展示品
[作品16]
■バーラー・ヒサールとカーブル市、英軍駐屯地
Balla Hissaur and City of Caubul, With the British Cantonments 
(英語原文をよむ)

 アフガニスタンの歴史は血によって書かれている。その首都カーブルは、最も悲しい悪名を負う地となったが、それは勇ましく強力な軍隊に降りかかった全くの恥辱と破滅とによってである。それは、みぞう未曾有の災難が続く中、その軍隊の指揮官たちが示した無能さによって引き起こされたのであった。カーブルの名を不朽のものとしようとする筆は多く、その筆を執る者はその仕事にふさわしく巧みであった。すでに多くのことが語られ、また書かれているので、これ以上この都市について描写したところで、おそらくは「語られつくした話」と受け取られるだけであろう。しかしながら、私は、ある場所に対する私の第一印象を、簡潔にでも語らないわけにはいかない。明るくも暗くもあり、また悲しみにも喜びにも満ちたその像は私の記憶の中に鮮明に残っており、決して消え去ることがないかのようである。困難に満ちて不確実な人生の流れが、岩や浅瀬にぶつかりながら、「猛り狂う波と逆風によって底から逆巻いて」[Milton. Paradise Lost, book vii]あがきながらも流れ続ける間は。すでに幾度となく踏み固められた地平に入ってゆくことをこのように弁明したのであるから、ここに示したスケッチについて詳しく述べる前に、数語語るのみでこの興味深い都市については十分であろう。

■カーブルの様子
 アフガン人たちは、カーブルが6000年の歴史を有しており、魔王が天界から追放された時、その地に落下してきたのだと言い張っている。現在の都市はガズナ朝のスルターン・マフムードによって建設された。6万の人口を有し、海抜は6400フィート[約1951メートル]である。街は適切に建設がなされていて美しく、またいくつかのバーザールが一つに集まっている。すべての街路の両側に、木製の骨組みに泥を塗り固めて造られた、さまざまな高さの平屋根の家が続いている。そこここには、彫刻された木製の大きな張り出し玄関があるが、それは貴人の邸宅の中庭への出入口である。そうした中庭の中央には盛り土の高台が作られており、果樹が植えられ絨毯が広げられている。近くには泉が湧き出ている。そこでは、日中の暑い最中、長たちがくつろいだ様子でだらりと座ってキセルをふかしながら、サーランギー 、つまりギターの音色や流れ落ちる水音、ペルシアの語り部の不可思議な物語に耳を傾けるのである。家々は、狭い街路に覆いかぶさるようにして建っている。その窓にはガラスが使われておらず、木製の格子細工のよろい戸となっている。これは押し上げたり押し下げたりすることが出来、たいていはふんだんに彫刻を施してのぞき穴を作ってあるか、さもなくばガズニーにおけるドースト・ムハンマドのディーワーン・ハーナ、すなわち謁見の間の絵[図2]に見られるような装飾がなされている。店々の窓は地面に達する所まで開かれており、陳列された膨大な量の商品、果実、猟の獲物、甲冑、刀剣などは、到底描写しきれるものではない。これらの品々は床から天井まで届かんばかりに巨大な山のように積み重ねられて並べられている。それぞれの店の前には職人が座って、その熟練の腕を振っていたり、あるいは山と詰まれた大量の商品の間から、商人が店を訪れる客たちをこっそりと覗き見したりしている。

■大バーザール
 大バーザール(チャール・チャウク 、 もしくはチャッター)については多くのことが書かれてきた。また、その死が悼まれる故ウィリアム・マクノートン士爵の、辱められ、ずたずたに切り裂かれた遺体が、アフガンの民すべての眼前に晒すため吊るされたのも、その入口においてである。このバーザールは堅固な屋根を持ち、四つのアーケードから成っていて、彩色された羽目板で装飾されているが、現在はほとんど色あせてしまっている。また、元来、水利は貯水槽と泉に頼っていたが、管理がなされておらず干上がってしまっている。この建物ではショール商人が生活しており、そこで色鮮やかな織物を陳列したり、織機で作業したりしている。またここにはブハラの絹売りが居住しているほか、ルース(ロシア)の毛皮や皮革、ウィラーヤト (イギリス)の木綿更紗、ペシャーワルのキムハーブ 、ベナレスのスカーフ、イスファハーン(ペルシア)の短剣、火縄銃、甲冑、ハイバルのジャザーエル銃とナイフ、中国の装飾品、ヘラートの磁器製のバラ水入れ、宝石、絵画、絨毯、フェルトなどが、この上ない驚きと感嘆をかき立てるよほど惜しげもなく、豊富に並べられている。事実、奢侈品であれ、生活必需品であれ、最も気難しい嗜好が求めるどのような商品をも、手に入れることが可能である。その他の、より規模の小さいバーザールは粗い織物の屋根で覆われており、その内部に並べられた果実、花、猟の獲物、ピラミッド型に積まれた氷は、その多様性と小ぎれいさで、工場の製品すらも凌いでいる。それぞれの商いごとに個別の街路を占めており、大勢のせわしげな売り手と買い手のさまざまな衣装が、光景を魅力的にする手助けをしている。薬、タンバークー (タバコ)、香辛料、嗅ぎタバコ、油の商人が占有するバーザールは、店の用いる材料の一つが刺激性の強いにおいを持つあぎ阿魏 なのであるが、そこからは決して心地よくも愉快でもない混ぜこぜになった臭気が発せられている。

■物売り
 街路は非常に狭く、荷を積んだラクダの列が、密集した、うごめいて形を変え続ける群衆を、かき分けて進むのに何時間もかかるほどである。このような群衆は、日がな1日大通りに満ちている。世界のあらゆる場所から来た人間がいる。暑く喉の乾いた群衆をかき分けて、真鍮のカップと皮の袋を持った水売りが、そのさわやかな飲み物の売れ口を見つける。「アーブ 、アーブ」と彼は叫ぶ。「水、甘い水」と、小さな棒で金属のたらいを叩きながら。彼の後には、40人ほどの盲目で頑強な物乞いがよろめきつつ続き、互いに首の後ろや飾り帯につかまりながら、施しを求めて抑揚のない声で叫ぶ。まさに「盲人が盲人を導く」という光景である。その後に、「ラヴァーシュ 、シャー・バーシュ、ラヴァーシュ」(大黄、万歳!)という陽気な叫び声とともに来るのはラヴァーシュ、つまりだい大おう黄売りである。そこには年老いた布地商と茶商人がおり、各々に呼び声や叫びを上げるが、それはロンドンの魚売り女の持つ一対の頑強な肺が出すのと同じくらい鼻にかかっており、また長く伸ばして発声される。群衆の中や外では、きょう経かたびら帷子のようなヴェールをかぶった女性たちが、荷物を数珠繋ぎに結びつけたり、荷物を馬の背に無理やり積むためのよりよい方法を見つけようとしている。感嘆しきりといった感じの聴衆の輪がペルシアの詩人の周りを取り囲んでいる。詩人は、彼自身のものであれ彼のお気に入りの詩人のものであれ、彼は詩を吟じながら精力的に演技し、聞き手たちをあらゆる種類の悲嘆や熱情の中に投げ込むのである。

■族長のお通り
 こうした群衆が突然、誰か権勢を持つ族長の前衛である歩兵たちによって脇へ押しやられる。族長が誇らしげに馬を進め、その後には、きらきらと光り輝く外套と礼服を身につけ、火縄銃や槍を振り回す騎兵の一団が続くのである。人の群がりに一時的に空隙が生じたのに乗じて、ラバ追いや馬追いが、叫び声と鞭の一振りで、緑のシロツメクサやぱりぱりに乾いたムラサキウマゴヤシの束を積んだラバや雄牛、ロバを追っていく。これらの者たちの後を、パードシャー[王]の象がよたよたと歩いて進んでいくのであるが、その前にある魅力的な餌をもぎ取ったかと思えば、その途方もないわき腹で平らな屋根から突き出た送水管を引きちぎり、角を曲がって馬が突然近づいてくると、大きな甲高い咆哮(ほうこう)を上げて果物屋や氷屋のほうに後ずさりしていく。これらの光景はしばしば、ラクダや羊が狭い街路を行ったり来たりして、騎手が馬の方向を変えるのが困難なこともあって、カーブルのバーザールを通行するのを、危険とは言わないまでも不便なものにしている。東方における最もすばらしいバーザールのうちの一つが持つ、決して失われることのない多様さとはこのようなものなのである。

■カーブル再訪
 数ヵ月が過ぎ去り、私はこの壮大な都市に再び入った。私が不在の間、大きく、そして恐ろしい変化が起こっていた。私の以前の友人の誰1人として、私を以前のように迎えてはくれなかった。かつては才能と歓待の心をそなえた地位のある人々の住処であった、破壊された家々と黒く煤けた壁が私の目に飛び込んできた。誰も現れなかった――1人のアフガン人も。この都市は放棄され、その住処は黒く焼け焦げて空になっていた。私たちは街路を駆け抜けたが、その間1人の生きた人間にも会わず、あるいは[虐殺された]イギリス人の血を啜った半野生の犬の吼え声と、閉ざされたバーザールの長くて気味の悪い大通りを通って返ってくる、我々自身の押し殺した声や馬蹄の音の反響以外には、何一つ音を聞くことはなかった。我々の同胞は野蛮な山岳部族の短剣によって悲惨な死を遂げたのである。商人たちは織機を捨て、農夫は鋤を捨て、職人はみずからの技術を捨てた――商いは忘れられた――メロンの花壇も葡萄園も放置された。すべての者が1人の男として立ち上がり、獲物を追う猟犬のように、誰も彼も1人残らず、忌み嫌われ、星のめぐり合わせの悪い外国人の血を手当たり次第流すことに夢中になっていたからだ。我々の接近にともない、彼らは逃げ散り、この都市を脱出したのである。

■絵の説明
 紙幅が不足しているので、付随する絵を簡単に説明することで結びとせねばならない。[イギリスの]カーブル軍はコーヒスターンへの街道に向かって開けた一片の低地に駐屯していた。そこは小さな塁壁の連なりによって囲まれていて、それが道路自体への防壁を形成していた。この防御施設とも呼べないようなものはとても低かったので、小さなポニーでも1人の将校に後ろから支えられれば、簡単に堀を這い降り、壁を越えていくことができた。駐屯地の北方(スケッチにおける南西)に隣接していたのが使節団居住区(公使公邸)である。それは広大な場所を占めていて塹壕で守られた陣営自体よりも大きく、無計画に立てられた使節団や護衛兵の将校たちの無数の家や建物によって周りを囲まれていた。そしてすべての区画は、要塞築城術からすればこの上なくぜい脆じゃく弱といえる防壁で囲まれていた。乱れた隊列の兵士たちの上部、コーヒスターン街道まで広がっている三つの突出した区画は将校たちの住居である。王立第13軽歩兵連隊は[バーラー・ヒサールの前の]一番右端にある建物を占め、第35ベンガル軽歩兵連隊は中央、第37現地民歩兵連隊は左側の建物であり、その側面には、使節団の区画の前方にあって、将軍たちとその随員が占有している果樹園が位置していた。我々の公使と使節団が裏切り行為によって暗殺されたのは、駐屯地の東側のるい塁へき壁から500ヤード[約457メートル]、スケッチの中では第13軽歩兵隊の区画の左方向にある、わずかに盛り上がった高台においてであった。

■駐屯地の位置
 駐屯地はどの場所も丘や要塞その他の建造物から見下ろすことが出来た。駐屯地と都市との間、前者の南には完成されていない軍需品倉庫の要塞があり、塹壕で守られた陣営のほぼ南西方向には、コーヒスターン街道を挟んでムハンマド・ナーイブ・シャリーフの要塞があり、そちら側の部分の堡塁を見下ろしていた。我々の要塞と軍需品倉庫の要塞との間には、その方面の防御設備を見渡すことの出来るバーザールと村があり、より都市に近い場所には我々の兵站部の物品保管所があった。駐屯地の東方には幅が広くて渡ることの出来ない運河があり、その向こう側には都市から流れ出たカーブル川が、コーヒスターン街道と平行して真っ直ぐ流れていた。この方向にあるいくつかの要塞も、この呪われた駐屯地から数百ヤードの位置にあって、最も重要な地点を押さえていた。駐屯地の北方はベー・マールーの村であり、その近くには同じ名を持つ低い丘の連なりがあって、このスケッチもそこで描かれた。我々が最初の大砲を失ったのがこの丘であったが、それを援護すべき第二の大砲も備えられていなかったのである。防御設備の中での大虐殺はすさまじいものであったが、我々の勇敢な兵士たちの勇ましさもまた比類ないものであった。彼らは死を呼ぶガズニーのジャザーエル銃によってバタバタとなぎ倒されながら、准将の命令によって方陣を作り、歩兵による遠くからの放火に抵抗しようとしたのである。ベー・マールー (夫なし)という名前は、そこに埋葬された処女に由来するということである。

■作戦上の失敗
 このスケッチにおける他の興味深い点について叙述しようとすることは私の意図ではない。また、暴動の特徴やその後に続く恐るべき惨事、あるいは勇敢な者たちの英雄的な行動について、詳しく述べる紙幅があるわけでもない。彼らは代表する軍隊にふさわしい大胆不敵さと献身とを持って最後まで戦い、国家の名誉を維持しようと絶望的な努力を続ける中で悲惨な死を遂げたのだが。疑いなく、結果として起こった我々の壊滅は、何よりもまず、半分しか征服されていない国の中心でこのような場所を軍隊のために選んだ、説明しがたい軍事的判断と能力の欠如に帰されるものであろう。この駐屯地において兵士たちは、設計がずさんで広く分散した防御線の各所を取り囲み、見渡すことの出来る要塞、庭園、村、丘、防壁などから浴びせられるすさまじい砲火の集中攻撃を切り抜けなければ、入ることも出ることも出来なかったのである。この大雑把で不十分な報告が寛大なる読者を、この時期の胸を裂くような出来事についてより多くのことを知りたいという気にさせるのであれば、私はその人に、『アフガン虜囚(りょしゅう)日誌』という名の信頼に値する極めて興味深い短編を参照することを強くお薦めする。この作品は、1万7000名を上回る軍隊の壊滅を生き残ることが出来た数少ない人物の一人である、勇敢で才気あふれる将校、ベンガル砲兵隊のヴィンセント・エア中尉によるものである。彼と、不幸と投獄の憂き目に遭っている彼の仲間たちが長く生き、より幸福な目的のために彼ら自身の国の戦いを戦うことが出来ますように!

 
一覧にもどる
一覧にもどる