから「雄牛のこぶ」という名前を持つ丘を描いている。その丘は、ドゥッラーニーの国の北側の境界線となっているパロパミサス山脈の支脈から聳(そび)えている。その左手、その丘が見下ろす位置には、バーバー・ワリー(この地域の著名な聖者)の峻険な山道がある。この道は、アルガンダーブの肥沃な渓谷、アフガンのジャンヌ・ダルクとドゥッラーニー部が占拠している低い尾根(他所で述べられている)、そして古代のカンダハールの遺跡に通じている。王立第40歩兵連隊と第2、第16ベンガル精鋭連隊によって守備されている兵舎は、我々の戦争における活力源、すなわち弾薬、金庫、兵站部などを収容してある都市から1マイル[約1.6キロ]近く離れたところに建設され、これはアフガニスタンにおける我々の軍事計画によく見られた拙策であった。この二つの地点の間の地域には、渓谷、水路、果樹園、囲われた庭園、墓地などが入り交じっているため、敵のゲリラ戦に特に適していた。敵はいかなる時にも我々を完全に都市の守備隊から孤立させることが出来たのである。その上、バーバー・ワリーの山並みの近く、そこから見晴らすことの出来る位置に配置された兵士たちの防御線は、彼らの将校たちの宿舎から4分の1マイル離れているため、突然の夜襲(これは絶えず起きた)があった際、兵士たちがみずからの連隊に合流しようと広い平原を駆け回っている間に、将校の宿舎は兵士たちの防御線から切り離される、もしくはばらばらに壊滅させられる可能性があったのである。兵士たちの宿舎もお互いにかなり離れており、第16[ベンガル精鋭歩兵連]隊の宿舎は、幅の広い運河によって他の二つの連隊から完全に切り離されていた。

■駐屯地の不便
 我々は自分たちの孤立した位置の悲惨さを、十分に感じていた。我々が、敵に対する出撃を命じられたときや遠く離れた地域へ糧食徴発任務に赴くとき、他の守備隊や軍を救援するために長距離の行軍を行なうときなどに、常に我々の宿舎を放棄して輜重(しちょう)やテントその他すべてをカンダハールに運び込なまければならなかったのだ。カンダハールの守備隊が出撃する際には、我々は彼らの任務を代わりに引き受けたため、みずからの兵舎を空にした。そこはしばらくの間アフガン人の占領するところとなり、彼らは我々の部屋を馬小屋に変えてしまい、すべてのものを破壊し、傷つけ、扉や窓枠の木細工を持ち去ったり焼いたりした。これは理不尽な破壊行為であり、当然のことながら我々が帰還してくると大変な不便を味わった。我々の駐屯地が、そしてある時には都市そのものが経験した支配者の交代を説明するために、私は以下の例を挙げることとする。私とともに同じ攻防戦に参加していた将校たちが、私の話の中で犯すかもしれないいかなる誤りをも、寛大に批評してくれる親切さを持ち合わせていてくれればと願う。

■ノットの出撃
 1842年3月7日、ノット将軍は、歩兵6個連隊、リーソンとホールデンの騎兵隊、16門の大砲からなるみずからの兵力のほとんど全体を率いて出撃した。我々の許から逃亡したシャーの息子サフダル・ジャング(戦列を破る)とミールザー・アフマド、その他の有力なドゥッラーニーの族長の指揮下にあるアフガン軍を蹴散らすためである。彼は800名の兵力を持つ第2ベンガル精鋭連隊(駐屯地を退去するよう命令を受けていた)とせいぜい400名に達する程度のシャーの第1、第2歩兵連隊からの分遣隊、扱いにくい2門の18ポンド砲(我々にはそれを牽引する牛がなかった)、塁壁上にあった使い物にならないシャーの大砲一門を後に残していった。この兵力を持って、我々は4マイル以上の広がりを持つ都市を守備し、数多くある門に衛兵を配置し、金庫、弾薬と兵站部の倉庫、城砦、塁壁、病院、住居やその他の公私の不動産を守り、平均して7000から8000名の一つの軍が担っていた細々とした衛兵を出さなければならなかったのである。敵軍は4日間将軍をおびき出すと、1隊を派遣して将軍をさらに遠くへ誘い出し、本隊は気づかれることなく彼の側面を回りこみ、小規模な都市の守備隊に襲い掛かった。9日の朝まで城外の様子は全ていつもと同じく平穏であった。

■アフガン軍の来襲
 しかしその朝、我々はその時、おびただしい数の騎兵や歩兵があらゆる方面から我々の周囲に集結してくるのを確認した。彼らの小部隊は、騎兵や大砲の不足から町を離れることの出来ない我々の不自由な状況に明らかに気づいた様子で、大胆にも、ほとんど防壁のマスケット銃の射程内に入るところまで馬を駆けさせ、剣や槍を振り回し、我々にライフル銃を発射した。彼らは近隣の村々を荒らしまわって焼き払い、ラクダや輜重を運び去った。城門近くでは1、2名を殺害した。この状況はその日1日続いたが、10日に至ってさらに重要な変化が起ころうとしているようであった。おびただしい数の騎兵と歩兵からなる大軍が、別々の山道を通って次から次へとなだれ込んで来た。彼らは、皆、古代のカンダハールの遺跡と我々の駐屯地、そして隣接する村々の間に集結しようとしているようであった。その日1日、数部隊が到着するために、太鼓(ドゥグドゥギー )とマスケット銃の一斉射撃がそれを知らせていた。時折ムアッズィン の甲高く透き通った声音、すなわち信徒たちに対する礼拝への呼びかけにさえぎられた。一方で、騎兵数部隊が、偵察を行ない、城門に対する見張りを配置するために、都市の周りを動き続けていた。我々は即座に穀物や小麦の袋でバリケードを作って門を封鎖したが、このような対策を講じておいたのは我々にとって幸運であった。

■ヘラート門の攻防
 夜が明けると、木材を満載したロバを連れた1人のアフガン人が、ヘラート門の守備に当たっていた将校に対し、自身の生命と財産が敵のために危険にさらされているので許可してほしいと願った。拒否されると、彼は駄獣から積荷を放り出して退いた。これは彼らの都市への攻撃の第1段階だったのである。その小枝の束の中に可燃物が隠されており、それが徐々に燃えてその城門に火を付けたのだ。初めのうち、任務についていた将校はこのことに気づかなかった。厳しい監視を続けていたが、彼のいた稜堡(りょうほ)が小枝の束が放り投げられた入り口の上に大きく張り出していたため、進行している悪事を見ることが出来なかったのである。午後8時頃、我々はマスケット銃の突然の轟きと、それに続く馴染みのある獰猛なアフガン人たちの鬨の声に跳び上がった。町全体が、ヘラート門付近で燃え上がったとてつもない火の海によって、瞬く間に照らし出され。弱体化した連隊を町の広場に整列させ、追加の衛兵を城門や公的な倉庫などへ、100名の一般兵とシャーの第一歩兵連隊の一個中隊を敵の攻撃地点へ、それぞれ振り分けるという作業が一瞬にして行なわれたが、その時二つ目の門が突然火に包まれ、我々は愕然となった。他の門へ向かえという命令を受けて私が馬を駆けさせると、ヘラート門で一進一退の攻防戦が本格的に開始されたのが見えた。

■戦況
 アフガン人たちは、燃える厚板や真っ赤に焼けた閂、燃え落ちた門の蝶つがいなどを引きちぎり、決然とした無鉄砲さで、穀物の袋によって作られた弱くて不完全なバリケードを越えて来た。我々の小部隊が勇敢にも彼らにぶつかってゆき、燃える[穀物袋の]山に登りながら10人の巨漢をも撃ち倒すと、ビヒシュティー(給水係)の助けを借りて燃え盛る袋の火を消したが、その間にも敵は炎に木材や油を投入していた。下がことごとく騒動に陥っていた最中、門の上では、王立第40砲兵連隊の傷病兵と負傷者、それに守備兵たちのうちから選抜された信頼に足る狙撃主たちの一団が、撃退された者達と入れ替わって次々突撃してくる密集した大軍を、大混乱に陥れていた。大軍に大軍が続き、外の極度の暗闇の中、我々が狙いを定めるのを助け、敵の密集した恐るべき戦列の姿を我々に示す唯一の光は、彼らのジャザーエル銃の火の点った火縄だけであった。真鍮製のシャーの大砲は塁壁から彼らに向かって1度発射され、痛烈な効果をもたらした。しかしながら、反動があまりにも大きかったため、稜堡や塁壁を崩落させて我々をその中に埋没してしまいかねないことが危惧されたため、砲撃は続けられなかった。恐れを知らぬ者たちの荒れ狂う海はなおも逆巻き、我々の大砲が照準を定めるところ、我々は吹き飛ばされた者たちの上げる鈍い音が聞えた。砲撃の合間、我々は彼らが死者や負傷者を引きずって運びながら、このような罠に彼らを誘い込んだ族長たちを罵しっているのを聞いた。シャーザーダ、アター・ムハンマドと彼の聖職者たちは兵士たちを騙して、我々の弾丸に魔法をかけたので、全く効き目がないだろうと信じ込ませていたのである。彼らの冒険的精神はマリファナによって酔わされたためであるとも言われているが、いずれにせよ、神人のごとく戦う彼らは、彼らの自称するガーズィーの称号に値する者たちであろう。彼らのターバンや武器、旗などが我々のすぐ近く、「その尖った先端を傾けさせ、大波のごとくうねりながら上へ上へと燃え上がる炎」[Milton, メParadise Lostモ book1]の間や、くすぶる材木の発するぎらぎらした光の中からちらりと見えるのは実に雄大な眺めであった。しかし、1ダース足らずの燃える小麦袋のみが、我々を差し迫った破滅から隔てているのだと思い起こすことは愉快ではなかった。彼らは他の城門への攻撃を試み、ティームール・シャーザーダや全ての良きムサルマーン に対して、都市の内部より彼らに加勢することで天国に上れと大声で呼びかけた(もし不満を持つ町の人々のうち30人でもこれに加わろうと殺到し、わずかに我々を牽制するようなことにでもなったら、我々は全員犠牲となっていたであろう)が、これには何の効果もなかった。

■アフガン軍撤退
 その後、午後1時に彼らは軍勢を集め、撤退していった。我々が驚いたのは、彼らが側面を守る部隊や前衛、後衛を配置し、その他の面でも正規軍の移動方法を模倣しながら(アフガン人にしては)よい秩序を保ったまま撤退したことであった。これは疑いなく彼らへの教育の結果であったのであろう。なぜならば、我々に対して向かってきた彼らの1万に上る兵力のうち、ドゥッラーニーの騎兵とジャーンバーズの騎兵隊はイギリス人によって訓練されてきたからである。攻防戦はほぼ5時間にわたって続いた。ある時などは、危機はすぐそばまで迫ってきており、ミールザー・アフマドとサフダル・ジャング王子がお互いに勝利を祝福したり、各々の族長が運のつきた町から受けるべき取り分はどれほどかほのめかしたりしているのが聞こえたほどであった。この恐ろしい夜の間中、彼らの配下の者たちは死者や負傷者を運び去っていった。しかし朝が来てみると、60名ほどの死者たちや瀕死の者たちが、雌雄を決した門を塞いでいた。その中には2人のムッラーがおり、その傍らにはコーランの章句の刺繍が施され、金箔の貼られた三日月が先端に取り付けられた、緑色の絹製の神聖な軍旗があった。2人のドゥッラーニー部の族長も城門のほど近くで発見された。命をかけた勝負に臨む彼らの決然とした意思を示すかのように、その軍旗は地面にしっかりと固定されており、そばには死んだ馬4頭とその傍らで殺害された騎手が横たわっていた。城壁に向かって黒い小石が山と積み上げられていたが、これは城内に雪崩れこむときに我々に対して投石するためのものであったのだろう。これは、アフガン人たちが恐ろしく熟達した戦闘方法である。駐屯地へ戻る際、我々は800の死体の眠る出来たばかりの墓を発見した。政務情報は彼らの損害を1000から1200名と算定した。

■ノットの叱責
 あの波乱に富んだ攻防戦において我が軍が敗退していた場合、ノット将軍と城壁外にいた我々の兵力が置かれたであ ろう恐ろしい立場については述べる必要もないであろう。そのため、今は亡き司令官がカンダハールに戻ってきた際、 いかに我々の勝利がこの上もない侮蔑と軽視を持って扱われたかということを記録しなければならないのは大変遺憾である。 部隊指揮官は、敵に包囲を許したことについてなじられ、厳しく叱責された。小規模な守備兵は、 怠慢と消極性と兵士らしからぬ振る舞いを非難された。 ヘラート門の守備に当たっていた将校は任務遂行に関して査問にかけられた。 事件のすべては不十分で不当な形で政府に報告されたのである。

 
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