展示品
[作品24]
■カーブルの貴婦人たち
Ladies of Caubul 
(英語原文をよむ)

 このスケッチの中に座っている人物、シャカル・ラッブ(砂糖の唇)は、バーミヤーンの前ハーキム(総督)お気に入りの妻であり、アミール・ドースト・ムハンマド・ハーンの義理の姪である。多大なる好意のおかげで、私はカーブルにおいてバーラクザイ一族の関係者を通じてこの女性に紹介された。アフガニスタンにおいて高い階級に属する女性たちは、ヒンドゥスターンの女性たちと同様、パルダ(幕)の下に置かれているが、彼らはヒンドゥスターンの女性たちよりも人生を謳歌している。なぜならば、彼らが、都市に隣接する霊廟や花園に娯楽を求めて繰り返し小旅行を行なったり、乗馬をしたり、混雑するバーザールをひやかしたり、大声をあげるペルシアの語り手の恋物語に聞き入ったり、買い物や噂話に精を出したりしている姿が見られるからである。このような場合にも、彼女らはきっちりとヴェールをかぶったままである。しかし、人里離れたお気に入りの場所に到着すると、バラーイエ・サイル、つまり気晴らしと娯楽のために、彼らは隠れ蓑でもあり束縛でもあるそれをともに脱ぎ捨ててしまう。私は時折そうした女性たちの集団に突然に出くわしたものであるが、あまりに突然のことに、彼女たちにはヴェールをかぶる間もなければ、驚いた羚羊のごとく飛ぶように逃げ去る暇もないほどであった。そして私は、そうした若い女性たちが際立って美しい顔立ちをしていることを発見した。ただし、ヨーロッパの好みから言えば、彼女らの普通の顔立ちは、口紅や白粉の化粧とつけぼくろのせいでいくらか損なわれていた。

■シャカル・ラッブ夫人
 シャカル・ラッブ夫人はキズィルバーシュの第一級の美人であり、彼女の服装に関して詳述すれば、同国の女性の一般的な服装がどのようなものかわかるであろう。彼女の姿全体を覆っている黒く長い髪は、金箔をかぶせられた100本のお下げに分かれている。頭の後ろには、1列の金貨を飾り付けた金のふちなし帽を被っている。風変わりな細工にはめ込まれた見事な宝石を、鼻や耳から下げている。彼女の目元はソルマ(アンチモニー)で染められている。これは閉じたまぶたの間に大針を引くようにして染められるのだが、こうすると、目はすばらしく褒め称えられるアーモンド形となるのである。彼女の眉は人工的な方法で三日月型にされており、その染料は鼻の両側あたりまで伸びていて、その二つのアーチの間にはショール柄が描かれている。彼女の首や頬にもつけぼくろや紅が点々とつけられ、ヘンナが彼女の手や足、手の爪、つま先を深い茶色に染めている。これらの女性たちは屋内でパイプや刺繍、会話などを楽しみながら時を過ごす。彼らは噂話を非常に好むが、彼女らの生活の主要な目的はやはり化粧である。文字を読むことの出来る者も少しはいる。しかし書くことは、害や陰謀を招くからという理由で非常に不適切な行為であるとみなされている。彼女らの衣服は次のようなものだ。真紅かその他の鮮やかな色の絹やサテンで出来たゆったりとしたブラウス。幅の広い金のレースで縁取られており、胸のところが開いていて、首のところを飾り止めピンか宝石で留めるようになっている。軽騎兵のものに似た木綿更紗の上着。輪やボタンで飾り付けられ、袖口がすぼまっている広い袖があるが、この袖は下に着ている流れるようなブラウスを見せるため、手首のところが飾り鋲によって留められている。豪奢なビロード、すなわちカムハーブ製のズボン。大きな金の帯によって縁取られており、そのつなぎ目には大きな房飾りが付けられている。アフガンの女性たちは、東洋の国々で通常見られるよりも強い権力を夫に対して振っている。この点と、彼女らの屋外の服装については他所で触れることとし、ここでは、我々の美しき友の夫が統治されている名高いバーミヤーンについて簡潔に述べるに留める。私は、かの地の風景画を持っていないが、それ自体非常に興味深く、アフガニスタンの他の地域とは大きく異なっている場所であり、少なくとも注目に値する。またこの場所は、そのままで、あの特徴的な人々、ウズベク人の話の導入部となる。彼らは、バーミヤーンチーを奴隷にし、掠奪をするため、あるいは我々と戦うために、遠くからこの地にやってくるのである。

■ロードと兄のバーミヤーン任命
 ロード博士と私の兄によって構成される政務使節団がバーミヤーンとヒンドゥークシュの北側の地方(インド・コーカサス)に任命された。これは、バーミヤーンがカーブル王国の依然支配する領域のうちの最前線の要衝であるというだけでなく、亡命したドースト・ムハンマドが失った領土を再び訪れるのに利用できる唯一の道であり、またロシアの陰謀が最初に到達するであろう場所だからであった。イギリス人が滞在した最初の4ヵ月間、気温は氷点下14度から18度であり、日中盛んに火を焚いても、40度[摂氏4.4度]にはなかなかならなかった。現地民の慣習に従い、毛皮や羊皮の中で座ったり寝たりしていなければ、誰も生き残ることは出来なかったであろう。

■バーミヤーンの説明
 バーミヤーンは非常に驚くべき場所であり、偉大なる異教の王ゾハークによって創建され、異教徒が住んでいたと伝えられる広大な地下都市の遺跡が存在する場所である。(賢者たちによればこれはパロパミサス のアレキサンドリアであり)、彼らが確定したところでは、広々とした洞窟と地下通路が開削され、二つの有名な像が造られたのは、マホメット[イスラ−ム]教の紀元から800年前であるという。彫像のうち大きい方は180フィート[約55メートル]で、小さい方は130フィート[約40メートル]の高さがある。これらの像は山腹を穿って作られた窪んだ壁龕(へきがん)の中に立っており、風雨から完全に護られて、その本来の色や外見をほぼ完璧に保っている。小さい方の像の足に階段があり、頭部にはかなりの大きさの部屋があるが、このことからこの小さい方の像がどの程度の大きさであるか思い浮かべられるだろう。この像は、言われているところでは女性だということである。これらの巨大な彫像や洞窟、遺物などから、この地の以前の住人はブッダの信奉者であったことがわかる。洞窟もまた大いに語るに値するものである。丘の斜面は奥の方4マイル[約6.4キロ]にわたり完全にそれらの洞窟が占めている。その大部分は小さなものであるが、いくつか、特に彫像に近いものは非常に広く、均整の取れた形をしている。一つの洞窟の内部は長さ20ヤード[約18.3メートル]あり、それにつりあった横幅と高さを持っている。保存状態は非常に良く、漆喰が依然として壁面に付着しており、ある所などは彫刻の施された6フィート[約1メートル83センチ]のコーニス[壁面の突出した水平部分](原形をとどめていると考えられている)が完全に残っている。渓谷の反対側にも、興味深く不可思議な洞窟や、数多くの小さな彫像がある。その上の台地には貴人たちの住居であったと思われるものがある。なぜなら、そこには広々とした上等な部屋や、かなり広い径間にかけられたドームやアーチがあるからである。ドームやアーチのうちのいくつかはほとんど無傷で残っている。ぽつんと離れた小さな丘の上にはグルグラの城があるが、現在では非常に奇妙な遺跡の山と化している。ハザーラの住人から、これらのどの遺跡についても何も言い伝えが残されていないということを知った。

■ドースト・ムハンマド・ハーンの逃走
 ドースト・ムハンマド・ハーンは我々が到着するとバーミヤーンから逃亡し、彼の考えどおり彼の敵と自身との間をオクサス川で隔てようと考え、息子のアクバル、ムハンマド・アフザルとともに、ブハラの残忍な白髪の老王のもとへ亡命した。王は一国の王たるこの亡命者をこれ以上ないほど恥知らずな方法で遇しただけでなく、彼を投獄して、神聖で由緒あるナナワーテー (私は入る)の慣習を破ったのである。この言葉は、アフガン人の間における特異な慣習を意味している。敵に追われていたり、苦境にある者が家に入って来て、援助が与えられるまで食事をすることを拒んだ場合、ナナワーテーの慣習に従えば、、この者を拒絶することは出来ない。もし拒絶すれば、もてなしを怠ったという永遠の不名誉が、援助を求められた者の頭上に降りかかることになるのである。おそらく、アミールは我々の穏やかな提案よりもブハラの裏切り者のした大げさな約束の方を選んだという点で、不運であり短慮だったのであろう。しかしながらマホメット教徒たちが言うには、「ベー・シャック (疑いなく)それは彼のタクディール (運命)だったのであり、彼がアングレズィー(イギリス人)によって自らの王国から追放されることは、もっとも神聖なる人によってはるか昔から予言されていたのである。誰がみずからの(書かれている)タクディールに逆らうことが出来ようか」。

 
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