展示品
[作品15]
■キジルバーシュの長、ムハンマド・ナーイブ・シャリーフ
Mahmood Naib Shurreef, The celebrated Kuzzilbaush Chief 
(英語原文をよむ)

 キズィルバーシュは、力を持ったペルシア系の部族である。ナーデル・シャーとアフマド[・シャー ]の時代にカーブルに定着したが、これらの王の軍や宮廷に仕え、高い地位と実力を得た。彼らは1万2000人に達していたが、その大多数は兵士や、ミールザー[官僚]や、書記や商人などであった。キズィルバーシュの地区はチャンダーワルと呼ばれ、強固に防備を固められ、他のカーブルの地域とは全く異なっていた。キズィルバーシュは侵入者として嫌われており、母が彼らの部族出身であったことからドースト・ムハンマドと常に良い関係を保っていたため、嫉妬の目で見られていた。同様に、彼らの宗教的な信仰からもひどく嫌われた。彼らは暴力的なシーア派であり、預言者ムハンマドの甥のアリーこそがその正当な後継者であり、彼らが、裏切り者や強奪者と呼ぶ3人の最初のカリフ に反対していた。アフガン人は、スンニー派として、最初の3人のカリフを預言者の正当な後継者とみなしていて、アリーのことは拒絶していた。この宗教の教義における相違は、二つの派の間に、最も激しい敵対感情を生み、また、常に流血をもたらしてきた。スンニー派は、経典の民とあることを認めて偶像崇拝のヒンドゥー教徒やヨーロッパの不信仰者を尊重し、彼らに対してはシーア派に対するよりもずっと反感を持たなかった。

■キズィルバーシュの追放
 1847年5月にもなって、アミール[ドースト・ムハンマド]は、キズィルバーシュの忠誠心に疑いを持って、彼らをカーブルから追放すると、また彼らの拠点を攻撃するすると威嚇した。同時に、(彼の不信の結果として)、彼らへの俸給を減額せよという命令を下した。これらの出来事の結果として、彼らとカーブリー[カーブル住民]の間で戦陣を整えた戦いが起こり、約80人の死者やけが人が出た。アミールの息子のうちの2人がシーア派に対する戦いに参加し、彼ら自身の手で数名の首をはねた。

■キズィルバーシュの性格
 キズィルバーシュは政治的立場を変えることをためらわない人たちであった。革命の際にも家でじっとしていて、結末が推測できるようになるまでには、戦いのどちらの側にも立たず、結局、強い側についた。彼らは、顔立ち整った人々で、物腰は洗練されて優雅であるが、冷酷で、不実、うぬぼれが強く、臆病な面があると言われている。そんな彼らの気質の特徴を示す場面を私は見てきた。しかし、少なくとも彼らは一つの美点を持っている。それは、気前よくもてなすことである。彼らの長たちの中に、ムハンマド・ナーイブ・シャリーフ(ムハンマドの神聖な代理人)という人物がいる。1831年、アレクサンダー・バーンズ士爵がブハラへの旅行を行なった際に、彼をペシャーワルからカーブルまで案内した時から、1842年の我々のアフガニスタンからの最後に撤退した日まで、常にイギリスの確かな友人であった。カーブルにおける我々の輝かしい日々にも、大虐殺の際にも、また、最後の遠征で我々が国を取り戻したときも、我々に非常に協力してくれたので、彼は常に命を脅かされていた。じつのところ、彼が1人で行なった一つの献身的な行為が彼の破滅を決定づけるところだった。彼は、哀れな友人、アレクサンダー・バーンズ士爵の辱められた遺体を、怒り狂う狂信者たちの手から救い、真夜中に運び出して、しかるべく埋葬したのである。今や、我々の軍とともに彼の慣れ親しんだ国を離れ、インド政府の恩給受給者として、彼の貢献に対する手厚い手当を享受している。彼は、バーンズがともに旅行した際に描写した性格をよく保っている。「とてもいい奴で、若い男に過ぎないのに、商人として成功して富を築き、それを1杯の酒を手に猟や鷹狩りをすることで楽しんでいる」。

■スケッチの際のエピソード
 1841年、ナーイブがアレクサンダー士爵の家で私の前に座ったとき、彼はできる限りヨーロッパ人のように肖像を描かれたいと切望していた。椅子に座り、自分のターバンを私の制帽と交換し、彼の流れるような衣服を片側にたくし込み、できるだけたくさん彼の幅広いパーイジャーマ(ズボン)を見せた。私は連隊の帽子を被るのをやめるよう説き伏せた。そして、私は今[肖像で]下着を見せるようにしたことについて謝罪しなければならない。なぜなら、すねや足のいかなる部分であっても見せることは礼儀作法上の重大な違反と見なされているからである。着席者は常に外套や上着の裾で足を隠すことに細心の注意を払っている。我々の友人は水で割らないイギリスのブランデーが好きで、3本は飲んだ。彼によれば何の不都合もなくこの量を飲むそうだった。彼はイギリスの芝居が非常に好きで、カーブルの駐屯地で第13軽装歩兵連隊が上演した際、招待された。おかえしに、彼は、洗練されたものではないが、アフガン演劇の実例を見せてくれた。私たちは、彼の町の屋敷で、ワインと夕食の宴を持ち、そのあとはダンスと音楽だった。また、彼の田舎の邸宅では、大きな柳の木の下で野外園遊会も開かれた。

■肖像画の説明
 このようにヨーロッパ 人の趣味に迎合することで、我々のホストはしばしば危険にさらされた。カーブリーたちしばしば彼を待ち伏せて、殺そうとした。我々が、カーブルの通りで武装した従者たちを連れて、馬に乗った彼に会った時、彼は「もう一度万歳!」「卵酒と淑女達!」「それ行け、フレー!」と我々に挨拶したものであり、流行の英語の悪罵でこれらの表現に変化をつけたようだ。この肖像では、彼は、夏の間カーブルの紳士が通常着用する緩やかな形のモスリンの服をカミースの上に着ており、我々の友人が着た平織綿布の外套は着ていない。彼は整った顔つきで、著しい特徴があり、豊かな表情をしていた。彼の目もとは全般にスルマ でうっすら染められており、長い髭は聖なる色、赤に染められていた。しかし、このハーンが(彼の名前から予想されるように)聖なる称号を主張できたのかについては、良き友情と同じくらい私は疑問を持っている。彼のペーシュヘドマト(小姓)はアーフターバ (水差し)と口の広い水入れを持って控えている。この小姓は、ペルシア(イラン)の国民帽である黒い羊皮の帽子を被っているが、てっぺんの口から赤い裏地が覗いて、舌のようになっている。これからキズィルバーシュ、即ち赤帽という言葉が生まれたのである。

■『デリー・ガゼット』の記事から
 [本書が]印刷所にまわったのち、1848年2月2日付の『デリー・ガゼット』がこの信頼する友人の死を伝えており、私は大変残念だった。しかし、以下の簡潔な生き生きとした彼の描写が彼の肖像画にさらなる趣向を加えることになると考え、これをこの説明に躊躇せず加えた。
 「ペシャーワルは、12月21日、深い悲しみに包まれた。キズィルバーシュのナーイブ・ムハンマド・シャリーフは、最初から最後までアフガニスタンにおけるイギリスの権益を常に支えた数少ない1人であった。最初は、1831年にA・ バーンズ士爵がカーブルを訪れた際、彼の友人や仲間として知られた。カーブルを我々が占領している時、彼は兵站部のために非常に働き、彼の家とテーブルは常にすべての将校に開かれていた。全権特命公使から最も若い連隊旗手に至るまで、皆彼の歓待にあずかり、それは真昼のように開けっぴろげだった。当時、彼は禁じられたブドウジュースを自由に飲みながら暮らしていたが、亡くなる数年前に、やめると誓い、彼の言葉によれば「タウバ・カルド」 。あの反乱が起こったとき、今は亡きトレヴァー大尉の周りに最初に馳せ参じた一人であった。もし、彼の助言が受け入れられていたならば、最初の小さな暴動に対して全く異なった結果となっていたであろうと、この短い追悼文を書いている著者には、信じる理由がある。英軍が2ヵ月間駐屯地に籠もったときも、彼はあらゆる可能な方法で英軍を支援し続けた。私財から多額のお金を前払いし、個人的に大きな危険を冒して、捕虜達と連絡を取り、彼らに衣服とお金を送った。この捕虜の解放の計画は彼から出ていたのに、別の者がすべてを自分の手柄にし、その利益を得た。著者はこの捕虜の中に1人も存命のものがいないことを確信しているが、もしいたならば深い悲しみを持ってこの知らせを読むだろう。」(ナーイブ・ムハンマド・シャリーフは彼の優れた功績により、月に400ルピーの恩給を受けていた。それは、彼の家族に継承されることが期待されている。――デリー・ガセット編集)

 
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