展示品
[作品8]
■ギルジー部の要塞、カラーテ・ギルザーイー
Kelaut-i-Ghiljye, the Stronghold of the Ghiljyes 
(英語原文をよむ)

 ガズニーとカンダハールの間、カンダハールから81マイル[約130キロ]離れたカーブルへの主要道路沿いにある岩だらけの険しい高台に、カラーテ・ギルザーイー要塞が聳(そび)え立っている。我々は、この要塞を最初に占領したとき、要塞のいかなる防御施設より、その自然の立地条件ゆえに、堅牢かつ重要であるということを理解した。その当時、この要塞を保有する幸運なギルジーの族長が、他の長たちの嫉妬の的となっていたほどであった。しかし、他のどの駐屯地よりもはるか遠く、鋭く突き刺すような風にさらされ、また猛烈な砂嵐に見舞われるカラーテ・ギルザーイー。見渡す限り、さながら冬の大海の巨大な波がその恐るべきうねりの途中で突然凍り付いてしまったかのように、混沌とした無秩序さで重なりあうむき出しの断崖や、途方もなく険しい隘路と渓谷に取り巻かれ、高く聳える山々の帯によって囲まれ、そしてそのすべてが不毛さという呪いに苦しめられているカラーテ・ギルザーイーは、決して心地よい兵営とはいえない。私が記述の対象としている時期[1841年11月以降]、その地の守備兵はクレイギー大尉の指揮するシャーの歩兵連隊、銃剣兵600名と、第43ベンガル軽歩兵隊の250名、砲兵40名、地雷工兵と土木工兵合わせて60名であった。彼らは少数であったが、今までアフガンの山々を登攀した兵力の中で間違いなく最も勇敢な者たちであることを示した。6ヵ月の間、彼らはカンダハールの味方と同様に、他の要塞との通信を完全に断たれてしまい、ただ彼らに降伏を要求するギルジーたちから、カーブルの恐るべき惨劇について聞かされるのみであった。しかしその後、1842年5月、彼らはギルジーたちをまことに目覚しく打ち破ったのである。

■要塞の防備工事
 1841年11月、クレイギーは兵営に入った時、要塞の防備工事が始まったばかりで、堡塁のうち100ヤード[約91メートル]分は防壁も堀もない状態であると知った。カーブルとガズニー陥落の知らせを受けると、彼の指揮下の将校と兵士はじつに真剣に防御施設の強化に取り掛かり、それは雪と霜によって作業が中断されるまで続いた。退屈な冬の間、彼らは酷烈な気候に非常に苦しめられた。温度計は氷点下40度[摂氏4.4度?]を示し、彼らの兵舎には窓や扉とてなく、燃料の補給は心もとなく、現地の兵は通常の4分の3の糧食、将校と砲兵はパンと水だけで何週間も過ごさねばならなかった。

■春の訪れ
 12月の初め、彼らは1500名のギルジーによる攻撃に見舞われたが、深い雪によって彼らはすぐ退却を余儀なくされた。この孤立した場所に春が訪れるとともに、守備兵たちは新たに防御施設強化のための労働を開始した。なぜならば、春の訪れとともに、族長と彼らに引き連れられた近隣のギルジーの二つの大部族が到着したからである。彼らは初め数百の手勢しか引き連れておらず、防壁から無難な距離を取って野営した。4月以降、彼らは大胆になり、その距離を要塞から1マイル[約1.6キロ]以下に縮めるまでになった。彼らが、そのゲリラ的な戦い方に適した谷間を徐々に接近してくると、守備兵たちは防御施設の中に立て籠らざるを得なくなった。これら防御施設は、彼らの絶え間ない労働により非常に立派になっており、アフガン人も大砲なしで攻略を試みることはないであろうと彼らに思わせるほどになっていた。

■塹壕による包囲
 しかしながらこれについては、彼らは小気味よいほどに裏切られることになった。敵は今や彼らを、数日かけて掘り進めていた塹壕の中に完全に包囲したのである。塹壕は最も近いもので防壁から250ヤード[約229メートル]のところにあり、すべてに銃眼が施されていた。その位置も巧妙に構築されており、前方の塹壕が後方の他の塹壕により護られ、大地が与えてくれるあらゆる天然の遮蔽物を最大限に利用できるよう配置されていた。これらの塹壕から、誰であれ姿を現した者に激烈な砲火を浴びせかけてきたが、彼らは明らかに選り抜きの狙撃手で、700ヤード[約640メートル]の距離からその長いジャザーエル銃で完全な精確さで弾丸を放った。このようにしてギルジーたちは完全に身を隠していたため、守備側は塹壕内で敵部隊が交代する時を除いてほとんどそのライフルを用いる機会がなかった。しかし、敵は一番近い塹壕に入るのにも、何丁かの2連発銃の射撃の中をくぐり抜けずに行けるということはほとんどなかったのである。5月20日の夜半、敵は不自然なほど静まりかえっており、既に撤退したのかと思われた。が、望遠鏡で悪党どもが遠方にある要塞を梯子を利用して攻撃しているのが発見された――彼らがそうした目的のために梯子を造っていたということを我々が初めて知ったのは、この時であった。その夜は月夜であり、同じような不自然な静寂の中、時は過ぎていった。

■ギルジーの攻撃
 しかし夜明けが近づき、ちょうど月が沈んでゆこうとする時、当番の将校が騎兵の馬蹄の音を聞きつけた。たちまち堡塁の北面全体が、密集したギルジーの部隊に攻撃された。あまりに暗かったので、すべての兵が見張り台に配置されていたにもかかわらず、彼らが100ヤード[約91メートル]の距離に近づいてくるまで見えなかったのである。そして、彼らが「アッラー! アッラー!」の雄たけびとともに非常に果敢に殺到してくるのが見えた。彼らは猛烈な砲火を受け、それは彼らの密集した群れに手ひどい損害を与えたに違いない。しかし彼らは前進し、一番登りやすい防御施設の角に最も猛烈な攻撃を加えてきた。彼らは攻城梯子の助けを借りて北東面から堀を渡り、8フィート[約2メートル43]の急斜面と、斜面と胸壁の間にある8フィートの傾斜した土手を這い登り、胸壁(砂袋で構築されていた)を乗り越えようとしたが、銃剣とマスケット銃に迎撃された。彼らは3回攻撃を仕掛け、大砲(同地には2門が配備されていた)の一つの砲口近くに軍旗を立てたが、3度目にして彼らは撃退された。1人のギルジーだけが[胸壁を]乗り越えるのに成功した。彼は大砲の砲車の車軸の上にいたところを射殺された。攻撃側は決然として銃眼の間を這い登り、胸壁を乗り越えようと試みたため、砲兵たちもみずからの大砲を放棄してセパーヒーたちが敵を銃剣で攻撃するのを援護せねばならなかった。セパーヒーのうちの1人が誰の助けも借りずに4名を串刺しにするのが目撃された。守備兵の多くは、ギルジーたちが寸分も狂わぬ必殺の狙いで放った石つぶてに打ち倒され、傷ついていた。概してギルジーたちはほとんど銃を撃たなかったが、それは彼らが、攻撃が最高潮に達する中みずからの火縄銃をほうり捨てて短刀や三日月刀を手に殺到してきたからであった。彼らの大胆さは驚くべきものであった。カーブルでの戦果は、彼らに非常に強い自信を与えていた。現に、ギルジーの女性たちは、要塞の略奪品を分配しようと、すぐ近くの谷間で待機していたのである。攻撃は半時間近く続いた。

■ギルジーの撤退
 夜が明けるとともにギルジーたちは撤退した。午後2時に至るまで、彼らは死者や負傷者を谷間から引きずっていくことに専念していた。それから、2個中隊が彼らを撃退するために放たれた。しかしこれには効果はなかった。彼らはいまだに戦場に800騎の騎兵を有していたが、守備[英軍]側にはこの部門の兵が欠けていたからである。140の死体が防御施設のそばに取り残され、行政筋の情報から確定されたところでは、彼らの死者は総計で400名以上だった。死者の体からはガズニーの薬包が数多く発見された。彼ら自身が数えたところでは、攻撃側の兵力は6000から7000であり、兵力の3分の1を提供したホータク・ギルジーの族長ミール・アラムの家令の遺体からは、2000名に上る彼の部隊の召集名簿が発見された。

■カンダハールからの救援
 5月26日、孤立した要塞はカンダハールから来た旅団の救援を受けた。我々が近づいていくと、カラーテ・ギルザーイーの高台で英国の旗が、奪取した旗の上に掲げられて誇らしげにはためいていた。それは記憶に残る日であった。栄光に満ちた邂逅である。再び会うことなど夢にも思うことのなかった古い仲間の戦士たちが、私の手を強く握った。戦死したか、カーブルで捕虜となったと嘆き悲しんでいた友が生きているのを見、また安全で健康であると聞いた。1人1人が九死に一生の脱出を物語らんとし、おのれの戦闘を「もう一度戦わんと思う」と言った。数多くの愛情のこもった冗談が、今までに亡くなった古き友について交わされ、互いの隊列の間に古くから見知った顔を見つけると、暖かい祝福がなされた。このようなひと時の楽しみの中でも、我々の勇敢で、いまだ埋葬されていない死者たちが忘れ去られることがなかった。数多くの苦いため息が吐かれ、数多くの厳粛な祈りが捧げられ、兄弟、同志、そして「古くからの友情の友」の運命に対する、復讐への厳かな誓いがやり取りされた。「彼らの血の声は」、アベルのそれと同じように、カーブルの暗く深遠なる「大地から我々に呼びかけるのである」[旧約聖書『創世記』4章10節]。このような快活のときは、苦しみによって乱されていないわけではなかったが、何ヵ月もの物憂い期間に感じた苦悩や不信を補うものであった。

■カンダハールへの帰還
 兵舎と防御施設を破壊した後、我々は6月7日にカンダハールに帰還した。今や少佐となったハケット・クレイギー大尉と彼らの優秀なる兵士たちという、我々の軍隊のうちでも特に勇敢な部隊を加え、まさに誇らしげに、である。彼らはその孤立した拠点を要塞化して非常に勇敢で圧倒的兵力を持つ敵を相手に防御し、最も経験をつんだ古参兵でも太刀打ちできないような手腕と勇敢さとをもって、ついには彼らの強烈な攻勢を断固撃退してみせたのである。

 
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